3P




 

 応援する代議士とボランテイアの面々                     




  仲間と3人で、選挙区外の代議士を応援し、ポステイングのボランテイアを月2回で20年以上やってきました。残念なことに2013年6月にその仲間の一人が先に旅立ちました。

 大幡・高岸・服部のメンバーより大幡関根・服部の新メンバーで、もう老年ですが続けてやっていきたいと思います。このページはメンバーの新3P・コーナーです。

 かってメンバーでまとめて代議士に提案いたしました構想です。



     緊急援助隊拡大構想       

 


 

旧 3P

 


 

 

 

 

 

項目


 




1.  関根




愛国心の源流

冷徹なる同盟感を持とう

システムはすべて複雑系

原発から生まれる放射性廃棄物

新島襄から学ぶべき教育精神




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3.  落合
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 零戦に寄せる思い



 



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2.  大幡

 

このブログの作者である大幡高通さん93歳が一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

2022年4月5日


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ドミトリー・ドンスコイ

戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ

B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲
 目撃者は語る

映画 フューリーによせて 1  映画のうそ

映画 フューリーによせて 2 極大射程

ミッドウエイ トリビア

ミッドウエイ 2

タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

映画 ベルファスト71を見て民族浄化・過激派テロ行為の祖

B-29誕生物語とB-15,B17

B-29・勤労動員・伝単

B-29 東京焼尽3月10日 内田百聞

追補 東京大空襲は被害の低減ができた?

T.W(タウンウオッチ)赤坂見附・プリンスホテル(赤プリ)・惑星ソラリス・李王妃

ノルマン 1

ノルマン 2

ギガント・メッサシュミット・マンシュタイン    

B 2 9 撃ち落した物 遺した物    


因果は廻るオリンピック-1  ベルリン・東京・ヘルシンキ

 幻のオリンピック-Ⅱ  東京大会(夏・冬)万博・皇紀2600年

  因果は廻るオリンピックーⅢ ベルリン・(東京)・モスクワ・北京


    亀沢町・思い違いの数々勝小吉と割下水  
                                  
 巨人ー洲崎・後楽園・ドーム球場

本所菊川町と2・26事件そして高橋是清

 東両国 その1 両国国技館・双葉山69連勝そして宮城野部屋

東両国 その2  風船爆弾・花火・植木等

志摩電鉄・タブレット・荷客輸送

富士山登頂・軍事訓練・戦時風景

ダンケルク

ラパロ条約と密約

明治維新の裏方   フルベッキと大隈重信

登戸研究所  法幣  風船爆弾     

御茶ノ水・小赤壁・グリ-ン車

お知らせ

 

 

 


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   1.  関根

 

 


    愛国心の源流  
                   関根

19世紀の後半に白人の西洋帝国主義が壮絶を極めるなか、アジア・アフリカの中で私たち日本だけが西洋の帝国主義の脅威を跳ね返し、忽ちの内に近代国家を築くことに成功しました。白人が覇権を握っている世界の中で、日本は有色人種としてただ一国だけI等国になることが出末ました。


 なぜこのようなことができたのか。それは国民が旺盛な愛国心に溢れていたからです。即ち、一族よりも公を大切にしたからで、儒教の本場中国で最も大功な価値は親孝行の孝で、今でも公より一族を大切にする。中国文化と日本の文化の大きな違いです。


 日本は万世一系の天皇を戴いて、今日まで末ました。対して中国では易姓革命*といって王朝が頻繁に交代しましたが、日本では天皇を中心にして国民が団結をしてきました。


 これに対して、中国やあるいは朝鮮では、王朝と民衆は常に対立関係にあり、どの王朝も贅沢を極め、民衆から収奪、搾取することを練り返してきました。


 今私たちは近代以降、3回目の国難に見舞われています。幕末から明治にかけて1回目の国難でした。2回目の国難が先の大東亜戦争での敗戦でしたが、国民はうちひしがれることなく立ち上がってきたと実感しています。


 冬は必ず春となる、より良い国を目指して平成の龍馬が出現する夢を持ちたいものです。


                  (2010平12月)






    冷徹なる同盟感を持とう

                        関根
  

 日米関係を見ると、ペリー来航以来、日清・日露の戦争までは比較的良好な関係が続いた。これがいつからおかしくなったかといえば、日露戦争ではないか。日本は日英同盟を結びロシアと戦った。ルーズベルト米大統領は背後で応援するのですが、ポーツマス条約締結時になると、彼の態度はおかしくなるのです。


 彼には日本は危ないという警戒心が芽生えたのです。それから満州というマーケットを巡って日本と米国が火花を散らし始める。日米関係がおかしくなる一つ目の出来事です。


 そしてもう一つ、移民問題です。満州の市場を巡る問題と人種的偏見に対する反感、この二つが日露戦争の後に急激に日米間に登場してきたのではないかと思います。


 なぜ英国が同盟を結んだか。極東でロシアが南下し日本と衝突、日本が負けたら上海周辺の英国の権益は時間の問題で潰されてしまう、大変だ、とむしろ英国の方が日本と手を組まざるを得なかったのではないか。


 コインは一方向からだけ研究しても全然ダメで両方から光を浴びせる必要がある。特に国際関係で同盟とは、いわば政略結婚であって両方にプラスがあるから締結するものです。そして 日英同盟を結び日本は日露戦争に勝利しました。 第一次世界大戦が起こると、日本に参戦を当初求めていた英国が、途中から消極的になってしまう。それは米国から「日本を参戦させるな」との圧力を受けているのです。


 第一次世界大戦が終わり、軍拡を抑えようという名目でワシントン会議が開かれ、ここで日英同盟が廃棄される。英国との関係が切れ、米国は日本に敵対し、中国を支援する。


 日本対英米中の対立の構図に静かに転換していき、その延長線上に敗戦の悲劇を我々は味わったのだと私は思います。


  今の国際関係のなかで、日本はどうしたらいいか。危機感が日本にない。米国が今言っているのは、台頭する中国を日本はどうするんだと聞いても日本人はピンと来ないということです。今でも名目で中国の軍事費は日本の防衛費の3倍から4倍、今世紀末には30倍にもなる。どうするんだ。それを誰に聞いても日本人は、中国は嫌だというだけで、具体的にどうするかわからない。 できれば日本が自己完結的な大軍備を用意したい。ところがこれはできない。では米国につくのか、中国につくのか、理想は自主独立で米国との対等同盟を結ぶことだが、大変長い期間がかかる。今の選択は日米同盟の強化しかない。中国とは即対決とは言わないが、いざという時には対決の覚悟を決めていないとどうにもならなくなる。


 アーミテ―ジ報告で10年前、日本に憲法改正して下さいと言ったにもかかわらず、日本では1ミリも動いてない。ならば、強い国との間で決めてしまおうという国際秩序になりかねない。昨年9月の民主党代表選では外交・軍事について一言も言わなかった。
 
 政治は劣化しましたが、私は、必ずしも日本の将来に悲観はしていません。日本人は危機を悟った時は必ず団結してきました。歴史がそう語っています。


 今は国がどうなっても次の選挙に俺は受かりたいと思っている政治家を選ぶ票を持っているのは我々です。希望はまだまだあります。






   

   システムはすべて複雑系

          関根 

  
 2008年9月のリーマン・ショックは、金融システムの崩壊と言われていますが、そもそもシステムというものは極めて複雑でわかっていないことばかりなのです。
 システムが複雑、というのは言いかえれば「ものごとは、ああすればこうなる、というような簡単なつくりになっていない」ということです。
 近年、「複雑系」と表現されているのも、簡単にいえばこういうことなのです。
ご存知の通り、生物はもっとも複雑なシステムですが、そのことはほとんど理解されていないように思います。システムの複雑さをよく示しているのが、当時、テレビや本で話題になった「奇跡のリンゴ」です。木村秋則さんという青森県の生産者が作るこのリンゴは、農薬も肥料も一切、使わないのに、十分な質と量を誇っています。
 これまでリンゴを育てるにあたっては、さまざまな肥料や農薬といった科学技術が開発されてきました。最新の技術を駆使したほうが、一般的には、良いリンゴがたくさん採れるとされてきました。私もそう思っていました。
 ところが、意外にも木村さんのリンゴが示したのは、「結局雑草は生やし放題、肥料をやらなくても、立派にリンゴはできる」ということでした。
 ごく短期的にみれば、肥料や農薬を駆使したほうが収穫が上がるかも知れませんが、長い目でみれば、大して変わらないといいます。
 もちろん、自然のままにしたほうが土地の力は失われないことであり、化学肥料や農薬に手間と金、労力がかかるだけ損だということです。
 「害虫がいるから排除しよう」「樹が元気になる栄養を増やそう」、そうすれば収穫が増えるだろう、というのは「ああすればこうなる」式の考え方です。実際に試験管の中で実験しているぶんには、それは正解なのです。
 ところが、実際のシステム、この場合は生態系はそんな単純なものではなかった。
その複雑さをよく理解していなかったから、あれこれ人為的に手をかけたほうがいい、という誤解をしてしまったのです。
 つまり、「部分的な正解は全体の正解にならない」というのはシステム論では当然の原則になっているのです。
 経済政策でも「こうすれば絶対こうなる」というような正解はないはずです。
 もちろん、景気対策、恐慌回避のために何兆円もつぎ込むことが絶対に無駄だというつもりはありません。どうなるか分からない以上、やってみるしかないという面はあるわけで、やってみて駄目ならば元に戻せばいいのです。
 大事なのは「駄目ならば戻す」ことができる範囲でやることです。経済や政治というの
はしょせんは人間が作ったものだから、戻せます。
 一方で自然が相手だとそうはいきません。元に戻せないようなことをするのは自然への冒涜であり、それは許されないことだと思います。

        2011年10月








    原発から生まれる放射性廃棄物

                  関根

  
未来の地球の安全を問いかけるドキュメンタリー映画「100、000年後の安全」が2011.3.11東日本大震災以降、同年4月から緊急公開されました。


  放射性廃棄物は、たとえ事故が起こらなくても、毎日世界中の原子力発電所から大量に発生し、暫定的な集積所にどんどん貯まっています。 世界には少なくとも25万トン以上の高レベル放射性廃棄物が既に存在し、北欧フィンランド以外、最終処分場は決まっていないという実態があります。使用済み核燃料に含まれるプルトニウムの半減期は2万5千年。更に生物にとって安全なレベルまで放射能が下がるにはおよそ10万年かかるといわれています。
 危険な放射性廃棄物を10万年間、人間が管理することは可能なのか?
映画は、北欧フィンランドで建設されている世界初の高レベル放射性廃棄物最終処分場を描き、私たちに核のゴミ問題を問いかけています。
 一方、東京電力・福島第一の原発事故後、日本では日増しに高まる「脱原発」の世論。


原子力発電所からでる使用済の核燃料をリサイクルし、半永久的に使い通す、という国が策定した「核燃料サイクル」に従えば、核燃料再処理施設が集まる青森県・六ケ所村は、「夢のエネルギー」論を担保する、眼に見える「実態」に他ならなかった。
もし、青森県・六ヶ所村という「実態」がなければ世界有数の地震国に、次々と54基もの原子炉を建てることもかなわなかったはずです。
しかしながら、東日本大震災による原発の大惨事を受け、2016年の完成を目指していたウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料工場の工事が止まり、念願の稼働を目前にしていた再処理工場は、最終テストの目処が立っていない。


 因みに、再処理工場の施設群を運営するのが1992年に誕生した「日本原燃」。東京電力を筆頭に関西電力などがつくる業界団体「電気事業連合会(電事連)」が出資者です。
尚、再処理施設は、あくまでも一時保管場所で最終処分施設ではありません。日本のみならず多くの原発推進国でも最終処分施設は目処が立たないままなのです。俗に言う原発が「トイレのないマンション」と揶揄されるのはこのためである。
国内で原発が稼働するかぎり、青森県・六ヶ所村は永続的な繁栄を約束されたわけで、日増しに高まる「脱原発」の世論、原発が止まれば再処理施設も自ずと不要になる。
着工から20年、トラブルが度重なって、1997年の完成予定はとうに過ぎている。先行して、各原発から受け入れた使用済核燃料は再処理できぬまま、すでに中間貯蔵施設の9割のスペースを埋め、もう受け入れの余裕はなかったようです。
現在も建設中で、未完成の再処理施設は、足踏み状態がつづき、費用も計画時の3倍近くまでに膨れ上がっています。同時に使用済核燃料の最終処分場受け入れ先の問題があります。前述のフィンランドでは、高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場の建設を決定しています。翻って考えてみるに日本はどうするのか注視したい。


                   (2012年3月)

 







   新島襄から学ぶべき教育精神

                      関根
  


                       


 最近、日本海(竹島)、東シナ海(尖閣諸島)が騒がしい。自国の利益を最大限に主張し、相手国のことなど考慮しない、あたかも帝国主義がよみがえっているようです。


 一般に帝国主義国は、相手国が反発し、国際社会からもひんしゅくを買って、結果として不利な状況が想定される場合だけ妥協し、国際協調に転じる。明治時代の日本人はこのような国際政治のゲームのルールを理解したうえで適切な対応をしたので、日本は欧米列強の植民地になる悲劇を免れました。


 この経験から学ぶことが21世紀に日本国家と日本人が生き残るために必要と思います。
さて、真の国際人であり、かつ真の愛国者をつくる教育という観点で、同志社大学を創設した新島襄から学ぶべきことが多い。新島は、日本国家を強化するためには何よりも教育が重要と考え、政府も教育の重要性を認め、学校制度を整えました。


 しかし、新島はそこに根本的な欠陥があると考えました。それは、知的、物質的な成長を促すものではあるが、道徳的な成長を促すことはないと。すべての東洋の国々は殆んどの場合自由とキリスト教道徳を欠いているため、文明を急速に発達させることができない。
 ヨーロッパ文明を誕生させたのは自由の精神と、学術の発達と、キリスト教道徳だったのです。新島は、和魂洋才では、近代文明に内在する論理をとらえることができないと考えたのだろう。


 技術にはそれを無意識のうちに支える思想があります。洋才は洋魂と不可分の関係にあり、和魂洋才というスローガンは木に竹を接ぐようなもので、成功しない。 それだから、洋魂にとって不可欠の要素であるキリスト教を理解する人材を育成することが日本国家のためになると考えたのでしょう。 そして、新島は関西にキリスト教主義に基づく同志社大学を創設する計画を立てました。


ここで重要なのは、教育を通じたキリスト教の拡張を考えなかったことで、欧米列強がキリスト教を道具に植民地支配の拡大を目論んでいることを自覚していたようです。   それだから、外国のミッション(宣教団)に依存しない日本の自治教会を組織しました。


 ヨーロッパの総合大学には神学部が必ずある。その例にならい、新島は大学に宗教兼哲学部をつくり、<弱きを憐れみ、暴を制し、曲がれるを矯(た)め、正しきを賛(たす)け>という価値観をもつ人材を育成することができると考えました。
 良心を欠き、知識や技術だけに長けた人材は、国家にとって禍をもたらすと新島は考え、<教育とは人の能力を発達せしむるのみに止まらず、総ての能力を円満に発達せしむることを期せざるべからず。いかに学術技芸に長じたりとも、その人物にして、薄志弱行の人たらば、決して一国の命運を負担すべき人物と云うべからず。もし教育の主義にしてその正鴣(せいこく)を誤り、一国の青年を導いて、偏僻(へんぺき)の模型中に入れ、偏僻の人物を要請するがごとき事あらば、これ実に教育は一国を禍いする者と謂(い)わざるべからず>と警鐘を鳴らしました。
 戦前の日本の教育者は、新島と同じ認識をもっていました。それだから、旧制高校、帝国大学、私立大学のいずれにおいても教養を重視したのです。
 現下の日本では、偏差値秀才型の官僚が、恐らく無自覚のうちに日本の国家と社会を内側から壊していると思われる。それはこの種のエリートのもつ知識が「偏僻の模型中」のものであり、また、偏差値は高くても「薄志弱行」なので、リーダーシップや決断力を発揮できないからであります。
 明治維新が戊辰戦争の「勝ち組」による外面的、制度的な近代化に終ったのに対し、新島は「負け組」から多くの輩出したプロテスタント教徒による精神的な近代化、いうならば「第二の維新」を目指そうとしたと思われます。新自由主義的な競争世界における「負け組」のエネルギーを引き出すような、平成維新についてのヒントを学ぶことができるのではないかと思います。



                  (2012年11月)




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   3.   落合純子



     零戦に寄せる思い   

  


          

 昨年八月「零戦を作ろう」という、かなりインパクトのあるCMが繰り返えしテレビから流れた。
 日本海軍の象徴「零戦」。正式には「零式艦上戦闘機」という。旧日本海軍が日中戦争から太平洋戦争全期にわたって使用し、いくつかの型があるが大戦初期の零戦が最も輝いていた時代の二一型を金属製スケールモデルとして再現しようというのである。
 早速企画した出版社に問い会せてみると、読者の熱い希望に応えて計画に踏切ったという。実機の一六分の一のスケール、週刊で一〇〇号までというから二年はかかる。
 この模型を孫(三才・男児)に作ってやろうかな、という夫の一言が事の始りとなった。
昭和一桁生まれの夫は、零戦に対する関心も知識もかなりある。一方私はある事情から零戦に寄せる思いは深い。
 栄光のヒーローか、それとも悲運のヒーローだったのか。連戦連勝の緒戦から、終盤の劣勢と特攻の悲劇までを味わったこの零戦については、然るべき多くの人が語りつくしている。今更私ごときが語ったところで何の意味もないが、それ以前に、一〇〇年かかっても自分ではなし得ないような無謀な企てをする程私は愚かではない。
 そこで毎度のことではあるが超個人的な立場から、この零戦に寄せる深い思いを綴ってみたい。しかし力量不足と記憶の瞬味さ、更にそのことを証言してくれる身近な人たちがみな故人となってしまった今、時系列に沿って整然と並べることは不可能だが、そこは読んで下さる方のご賢察に期待し、また零戦に興味のある方には独自の研究を深めて頂ければ望外の幸せである。が、いくら個人的な立場からとはいえ、テーマが零戦である以上それについて略述する必要はある。
 零戦は1937年から三菱重工が堀越二郎を設計主務者として開発を行い、三九年初飛行、以後海軍により試験改良が行われ、四〇年(皇紀二六〇〇年)正式採用になり,皇紀の末尾数字をとって零式とした。旧日本海軍の中で最大の10430機が生産されたが、二一型は全幅12.0M、全長8.7M,940馬力の空冷エンジン、最大時速509km(高度5000m)。極限までの期待の軽量化設計にこだわる海軍の厳しい要請に、天才設計技師・堀越二郎が見事に応えた。
 真珠湾攻撃の初め、フィリピン進攻など破竹の快進撃を支え、ゼロを見たら戦わず逃げろ、と連合軍パイロットに指示するほど圧倒的優勢を誇ったが、その後のアメリカが優れた戦闘機を多数投入したことから形勢は逆転、最後は爆弾を装備し特攻機として使用され、航空劣性を挽回できぬまま終戦を迎えるという悲劇的な結末となる。
 零戦といえば堀越次郎、堀越二郎といえば零戦。その堀越二郎は明治36年、群馬県多野郡美登里村に生まれた。美登里村は50年前に、近隣の五村と共に旧藤岡町と合併して現在は藤岡市となっているが、この美登里村こそ私が愛してやまない私のふるさとなのである。そして私の父もこの村で明治36年に生まれた。つまり堀越二郎と父はこの美登里小学校で6年間をともに過ごしたことになる。
 話は少し飛ぶが、私が小学生高学年から中学生の頃、家庭内で時々「ジロウさん」「ゼロセン」という言葉を耳にしたものだ。父が祖母や母・兄に話す会話の中に登場した言葉だったが、ゼロセンの正体は不明のまま。
 しかしジロウさんなる人物がただのネズミではないらしいことは、父の話の様子から察知した。
そして父の自慢は「同級生の中でサルマタをはいていたのは、ジロウさんとボクだけだった」というものだった。当時私は揮というものの存在を知らず、他の人達は何もはいていなくて冬は寒くなかったかしらと、長いこと思っていたので、気がついた時はひとりで赤面したものだった。ジロウさんは我家にも何度か遊びに来たということだが、その辺りの詳しいことは聞いていない。
 話は戻って、小学校の頃からジロウさんの頭脳はバツグンだったらしい。小学校を終えた二人・堀越二郎と不肖落合賢一 (ここに父の名を記す不遜は許して頂くとして)は、村の期待を背にサルマタをはいて藤岡中学校(旧制) へと進む。
 人には持って生まれた器というものがある、というのが私の持論なのだが、これは運命そのもので、それを努力で越えようにも当然のことながら限りがある。中学までは一緒だった二人だが、その先は右と左へと大きく別れてゆく。
 とんでもない頭脳を天から授かったジロウさんは、一高・東京帝国大学(それも難関の工学部航空学科)へと進み、一方父は群馬大学の前身である群馬師範へ。
 一高・東大を共に首席で卒業したジロウさんは三菱内燃機㈱(現在の三菱重工)に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。そして零戦を初め、雷電・列風その他数々の戦闘機の設計主務者として、日本の近代史にその名を残す活躍ぶりは周知の通り。
 ところで私は終戦の前年、つまり昭和一九年に小学校に入学した。戦局もかなり厳しくなっていた頃だったがそんなことは知るよしもなく、「太郎さんも花子さんも同じこと/心は立派な兵隊さん/がんばりましょう勝つまでは」と両手に日の丸の小旗を持って元気に踊ったものだが、私は今だにそのメロディも振りも正確に憶えている。
  同級生の中に疎開児童が何人かいたが、翌年の三月、三学期もあと十日で終わるという時にT少年がやって来た。小学校は細長い村の中心にあって、Tの家と私の家は南北の両端にわかれていたのでT家の様子は直接伺い知ることは出来なかったが、先生や級友の話を総合すると、仕事の都合で父親を東京に残し母親とTを含む六人きょうだいとお手伝いさんの八名で父親の郷里である当地に疎開してきたのだという。母親の出自は相当なもので、お手伝いさんは母親の輿入れの際に里からついて来たねえやさんだということだった。
 Tは背が高く端正な顔立ちで、服装も垢抜けていることから、我々土着の子とは一線を画し、幼心にも良家の子弟だということはわかった。勿論成績も優秀で、なんであんなことを知っているのかと、不思議に思うこともしばしばだった。
 その一方で同級生の中に、美土里小学校開校以来ではないかと言われる程の悪ガキUがいた。校長・教頭共に長い教師生活の中でも初めてだという程の悪童ぶりで我々一二〇人の同級生は一人残らず彼の被害に遭っている。 Uの悪行の一端をあげれば、授業中であっても教室の中を走りまわり、他のクラスにも勝手に出入りする。暴力をふるって弱い者いじめはする、好きな時に学校にやって来て好きな時に帰ってしまう、注意する若い女教師などは追いかけまわして泣かせてしまう。そこでUの机は教壇に立つ先生の横に置かれたりもしたが、後向きに腰掛けてニヤニヤしながら授業の邪魔をするので、逆効果。私は彼がまともにランドセルを背負った姿を見たことがない。自分の気に入ったものだけを薄きたない風呂敷に包んで腰に巻きつけ、いつも走ってやって来る。 私は入学当初からUのいじめに遭っていた。家が同じ方向にあったため、登下校中の路上で私のランドセルを引っ張ったりつついたりする。学校の廊下では、オットットと言いな がらよろけた振りをして体をぶつけてきたかと思えば、後から突然つきとばして、ポットだ、ポットだという(ポットというのは方言で、うっかりとか偶然というような意味)。私はUがこわくて仕方なかった。そして更に不運だったのは彼が妙に早熟だったことである。いつの頃からかUは丁と私の仲が怪しいと言い出した。多くの級友がそうであったように私もTに好感は持っていたが、そうした感情は全く芽生えていなかった。Uは私の顔さえみれば一日中そんなことを言い、トイレにはヒワイな落書きをする。
  あまりのひどさに父が学校に申し出て、担任は勿論、校長・教頭も動いてくれたが、Uの行動は全く改善されなかった。Uの父親も時々呼び出されていたようだが、これがまたUとは似ても似つかない律気そうな人で、我子ながらどうにもならなかったらしい。親の力にも限界があるのだとその時思い、今では更にそう思っている。
 そうこうしているうちに終戦となった。私たちが小学二年の八月、あの暑い日の詔勅は今も確かな重みと共に耳に残っている。
 単なる終戦ではなく敗戦という形で終わったことで、我家の生活環境は一変した。勿論詳細は後年知ったことだが、連合軍の占頷下、1946年「自作農創設特別措置法」が公布され、四七年から五〇年にかけて実施された農地改革によって、我家は五十町歩の田畑の殆どを失い裸同然となった。
 全国の旧地主の中には自殺する者も相次いだということで、その時の父の呆然とした姿は幼心にも鮮明に刻印されている。不在地主は認められず、僅か二町歩の土地を死守するために両親は共に教職を辞し、末っ子の私も含め家族総出で俄百姓に従事したあの何年かは辛いもので、特に田舎の生活に不慣れな母の寿命を縮める遠因となった。こうして私は二度目の母を失うことになる。
 しかしこの敗戦が、一地方のささやかな地主などとは桁ちがいの重圧をT一家にもたらした実情を知ったのは、その時から六十余年も後のことであった。
 Uのいじめはずっと続いていた。しかしそれを上回る幸運が訪れた。終戦の翌年のA先生とのめぐり会いである。先生のことは本欄で何度も触れたが、私たちは先生を母とも姉とも慕い、昨年先生が亡くなるまでの戦後六十三年を先生と共に歩いた(先生の葬儀は皮肉にも私たちの同窓会の様を呈したのだった)。
 私は異常な程先生を慕い、三・四・五・六年と、四年間お世話になった。年に一度クラスがえがあったが、私の担任は決まってA先生。私の我儒から親の七光りを利用したことは確かだが、Uのこともあって学校側も配慮してくれたということらしい。女学校を卒業したばかりの一八才で教師になった先生は、持ち上げ、持ち上げで、結局二十一才の若さで六年生を受持たされる異例の事態となり、他のクラスのベテラン教師の中でかなりの負担を強いられたわけだが、先生は頑張り抜いてくれた。
 先生はUにも随分心をかけたが彼には通じなかったのだろうか。現在と違って時には教師の鉄拳が通用した時代で、Uは何度となく男性教師にボコボにされたが、ある時彼が私のことを憎からず思っていると白状したことで、根本的な解決は不可能だと見送られ、いわば対症療法のような形でその後も何度もボコボコにされていた。
 Uの根気のよさにはホトホト閉口したが、Tもよくよくうんざりしたらしく、必然的に私に背を向けるようになる。Tの気持ちもわからぬではないが私自身は一言も言ってないのにと、二人がなんとも怨めしかった。そんなマイナス要因がありながら、学校と名のつく場ではこの小学校時代が一番楽しかったと今でも思えるのは、A先生の存在以外には全く考えられない。 こうしてTとは何一ついい想い出を作れないまま、六年生終了と共にT一家が東京に戻ったことで、もう二度と会うこともない遠い人となった。
 そして私たちはそのまま一二〇人体制で中学生になった。勿論Tの姿はなく、これでUにあれこれ言われる筋合いはなくなったと思ったが、それはとんでもない早計だとすぐに判明した。
 今度は、Tがいなくなって寂しいだろうと、私の顔さえ見ればその都度からむ。さすがに手を出したりはしなくなったので先生に訴えるわけにもいかず、まして担任は無神経そうな兄ちゃんで相談にもならない。他の男子生徒は次の標的になることを恐れて、私に寄りつこうとしない。そんなことは親にも言えない年頃でもあり、A先生の庇護のもとを離れて私は初めて強い挫折感を味わった。
 仮にTがいたとしても所詮中学生、私を庇ってくれることなどあり得ず、もっと泥沼化し互いに憎しみ合ったにちがいない。幸いTはいない。そんな中で私の心に微妙な変化が生じ始めた。Tを恋しく思う気持ちが芽生えたのだ。これが私の初恋である。 相手不在の極めて変則的な初恋ではあったが、それだけに私の王子様は思いのままに理想化され、Tの実像とはかなり乖離していたと思う。当然のことながらTは全く預り知らぬことであり、私も口にしたことはない。
 一年もするとUもさすがにTのことは言わなくなったが、相変わらずカンシの目は続いた。小・中の九年間で私が学校を休んだのは三日だけ。健康だけが取柄のUは殆ど欠席はなかったと思う。従って丸九年間、私はみっちり彼にいじめられ続け、中学卒業でようやく縁が切れた。
 Tが堀越技師の長男であることを知ったのはこの頃だと思うが判然としない。幼かったTよりも当時のTの両親のことを熟知していたA先生から、二郎氏が授業参観などで美土里小学校を何度か訪れていたことを後になって聞いたが、零戦の真価を全く認識していなかった私たちの記憶にのこっていよう筈もなかった。
 Tは東京へ行ってからもA先生との交流は続いていたのでその後のTの様子を先生が折に触れて話してくれた。父親の母校である東大を卒業して某一流企業に入社したこと。才色兼備の奥さんと幸せに暮らしていること、そして任地先のアメリカやベルギーから届く絵葉書を見せて貰ったりもしたが、私にとってはもう遠い過去の人となっていた。
 結婚後は零戦のことがマスコミで話題になる度に夫から講義?を受けて、零戦に対する知識を深めていった。
 昭和五十六年十二月十一日、父が他界した。七十八才だった。農地改革という時代の波に翻弄され、二人の妻に先立たれ、晩年は脳卒中によって半身の自由を奪われたが、継母(父にとっては三人目の妻)のこれ以上はないという程の手厚い介護に恵まれたことで、父の人生は幸せであったと総括している。継母から父の死の一報を受けた時、私はまず安堵の胸を撫で下ろし、継母に手を合わせた。しかし親が死んでいい筈がない。まして生母の顔を知らない私にとっては父が総てであった。ああ、これで私もみなしごになっちゃった、とつぶやいた私に、夫は、きょうだいも子供もいる四十四才のおばさんのことは世間ではみなしごとは言わないんじゃないの、と言ったが、私は断じてみなしごであり、ことの外寒さが身に沁む越年となった。
 明けて五十七年一月十一日、堀越技師の訃報を新聞で知った。奇しくも父の死からちょうど一ケ月後のことであった。喪主は長男・雅郎氏、とあった。久しぶりに見るTの名前に、ああ、Tはこの世に現存しているのだと一瞬思ったのも無理からぬことで、別れてから三十二年の日が過ぎていた。ジロウさんの魂はあの澄んだ美土里村の空に還ったろうか、そして一足先に出掛けてしまった父は、ジロウさんを迎えることが出来たろうか。 それから二十六年後、思いがけずTと再会する日が訪れた。一昨年の同窓会(祝古希)にTが初めて顔をみせたのだ。実に五十八年ぶりの再会である。街ですれちがったのであればまず互いに気づかなかったと思うが、一堂に会すれば一目でTとわかる。 父親ゆずりの長身はそのまま、十二才の少年は堀越技師の長男にふさわしい風格ある初老の紳士と化していた。一方私はといえば、おばさん度一〇〇%、エンジン全開で積年の思いを彼にぶつけた。
 小学生の頃あなたに冷たくされて怨めしかったこと、中学生になってもUにいじめられてあなたを恋しく思ったこと、堀越技師のご長男とも存じませんでご無礼しましたこと、父から開いたジロウさんのこと(少し迷ったがサルマタの件も)、そして、お父様を超えられませんでしたね、と要らぬことまで言った (世界の堀越を超えるには、一体何をすればいいというのだ!)
 終始静かな笑みを浮かべながら耳を傾けていたTは遠い目をして、私に冷たくしたことは全く記憶していないと言う。私は拍子抜けしたが、続く彼の話は信じ難いものだった。 戦後の逆風の中で二郎氏は心身を病み、廃人同様の日々があったこと、そんな姿をみて敢えて父と同じ道は選ばなかったこと、それでも後半は東京大学や防衛大学などいくつかの教授や講師を務めて平穏な晩年であったこと。
 しかし彼は父の栄光については一言も触れなかった。それに反して何かと自慢たらしい私はこの件に関しても、我が郷土が世界に誇る偉人・・・などと無責任な認識しかなかった。改めて零戦に関する資料を集めた。事は私が考えていた程単純なものではなかったと思い知らされた。
 防弾を施さずパイロットの命を軽視した設計思想の主務者として堀越技師は世間の非難をあびた。緻密で融通のきかない学者肌の技師はそんな世評に敏感に反応し、病に臥すほど疲労困懲したという。軍事技術の開発に従事した人達は、理不尽で非合理な要求を突きつけられ、現場で深刻な矛盾をかかえ込むことになる。その責任はどこにあるのか。
 作家の前田孝則氏は「技術者たちの敗戦」の中で次のように言っている。  「万が一にも日本が勝利していたり、あるいは零戦がまだ華々しい活躍を演じていた太平洋戦争の前半期で停戦、和平へと持ち込まれていたならば、堀越はまちがいなく救国の技術者として、日本の一大英雄としてまつりあげられたにちがいない。日本の敗戦が彼の運命を大きく左右したともいえよう」
 続いて堀越自身の著書「零戦」から引く。 「私の幼い夢は道路からでも飛び立てるような小型の航空機、汽船に代わって世界をつなぐ交通機関となる豪華輸送機、極地や山岳を探険するに便利な型式の航空機などにあったが、現実はそれに反して軍用機のみに没頭した」
  「思えば当時の日本は、もし望んだなら、互いに侵さず侵されざる理想の文化国家を築き上げ得る環境と実力に恵まれていたのではなかろうか。しかるにそれを一朝にして失い、自らを泥沼の境遇に投ずるとともに、近隣の人々に償い得ないような惨渦を及ばす愚をあえてした」。
 東京帝大航空学科を代表する教授として数多くのエリートを送り出し、また流体力学の権威として欧米にも知られる守屋富次郎は、教え子の中で誰がもっとも優秀だったと問われて、やはり堀越君だろうかね、と答えたという。そんな頭脳を今に生かすことが出来たら、と思う反面、航空界の創成期に持てる力を存分に発揮し、斯界に大きく貢献できたことは幸運であったとも考えたい。堀越技師の胸中は測る術もないが、ふるさとの空で待った父は、ジロウさんお疲れさまでした、と万感を込めて迎えただろうと、私は勝手に考えている。
 Uのことは思い出すのもいまいましいが、彼がいなかったら零戦に対する思いもかなり単調なものとして終わっていたことは確かだ。振り返ってみればこの一連の流れに於いては、彼の存在も重要な構成要因の一つであることは認めざるを得ない。
 Uとは中学卒業後一度だけ会ったことがある。水上温泉で開催された同窓会に珍しく彼が顔を出したのだ。その日私はUが出席することを知らなかった。先に会場入りしていた私は、入り口に設けられた受付で彼が、A先生と私に会いに来たと言っていると伝え開いて、一瞬凍りついた。子供の時とは事情が違う、彼の思いが再燃したらどうしようと。
 しかし彼も家庭を持ち子供もいることからその心配は全くないと、彼の近況を知る友の一人から聞いてホッとしたが、互いに、お久しぶりですと挨拶を交わしただけで、私はなるべく目を合わせないよう努めた。彼もさすがにバツの悪そうな顔をして、私に話しかけることもなかった。時は流れて、その時私たちは五十才になっていた。それにしても、どう聶眉目に見ても美人とは縁遠い私のどこがそれ程お気に召したのか、一度訊いてみたいものだが、もう会うことはない。
 模型の制作は順調に進んで四月十日現在三十二号まで届き、完成像が予想出来るまでの姿になった。内部の骨組み、エンジン、コクピットなど、細部にわたって実根を忠実に再現、パ’‐ツ総数七〇〇点以上・・・と謳っているだけに、かなり精巧なもので、夫は時には拡大鏡を片手に奮闘している。
 間もなく四才になる孫が時々やって来て、幼いなりにも何かを理解しているらしく、いつものヤンチャぶりはどこへやら、ジロセン、ジロセンとつぶやきながら、神妙な顔で覗きこんでいる。男子である以上この子もいつかこの伝説の名機が、かつて世界の空を制したことを知り、興味を持つにちがいない。
 残念ながらこの先何年この子をみることができるのか心許ない私たちだが、ジーとバーが思いを込めた「ゼロセン」を、戦争の悲惨さと併せて語り継いでくれることを希い、同時に、再びこの子らが銃を揺らなければならない日が来ないことを心から願ってやまない。
 末尾に、平成十五年に届いたA先生からの年賀状を掲載させて頂いた。文中の私への評価はかなり的外れであることは重々承知の上だが、Tと私の名前が並んでいる先生からのものは、もうこれだけしか手許に残っていないのでやむを得なかった。
 父が去って二十九年、こちらは諦らめがつくとしても、A先生にみて頂けない心残りは筆紙に尽くし難い。
 この稿を書くに当たり、東京在住のT、いや雅郎氏の了解を得た。私の申し出に何の注文もつけずに快諾してくれたばかりか、父上の著書や写真など貴重な資料を送ってくた。
夫人にもご協力頂いた。
 お二人に改めて感謝の意を伝えたい。


 A先生の年賀状



              


    2015-4-22

   

 

 





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     2.  大幡 
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ドミトリー・ドンスコイ     

      軍国少年の海と空のものがたり その1       大幡  

     

 

 

  ”海と空”は昭和7年創刊の、文字通り艦船と航空機を主題とするミリタリー誌で、当時、満州事変以降風雲急を告げ、シナ事変を経て第2次大戦に突入する時期に可成りレベルも高く,成年層に支持された雑誌である。

 ドミトリー・ドンスコイはバルチック艦隊に編入された装甲巡洋艦であり、その艦名の由来は、1380年クリコボの戦いで始めてタタール軍を破って、ロシア史上の一大英雄として讃えられるドミトリー・ドンスコイ(モスクワ大公)である。  

さて、本題は”海と空”誌上に紹介された日本海海戦の一挿話であり、所は、バルチック艦隊をむかえ撃とうと、鎮海湾にたむろす一艦の艦内である。 「敵を知り己を知らば百戦あやうからず」の教えがあるが、これから立ち向かうロシア艦隊のそれぞれを認識するために、個々の艦形を示すシルエットをかかげて,之は何艦かと水兵たちに問うていた。

 「アリョール」「ボロジノ」辺りはともかく、「オスラービア」「シーソヴェリスキー」「ドミトリー。ドンスコイ」ともなると、当時の水兵レベルにとっては,舌をかみそうな上、憶えにくい名前である。そこで、語呂の似た日本語に置き換えることにして「ドミトリー・ドンスコイ」を「ゴミ取りゴン助」とした。 その他にそれぞれふさわしいあだ名を付けたことになっているが、資料を紛失した今は、「ゴン助」以外は全く憶がない。話の趣は、戦いが始まりそれぞれのあだ名が、いみじくも、その艦のなりゆきを暗示したことである。

 「ゴン助」は沈没する僚艦の水兵をひろい集め、最後に蔚山沖で、村上艦隊に捕捉され、「ニコライ1世」「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウイン」等と共に、28日午後10時に降伏したと記憶していたが、 この辺りを確認する為一誌をひもとくと、「ドミトリー・ドンスコイ」は28日夜半沈没とある。エッ!集めたゴミ共々かつ乗組員も一諸に、あわれなこと、助けたのは無駄だったのかと大きな疑問が生じた。

 そこで今回、いろいろと関係書を拾い読みすると、次々に「どうしてそうなるの」「そんなことないよ」と思う事柄に出会うことになった。 小生の記憶違いかもしれないが、いくつかとりあげてみよう。正誤の程は読者の判決を期待しながら。

○バルテイック艦隊は20ノットで対馬へ向かって北上しつつ.........改めて記載箇所を探したが所在不明!

○秋山真之が「司令塔の中に入ってください」..........東郷はかぶりをふった......司令塔はそれを囲んでいるぶ厚い装甲14インチとある。(坂の上の雲6巻292頁)14インチといえば36センチである、こんなことをしてはトップヘビーとなって転覆しやすくなる。後世の諸戦艦においても聞いたことがない。

○下瀬火薬を詰めこみ伊集院信管つめこんで細長かった.......旅順艦隊の連中は「鞄・チェダモン」とあだ名をつけ..........目撃すると........薪がクルクルと空中でまわりながら飛んでくる.........6-314頁。まさか、旋条を施された砲弾は射線方向にしか旋回しようがない。 まだいろいろあるが、あら探しは後にして先に進もう。

シルエットで艦名を探索するように、バルチック艦隊における索敵風景に(6-256頁)三隊の巡洋艦隊が左舷にあらわれた.............「鎮遠がいるな」..............「松島・厳島・橋立がいます........」とある。この風影付図-1のとうり。資料と記述がピッタリ合った。  

 

 

  ここで取り上げるのは「鎮遠」である。多少艦艇史をかじった人なら知らないはずはない。「鎮遠}は清国海軍の主力艦であり、かの、黄海海戦(日清戦争)の唱歌にある「まだ沈まずや「定遠}はの兄弟艦である。「定遠」はたしかに沈んだが「鎮遠」は生き残って、今、バルチッキ艦隊の目の前に現われた。しかも、日本艦隊の一隻として。これには訳がある。事のなりゆきは次の通りである。

日清戦争の結果「鎮遠」「高陛」の2隻は日本海軍の手にわたり、旧名のまま就役することになった。世界にはままあることで、くしくも、ロシア艦隊にも「レトヴィザン」があり、スエーデン艦が捕獲されてそのままの名前で、ロシア海軍に就役して。日露開戦の直前新鋭艦にその名が受け継がれ,さらにくしくも、我が国に分捕られて「肥前」となった。この話「海と空」第3巻61頁、すべての資料を廃棄した筈、この話との再会は別の項にゆずる。

 そろそろ本題の「ゴン助」に戻ろう。明治37年5月27日午後1時55分、Z旗があがり、東郷ターンによって火蓋が切られた。しばらく「ゴン助」の記述がない、ようやく現れた(6-386頁)正に名前の通り(ゴミ取り)である。

 戦いが始まって、たちまち、旗艦「スワーロフ」之の一弾により、ロジェスト・ウインスキーは重傷を負い,乗艦も沈没をまぬがれず、駆逐艦「ベドーウイ」に移乗、さらに、この艦も痛手をおい再移乗のはめになった。そこへ、装甲された6200トン17ノットの巡洋艦「ゴン助」と駆逐艦「ベドーウイ」が現れた。どうしたことかロ・ウインスキーは駆逐艦「ベドーウイ」に移ると「ゴン助」はふられてしまった。役立たずめ!それっきり記述が現れない、何をしているんだ。

 ようやく見つかった、しかも、戦いは済んで28日午前10時蔚山沖で、先の4艦が村上艦隊に降伏する現場に居合わせていた。しかも「ゴン助」その名にふさわしくなく、優速を利かして逃亡を企てたのみか、行きがけの駄賃とばかりに打ちまくり、「浪速」「音羽」にそれぞれ1弾を命中させたが、衆寡敵せず多くの命中断を受け、もはやという状況になり夕闇迫り、鬱陵島沖にて、乗員全てが上陸,その后、キングストン弁を開いて水没した。健げなり「ゴン助」とは申し訳ない。 余談だが、半藤一利・日露戦争史第3巻で忘れてしまった諸々のあだ名にめぐりあった。列挙しよう。

 クニャージ・スワロフ     故郷(くに)の老爺座ろう

 アレクサンドル3世      呆(あき)れた三太

 オスラービア          押すとピシャー

 アリヨール           蟻寄る

 ボロジノ             ボロ出ろ

 ドミトリー・ドンスコイ     塵取り権助

 更に、訓練風景の中に「呆(あき)れた三太」に命中。つぎの照準「押すとピシャー」。下士官たちにはこの日本語訳(?)評判がよかったのは事実とある。結構役に立ったのかな。 しめくくりに司馬さんの名誉のためにも一筆加えたい。

 歴史を課題とした物書きは、多くの資料に取り囲まれて、個人的な思い入れの強い日記・戦記の記述に、愛着を感じあえて誇張気味を承知の上で採用したものだろう。「そうに違いない」。 又、半藤氏の参考資料に「海と空」はなかった。

 かなり前になるが、思い立って国会図書館に照会したが全く所蔵されていなかった。でも有るところには有るんだよ。それはどこ、それは今度!

 

          2015-4-29












     戦艦ポチョムキンと女帝エカテリーナ   大幡

           軍国少年の海と空のものがたり その2 

   


       

 「戦艦ポチョムキン」は1905年黒海艦隊に就役した。かつ、エイゼンシュタイン監督による映画の題名でもある。
 映画の世界では、チャプリンの「黄金狂時代」と共に無音映画の双璧としてあげられる。1905年オデッサにおける水兵の叛乱を題材として、特にリシュリユー階段での水兵の一斉射撃下、幼児をのせたうば車が母親の手を離れて、ゴトゴト下へ行くシーン。之が名場面として称えられている。
 結果は、叛徒を抑えようとセバストポリ港から出撃した戦艦5隻よりなる艦隊と、迎え撃とうと出港した「戦艦ポチョムキン」がオデッサ沖ですれ違い、両軍の水兵がウラーと歓声をあげ、「兄弟たち」「オオ」の字幕が出て終わる。
 ところで、「ポチョムキン」とは女帝エカテリーナ治世下で再も功績のあった宰相であり、且つ、成年期には女帝の愛人でもあった。
 さて、このエカテリーナ、大変な女である。(アンリ・トロワイヤ著女帝エカテリーナによれば)1727年、プロイセンの貧乏貴族の生まれで、14才の時、たった4台の馬車でロシア宮廷に輿入れするこになった。皇女和宮の行列が一宿場を通り抜ける」のに、3日3晩かかったのに較べ、何と貧弱なことか、之には反対派の目をあざむく一面もあったが。
 嫁して十余年、夫「ピョートル三世」をほうむり女帝に就いたのみならず、在位34年間後宮に10人余の公式愛人を歴任させた。あるフランス外交官によると、

 オルローフ兄弟        (添付資料 1)
 (ヴィソツキー)     リムスキーコルサコフ
 ヴァーシーリチコフ   ランスコーイ
 ポチョムキン      エルモーロフ
 サヴァードフスキー  マモーノフ
 ジーリチ         ズーボフ兄弟
 となる。

 余談だが、ここにあるリムスキーコルサコフは著名な音楽家とは全く別人である。
 ポチョムキンは1770年、31歳の時に10才年上の女帝エカテリーナの寵を得て3代目としてねやに伺候することになったが、数年後には陸軍副長官としてブガチョフの乱を制する等、夜昼精励を盡した。
 一方、その在位中に二度の露土戦争に完勝して、黒海北岸に面するウクライナ・クリミアに版図を拡げ、大いに治績をあげた名君でもある。 
  
   付図 1

  エカテリーナの治績図
  



 この新領土、ドニエプル河巡航時に、ウクライナの「ポチョムキン村」という話がある。女帝の巡行に合わせて一日限りの王道楽土を演出した。著作の一部を引用する

  資料2  P344-2か所

  「船はしばしば河岸に横付けになる。家々の正面は、花輪や壁掛けで飾られている。すべてがほほえみ,親しげで、富栄えている。ロシアには幸福な人間しかいないとでもいうように。荒果てあばらやは一軒もない。ぼろを着た乞食もいない。人相悪い連中は河からはなれた奥地に追いやられてしまったし、くずれかけた陋屋はペンキ塗りの木の小屋築で隠されている。ポチョムキン式極楽とでも言おうか、」  P344 その1引用

  「様々の演出が船とともに移動しつつ繰り広げられる。無から村落が出現する。一夜のうちに、労働者が一度しか人の通らぬ道路を切り開く。一度しか目に触れぬ庭園を造りあげる。女帝が通り過ぎると、これらの不幸な人々はまた家に追い帰らされた。」
         P344 その2引用

 余談だが、ソ連時代に似たような話があり、西欧の名だたる言論人がたやすくあざむかれたが、このような詐術はロシア人の特性なのか!
 長い内陸国家の歴史を経て、ようやく、大帝「ピョートル一世」がバルト海に覇を遂げたが、北海の入口をデンマークに抱され、そこで、  鉾先を変えて南に向かい、 17世紀末から百数十年を費やす露土戦争が始まった。その中間期にあって、エカテリーナは最大の功績をあげた。
 さて 「戦艦ポチョムキン」は排水量12,900トンの戦艦として、オデッサ近くのニコライエフ工廠第7船台にキールを据え、難行苦行の4年余をかけ1904年10月ようやく進水式を迎え「クリヤージ・ポチョムキン・タブリチェスキー」と命名され黒海に浮かんだ。吃水が関係してセヴァストポリで最終艤装される頃、年が代わって1月2日旅順が陥落してロシア中に敗北感が漂う中、翌々日ささやかな歓びの時を迎え黒海艦隊の戦艦として就役した。この18日后ペテルブルグの凍てついた路上で、コサック兵による銃撃「血の日曜日」が発生した。
 わずか数か月たって、5月27-28日バルテイック艦隊が消滅して、6月27日ポチョムキン艦上で、ウジのわいた腐肉をそのまま使ったボルシチに、水兵たちの不満が爆発した。十数名の士官が殺され艦は暴徒達に占拠された。
 戦艦「ロスチロフ」を先頭に「シノブ」 「スヴヤテイーリャ」 「アストロフ」次いで「ゲオルギー」の5戦艦が駆逐艦等を従えて鎮圧にむかった。オデッサ沖で出撃したポチョムキンとすれ違うことになったが、旗艦の指揮官が一斉射撃を下命したとき、水兵達の反乱の引き金になることを恐れて、只偵察に止めて基地に戻ることにした。が、5番艦のゲオルギーがポチョムキンの水兵たちの呼びかけに応じて、士官を軟禁状態にして合流オデッサに向かった。時に、日本海海戦后翌々月、日本軍が戦果を拡げようと樺太に出兵したころであり、ポーツマスの講和条約交渉もたけなわであった。
 ニコライ二世に黒海艦隊の不祥事が伝えられ、ウイッテに寸土もゆずるなと厳命していたが、南半分の割譲の結果になにがしかの影響があったと思われる。
 その後、本隊の出動により「ポ号」は鎮圧され、セバストポリに引き戻され、不名誉なこととして「パンテレイモン」と改名された。
  余談だが、この叛乱に明石大佐が関係したとの風説があるが、確かな資料によれば全く関係なかったとされている。
 その后の「パンテレイモン」だが、チャ-チルの企画したガリポリの作戦に呼応して,黒海に進出したドイツ戦艦「ゲーベル」と遭遇、自らの2倍もある巨艦を相手に2発の命中弾を与える健闘をした。
 やがて、ロシア革命が起き、ロマノフ帝国の崩壊と共に、艦名変更の波が押し寄せド級戦艦「エカテリーナ」は「スヴァーボードナヤ・ロシア」(自由なロシア)等と改名されるなか「パンテレイモン」は旧名の「クニヤージ(大公)」をとって「ポチョムキン・タヴィリチェスキー」とされたが、少々収まりが悪いのかしばらくして「ポレツ・ザ・スヴァボド」(自由のための戦士)と改名された。いみじくも両船の名に主従のようなにほいがする。
 4代にわたる改名の末、「ポチョムキン」は廃船の運命をたどり、一万トンの鉄くずとして革命政権に寄与した。
 最后にエイゼンシュタインだが、ソ連建国から3年経過した1925年8月、内戦の影響を受けこのうら寂れたオデッサの港を見下ろすリシュリュー階段に、27才の青年が立った。ひらめいた、ここでペテルブルグの「血の日曜日」を再現しよう。1905年のポチョムキンの叛乱を重ねて描こうと思い立った。奇しくも艦上の場面は、鎮圧のために出動し、今や廃艦寸前の「アストロフ」号を使って撮影された。その年の暮、彼にとって二作目の作品はモスクワ・ボリショイ劇場で上演された。彼の名はセルゲイ・エイゼンシュタインである。余りにも映画は出来が良かったので、リシュリュー階段の出来事は本当にあったと大衆に信じ込まれ、一部の史家にも誤認されている。

   



 余談だが、リシュリュー階段の由来は、エカテリーナがオスマン帝国から獲得した黒海北岸のノヴォロシア(新ロシア)の中心に輝くオデッサ、その中心階段で、この新しい街の建設に功績のあったフランス亡命の貴族アルマン・デ・リシュリューの名をとったものである。なお、フランス戦艦「リシュリュー」は全く別人で17世紀フランスの大政治家である。
 (寺畦彦・戦艦ポチョムキンの生涯より)



 日本版字幕 映画 戦艦ポチョムキン  73分
  https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU



      1905年 黒海沿岸図


   


 露戦艦 ゲオルギー・バビエドノセツ  
       10,500トン 30.5cmx6 主砲


   

 露戦艦 ポチョムキン
         12,900トン  30.5cmx4 主砲


    

 独戦艦 ゲーベン
          23,000トン  28cmx10  主砲


   


        2015-5-20


   











   B25ミッチェルとドウリットルの東京初空襲 

     目撃者ここに語る!      大幡   
            軍国少年の”海と空”のものがたり その3 

                 
    
  昭和17年4月18日昼下がり、小生ピカピカの中学1年生、飛鳥山発須町行きの市電車中にいた。 本郷3丁目を過ぎた処で、フト車外を見ると、双発機が1機御徒町から春日町方向に向かって飛んでいて、その後を高射砲の弾幕が追いかけている。 しばらくして空襲警報のサイレンが鳴り響いた。あとになって、ドウリットルによる空襲で、機体はノースアメリカンB-25ミッチェルと知った。

 およそ5か月前、12月8日真珠湾攻撃と共に大東亜戦争が始まり、当日の朝礼で校長先生の音頭により万歳三唱にわきたったが、教室に戻ると小学6年生を相手に、担任の浅川先生は口をふるわせ、とんでもないことだ、日本はメチャメチャになる、東京は焼け野原になると憂えていた。しかしこの日以来新聞が面白くなり毎日のようにカジりついていた。又日本国中が湧きたっていた。

 その一方、アメリカではリメンバー・パールハーバーと大いに盛り上がった国民も一方的な敗戦に政権を責めたてる声が大きくなってきた。

 余談だが、17年の初頭(2月頃か)ヒラヌマ撃沈という記事がアメリカ誌上を賑わした。k勝報を待ち望むマスコミの勇み足であろう。こちらではヒラヌマなんて有りもしないのが沈むものかとアザ笑った記事を記憶している。
 ルーズベルトとしては欧州不干渉・中立維持で3選した立場から、参戦の機会を得るため日本を挑発、何かやってく来るとは事前に承知していたが、想定を越えた損害に、日本に対して一矢報いなければと、急遽、戦術的な効果を無視して、只戦意高揚を意図して東京を空襲せよと軍部に指令した。これを受けて内密にしかも早急に作戦が立てられた。


         

 艦上機による爆撃には、既に分かっていた日本の東岸500カイリの警戒線を突破、300カイリに近寄っても爆装して往復できる航続力のある艦上機は無かった。計画は頓挫したかと思われたが、一参謀が大航続力のある中型機を空母に積んで、しかも空母を発進して東京爆撃後、そのまま西進して蒋介石支配下の飛行場に直進すれば生還の見込みありと提案した。
 作戦は息を吹き返した。B-18,23,25,26が候補に挙げられた、諸種の検討が行われ、特に空母の艦巾からB-25ミッチェルが選定された。
 この機体はノースアメリカン社で1939年に試作され、そのテストが良好で結果を待たずに量産機発注がなされた。その要目は全巾20.6m、自重8.84トン、最大速力438km、最大航続距離2175km、エンジン出力1700hp2基である。
 

              

 ノースアメリカン B-25 ミッチェル 

 ミネアポリスの陸軍航空基地で、B-25塔乗員に重要だが面白みのある任務の志願者がつのられた。その他の基地を含め80人を越える志願者が集められ。 メキシコ湾に面するエグリン基地で訓練が始まった。それはいささか不思議なもので超低空飛行・夜間飛行に加えて異常な短距離での離陸訓練であり更に徹底した省エネ飛行で限界までガソリンを薄くして飛んだ。
 一方、海軍では新鋭のホーネットを母艦に決め、エンタープライズを護衛につけることにした。
 サンフランシスコ・アラメダ基地で16機のB-25がクレーンで積み込まれ、飛行甲板上に固定された。従ってホーネットはB-25が発艦しない限り格納庫内の機体は一切発着艦出来ない状態である。そこで専ち護衛のためのエンタープタイズが必要となり、これに加え巡洋艦5駆逐艦7その他を従えて4月1日金門橋をくぐり、太平洋に出撃した。

 余談だが、B-25ミッチェルについて、機名にはトマホーク、エアコブラ等鳥獣の名前が使用されているが、人名が冠された機体は希である。
 アメリカ陸軍航空隊のウイリアム・ミッチェルは第1次世界大戦の航空戦を目撃して、やがて、次の戦争では爆撃機が強力な戦力になると確信した。1916年通信局副長となり、1年の経験を加えて、航空部隊を「戦術航空部隊」と敵国領土深く爆撃する「戦略部隊」に分割し、それぞれ独立しtr運用することを提案した。実戦には間に合わなかったが、このほか様々な戦術を考案した。海軍のマハンにも匹敵するかの様である。
 下って,1929年(昭和元年の前年)アジアの情勢の視察時に、長崎で日本艦隊とその上空を飛ぶ戦闘機の編隊を目にして「もしかすると、強力な空軍力に発展してハワイが奇襲攻撃を受けるかもしれない」とつぶやいたといわれる。その后日本の大陸進出に従って、益々対日戦の発言・論評が多くなった。B-25ミッチェルがこの人との確証はないが、何か因縁のようなものを感じる。

 ホーネットに戻る、航海は順調に進んだが、予定の前日18日早朝、思いがけないところで、日本の哨戒艇に発見されてしまった。これは第23日東丸によるもので、既に発見の電信が打たれている、もう1日分前進が出来なくなり、予定の倍近い800カイリで強行発進することになった。

                     

  第23日東丸 6時45分空母発見と打電

 8時15分ドウリットルの乗る1番機が見事発艦、最后の16番機が9時16分出撃した。編隊を組む余裕はない、僚機を視認するのがやっとの単独飛行である。本郷3丁目で目にしたのが何号機か分からないが、単機であったことはうなずける、しかも数百メートルの低空飛行であった。そして、全期発進するやホーネット等はすぐさま反転して東へ去って行った。
 さて発進したB-25だが、各型総計11000機も生産された傑作機だが、この作戦に当たり、胴体下面の動力砲座を取り外して、長距離飛行のためにオートパイロットを取り付け、墜落して日本軍の手に入ることを恐れ、新型の爆撃照準機を旧式に取り換える等手を施し、500ポンド(約220kg)爆弾4発を積み、ガソリンタンクを満タンにしたうえ、5ガロン(18リットル)缶10個を積み東京を目指した。

 一方第23日東丸だが、18日午前1時過ぎ、軽巡ナッシュビルのレーダーにとらえられ、夜明けと共に、エンタープライズ発進の索敵機により、午前5時ごろに発見された。「艦上機らしき3機発見」「敵空母1隻見ゆ」さらに「敵大部隊見ゆ」との無電を最后に通信は途絶えた。しかも、エンタープライズ艦上機による索敵は付近海面を3時間にわたり、展開していた、第2、3哨戒隊に攻撃を加え、沈没日東丸、長渡丸の2隻,大破船体放棄4隻、中小破7隻、戦死者33名を数えた。

 これらの日本の哨戒隊は犬吠埼東方700カイリの海域に配備された哨戒線であったが、開戦早々米機動部隊による本土空襲を想定し、特に東京空襲が国民に与える心理的影響を重視して、山本長官により発令されたのである。 北海道釧路を母港とし、1隊20隻、3直交代3隊で編成され、現地哨戒配備日数7日間、往復に要する8日間を考えると、基地での整備休養期間は僅か数日間しかない、しかも100トン前後の漁船を徴用し乗員は海軍軍人と漁船員半々の14名であり、荒天に耐えしかも、敵発見が即死につながる苛酷な任務である。 戦中に就役した哨戒艇は総計400隻を越え、終戦時に残ったのは100隻にすぎなかった。

 B-25機上に戻る、夜間発進の予定が早まり、燃料節約のため低空で、しかもギリギリの巡航速度で日本本土上空を、東から西へ千キロ近くの横断飛行である。しかも、ようやくシナ本土に達するころは夜となり、全く始めての土地である。結局、ウラジオストックに向かった1機を除いて、11機が落下傘降下、4機が不時着となり、機体は全て損壊した。内2機の8名は日本軍占領域で捕虜となった。


                 
 日本側では、8機撃墜と虚報され、シナ大陸でとらえた飛行士を急遽東京に運び、九州北部で墜落とされ航空服のまま目隠しをされた写真がニュースに登場した。しかも新聞紙上で、落下傘降下した3名が怒った市民によりリンチを受け死亡したという記事があった。8名中の3名が、市民殺傷の盲爆責任者として処刑され、戦後、BC級裁判の冒頭を飾った。

 さて、山本長官肝入りの我が国の防空体制であるが、日東丸の警報を受けたが、主力の機動部隊はインド洋に出撃、イギリスの空母ハーミスを撃沈する等の戦果を挙げ帰投中で間に合わず、陸上部隊をあてるしかなかった。直ちに索敵機が数機が発進双発機(B-25)を発見したが空母は見つ「からないまま、1式陸攻(通称葉巻)22機他が木更津基地から出撃した。こちらは通常の艦上機による攻撃を想定しており、既に反転して去った海域を空しく探し廻るだけであった。

 この作戦による損害はさしたるものでなかったが、我国の指導者に与えた心理的な効果は絶大なものがあり、立て直そうとしたミッドウエイ作戦が、大きな齟齬を来す遠因になったのではないか。反対に、アメリカに於いては国を挙げて溜飲を下げたと思われる。そして、先のヒラヌマを笑った日本は、半年もしないで、ミッドウエイの敗戦を糊塗して、全く反対の立場に立たされることのなった。



  ドーリットル空襲1972  8分
  https://www.youtube.com/watch?v=IGoP83BvcrM


           2015-6-10

  











    映画 フューリーによせて 1  大幡

            フューリー、プライベートライアン、 映画のうそ

  


              
  フューリー、ブラッド・ビットが奮戦して最後に散華するシーン。隊伍を整えて高らかに歌い乍ら行進する300人余ドイツ軍、錯綜する前線で、こんな間抜けな戦闘集団があるだろうか。この映画、このシーンまでは、見事に戦場とはかくあろうかと、手に汗してストーリーにのめりこませてくれたのに。
 木陰にかくれた斥候が見つからずにブラッド・ビットの下に帰った、それから延々と防衛体制についてゴタゴタして、ようやく戦車に乗り込むことになる。かなり時間が立ってドイツ軍が到着する。何をマゴマゴしていたのか、しかも、射撃場の飾りつけの人形のようにバタバタと機関銃の餌食となる。300人がかりで何としたことか。
 相手はキャタピラーをやられ、路上に擱座した戦車1台であり、何の掩体もないトーチカそのもの、しかも周囲に連携する銃座もない。極ありきたりの指揮官でも、3・4方向から忍びより、数発のバズーカであっという間に処置するはず。
  似たようなシーンがプライベート・ライアンでも展開する。こちらは徒歩の斥候兵に対し、軽装甲車で立ち向かいバタバタと撃ち倒され、めでたくライアンが生還してTHEEND.となる。
 ヒューリーは1人の新米兵が奇跡的に救助され、残りは隊長以下全滅する。ビットには気の毒だがこの方が真迫感がある。

  さて、プライベートライアンだが、4人兄弟の上3人が全て戦死し、只1人残されたライアン、あろうことか敵陣深く威力偵察隊に加わっている。彼までも戦死されては世論の憤激は目に見えている、陸軍最高司令官の何としても助け出せという命令に始まった物語である。
 かっての日本軍でこのような感覚の幹部が居たろうか、ここに民主主義国の強さと文化の高さに酔いしれて映画を見終わった。
 プライベートとは4人兄弟の私の事柄を指すのかと勝手に解釈していた。フト、機会があって、プライベートとは1等兵ということを知った。まことに浅学と思い知らされた、はずみに、最後のシーンかなりご都合主義だなとの思いが生じた。
 映画は先ず娯楽である。テーマの面白さを満喫すればよいのだ。1-2時間別世界で、手際よく素早い展開に紛れ奇跡が起きて、ホットすればそれで良いと思う。何をぐずぐずアラ探しをするのか、自分の性分に少々嫌気がする。

         2015-6-30













     映画 フューリーによせて 2  大幡  

       フューリー、 ステイーブン・ハンター極大射程


             
  フューリとは極小人数で大敵をたおす話である。Sハンター著「極大射程」の主人公スワガーはスナイパーで極大射程の極め付きの射手であり、銃の取り扱いについてこれまた究極の腕を持ち、留守をするときに愛する銃に特別の手を加えるのを常としている。
 この事によりスワガーが或る暗殺事件の被疑者として追い詰められた時に、有力な反証となる、というのが大筋である。が、この話の曲折に散りばめられ巧妙精緻な道具立て、これほどおもしろいミステリーはないと思う。

 読んでから数年、映画になり即刻見た。チットモ面白くない。あの場面はどうしたの、こんな筈はない、カットカットの連続、あそこの脱出はどうする。どんな映像になるの、期待外れの山積みである。よく考えてみると、原作を忠実に再現するには、制約のない文字の表現力、タッタ数行の文章や数個の語句が読者に無限の拡がりを与える。文字に較べ映像には100倍の情報があると一般に云われるが、反って、文字を映像に変換するには100倍以上のエネルギーが要るのであろう。カット話の整理必然のことである。読者の勝手なイメージにつきあっていられない。

 フューリーの場合だって、原作にどこまで忠実であろうとしたか、読んでない立場では何とも言えない。トーチカ状態に擱座するまでがテーマであれば、終局の大団円少々手を抜いても許されるであろう。

 極大射程も、1本の映画に盛り込むには本来無理な原作であろう。原作を知らなければ、これで結構楽しい絵に違いない。気楽にその場限りを楽しめばよかったのだ。
 こんなタドタドしい論議をしたいのではない、辛抱して次につきあっていただきたい。
 これからの話はスワガの生涯をさかのぼり、ヴェトナム戦にスナイパーとして従軍した「狩りのとき」の話である。

 本来スナイパーははるか彼方の目標に集中する。その間身辺には全く無防備になり、目に入るのはレンズの1点に限られる。着弾点の広域な観測、同じ一人には不可能である。そこで、一人の助手が不可欠である。それをスポンダーと呼ぶが二人一組がスナイパーの宿命である。

 戦場はヴェトナム、南側の崩壊を間近にして、前線の奥深く取り残された小部隊、之を撃滅しようとするヴェトナム軍、規模は数百人、改めて読み返して見たが、ハッキリしない。指揮官に佐官の表現がある。小部隊の救出にスワガーが立ち向かう、スポンダーを従えて。 敵陣で異変が起る、浅い霧が立ち込める中、散開する小部隊毎バタバタと兵士が倒れる、しかも、指揮官や通信員と幹部に集中して起こる。前線は膠着混乱して隊伍が崩れる、しかし、ようやくスナイパーと気がつき、残された隊長により、スワガーのひそむと思われる岡の側面に斥候隊が向けられる。きわどい応酬があって彼は手ひどい傷を負い、今は之までと意識の薄れる場面に都合よく友軍の之も、斥侯がやってくる。

 Sハンター(著者)両軍に公平しかも詳細かつ考慮深い行動をとらせている、間が抜けていない。しかし最後は都合よく友軍である、この助けの必然についての書き込みを読み落としたのか、読み直す。さすがハンター、友軍の陣営で、遠くの銃声しかも機銃でなく数発ごとの発射音から、スナイパー特に伝説とまでなっているスワガーと断定し、側面擁護の要ありとの判断、うまいこと数行の仕掛けがあった。
 この小文メデタシ目出度しである。「極大射程」是非とも読んでと、誰にともなくすすめる。いや、狙い撃ちで!


         2015-7-2

  








 ミッドウエイ トリビア   大幡  

         ジョン・フォード、ヒコポンタスを追って

   訓練空母 ウオルバリン  外輪船


昭和17-18年頃、小生中学2年生「海と空」仲間が長門だ、加賀だと話しているところに、なじみのないクラスメートがやってきて「お前ら赤城も加賀も沈んだんだぞ、ミッドウエイで」と語調強く割り込んできた。「そんなことあるもんか、デマに定まってら」と言い返したが、彼は鼻先でフンとあしらうようにして去っていった。腹の中で何も知らないでとセセラ笑っていたのだろう。この話、終戦まで再度聞くことはなかった。又、敗北を認めたくなく、意図的に避けていたのかもしれない。話は空母4隻の喪失ではなく、この海戦にまつわるトリビアである。

 珊瑚海、ミッドウエイの航空戦で、100機前後の米軍機が撃墜され、多くの搭乗員が海上を漂い、数名が日本軍に収容され捕虜尋問にかけられた。厳しい調べはその所属する空母に及び、「ウオルバリン」と返ってきたが、当時の正式空母にこんな艦名はない。米軍では、捕虜になっても軍機に関しては秘匿するのが義務となっている、この点、日本兵はなかなか捕虜にならないが、なると、少々情けをかけられるにつれボロボロと供述すると言われる、その時の心構えも訓練されていなかった、間抜けな話である。
  米軍捕虜したたかである、が、その折の日本側取調官その上をいく腕利きである。米国駐在武官時の情報活動から、ウオルバリンが練習空母であることを知っていた、即座に問い詰めその後の調べがすすんだという。

 一方、アメリカでは開戦後、戦意高揚を期待してジョン・フォード監督により、ハワイ、ミッドウエイと2本の記録映画が作られた。ミッドウエイでは景気の良い4隻撃沈には全く触れることなく、荒涼として何もなく平坦な島の風景と、連日の海上捜索が延々と続く。誠に地味で何が戦意高揚かと思ったが、これがアメリカである。撃墜された海上を漂流する戦闘員に之程力を入れている。これが国民の琴線にふれるのだ。実際に2週間ほどの間に何人かが救助された。10数年前に見たが今回この小文に取り上げて始めて気が付いた。どうも民主主義にはなじめない性分なのかな。

 この映画、渋谷の単館上映専門館で、ジョン・フォード週間として見たが、その折」更に「周遊する巡航船」を併せて見た。ミシシッピ河を上下する船上で、主人公がある裁判に関わり、出頭期日に迫られ船の速力を上げるため、商品として携行していた「ヒコポンタス」をガラス瓶のまままボイラーにほうりこんだ。何か化粧品のようでアルコール度が高いのか、船尾ににある外輪が勢いを増しめでたくゴールイン。勝訴してThe Endである。

  さらに例のクセがでる。ガラス瓶に入ったままでよくぞ燃えたものだと、そして別の話を思い出した。 ラ・プラタ河沖のことアドミラル・グラーウ・シュペーを追いかけて、イギリスの巡洋艦エグゼター、燃えるものならなんでもと、グランドピアノをタタキ壊して缶に放り込んで、性能以上の速度が出て追いつき砲撃する、シュペーはたまらずモンテ・ヴィデオ港に逃げこんで、あげくに自沈に至る。
  ここで、軍艦にピアノを積んでいるのか、ピアノ1台くらいの木材で足しになるのか、また、重油専燃でしょどうやってどこに木材を入れたの、ボイラーに焚口なんか無いでしょ。ウソつくな、バチがあたるぞ。当にスラバヤ沖海戦で罰を受け日本海軍より海の藻屑と消され、仇を討ったと我が国の新聞紙上を賑わした。


      

 スラバヤ沖海戦で撃沈されたエグゼター


  話を巡航船上の「ヒコポンタス」戻す、強く記憶に残っていた、数年して、映画「ノッチングヒルの恋人」で[ヒコポンタス」にめぐりあった。ジュリア・ロバーツ扮する人気女優と,市井の本屋主人しがない青年との恋の出会いである。色々あって最後に決着をつけるため、おしのびでジュリアが泊まったホテルフロントで面会人との合鍵、符帳としてヒコポンタスが使われ、之が役立ってハッピーエンドとなる。 小生にとっては巡航船以来数年ぶりの再会であるが、2本の製作年度には半世紀以上の開きがあるう。この言葉アメリカ人にとってかなりなじみの深いのかと思われる。
 機会があって生粋のアメリカ人にどういう意味か尋ねたが、意外にも全く知らないと、益々探求心が深かまった。

練習空母に戻る、太平洋戦争が始まって航空母艦の重要性が高まり、米海軍では大量建造となり、同一艦艦50隻を1年間で作ることになり「週刊空母」とまで言いわれた。船は工業力に伴ってドンドン出来るが、搭乗員には問題あり、自動車王国であり飛行機乗りは順調に育ったが、母艦乗りとなると容易ではない、動かない大地と航空母艦では大違いである。数少ない母艦を前線から引き戻して練習にあてる訳にはいかない。母艦はできても搭乗員がいない状況になった。
  ここに、五大湖に浮かぶ外輪船を改造する話が持ち上がった。観光専門の「シーアンドビー」を買収、改造して「ウオルバリン」と名付けられた。
  フラットな船型、飛行甲板は容易に取り付けられ、16ノット出せる外輪も支障なく甲板下におさまる、只エンジンは石炭を燃料とし、重油専燃の海軍には要員がいない、取り換え論も出たが戦況が許さない、止む終えずそのままいこうと、周辺整備をし要員は民間人で、燃料はカロリーの高いヒコポンタス炭でとなった。ヒコポンタスの再登場である、石炭は発熱量から無煙炭、瀝青炭、亜瀝青炭、褐炭との区分があるが、ヒコポンタス炭とは炭鉱名ではないかと思われる。
  波静かな内陸湖、敵襲もなく訓練にもってこいである。母船としての甲板、16ノットの速力、他はいらない練習機は発着艦するだけである。格納庫もエレベーターもない、改めて装備されたのは給油装置と着船用の制動ワイヤーのみである。たちまち開戦の翌年1942年8月末に就役した。 しかし、艦船は定期的にドック入りの要有ありローテーションを考えてもう1隻が欲しい、次いで姉妹艦としてセイブルが装備され2隻体制となり、終戦までフル稼働して、空母のパイロット有資格者1万8720人を養成した。この中に43年18歳の若者がいた、その名はジョージ・H・W・ブッシュ、後の第41代アメリカ大統領である。戦争が終わると役割が無くなり即退役解体となった。先勝の大きな要因とたたえられるに比べうら寂しい運命であった。「歴史群像」 07-2より、
 
  ヒコポンタス何者か依然としてわからない。 或る日思い立って、地元鴻巣でも辺境の川里図書館を、それほど期待せずに、只ミリタリー系雑誌の所蔵を頼りに訪れることにした。ドンヨリとした小雨降るなか、たった1人の相客とコミュニテイバスで向かった。まわりにモヤがかってくる、見渡してさえぎるものがない、タンボの水面が取り巻いている、一瞬ミッドウエイを漂流する搭乗員もかくやと思った。やがて図書館に到着、早速雑誌コーナーに行くが目当てのものがない、書司がバックナンバーはというと世界の艦船1冊を出してきた、之だけかと尋ねるとすべて貸し出されていますとのこと、軽い失望感を憶えたが、同好の士が多いのに感じ入ると共に、ヒコポンタスに導かれるように関係コーナーに行き、船関係に当たり多少の獲物があったが、歴史関係に進むと「アメリカ有名人100人」に行きあたった。関連をコピーする。  ヒコポンタスはヴァージニア地方初期の歴史上有名なアメリカ・インデイアン首長ポウハタンの娘である。 ポーハタンと言えば明治維新の頃、こんな名の船があった筈と次の疑問が生じたが、これはさておいて、彼女は容姿端麗に生まれ、故あって英語を取得、初期英国から入植した人達のジェームスタウンと、これを取り巻くインデイアン達の仲立ちに大きな功績があったとのこと。ジュリアロバーツと本屋の青年、著しい環境の差に余りにもピッタリの符牒ではないかと感じいった。特に、彼女は白人と結婚した最初のインデイアンとされている。 小生ポカホンタスに導かれて、川里のr地で謎解きに成功した。しかし、ポーハタンの謎が残った。

                       

 ポ-ハタン ?
                           

       2015-8-12







        ミッドウエイ2   

                  大幡     

      8月中旬の朝、ねぼけ眼でテレビのスイッチを入れる。澤地久子の語るミッドウエイ海戦における日米双方戦死者3,419人の話である。 これを表にすると、


           搭乗員   乗艦員    合計  
  日本       121    2936     3057
  アメリカ     208     154      362
                          3419

 女史は、戦場で倒れた1人1人の陰に秘められた女性に光を当て、独特の戦記物で一時代を築いたが、徹底した実態調査に裏付けされ、それで多くの読者の支持を得たのであろう。

 番組の中で、戦死者3419名(日米双方)のすべてを調べ、個別ファイルを整理した大きな書架が紹介される。 1980-81年の1年余をかけ、資料整理にコンピューターを駆使し、まだPCのよく普及しない時期、プログラム作りから始め、銀行の負債が7千万円を越える時もあったという。

 さて、表の数字をたどっていくと多くの事が判明する。先ず、搭乗員の数だが、日米の比がほぼ1対2であるに対して、空母の喪失4対1との逆比例は、ドーントレスの出現前に、如何に多くの米軍機が撃墜されたか、また、ゼロ戦による防御が有効であったか、惜しむらくは低空に集中しすぎ、上空の配備が手薄であったかを示す。

 又、乗艦員の数を見ると

         戦死者    喪失艦   1隻当たり
 日本      2936       5      587
 アメリカ     154       2       77

 戦死者の比が20対1となる。いかにすさまじい敗戦であったか、少し立ち入って一艦当たりをみると、8対1であり、空母3隻の轟沈を如実に物語っている。

           



 澤地著「家族の樹・ミッドウエイ海戦・終章」を見ると、日本の死者の中には海上を漂流し、友軍の姿を見せながら見捨てられた多くの人が居る。一方、米軍に助けられたものも居る。さきの、ミッドウエイ、J・フォードでふれた如く、2週間以上の精密な探索活動に比べ、敗軍の情景が哀れである。

 女史はアメリカの個々の家族を訪ね、アーリントン墓地のH地区を訪れている。ここは遺骨の還らなかった400余の人が集められている。その中に、ミッドウエイに没したレイモンド・サルザロス、右真横にその息子が居る、いずれも航空兵である。息子はベトナムに没した。墓碑(マーカー)に次のように刻まれているい。


  レイモンド・サルザロス  1913-1942  (29歳)
    同     JR     1942-1966  (24歳)
                 注(  )は小生加記

 父の没年と息子の誕生が同年である。息子の顔を見ることがなかったし、息子は親の年を越えることはなかったのか、すさまじい家族の歴史である。

 女史は、親子2代にわたる戦死者につい、日本は数百万の戦死者がいるが、只の1人として親子2代ということは全くないと強調して、平和憲法に触れたが、小生としては憲法がためでなく、東西冷戦という僥倖あってとのみ考える。

 後日談だが、息子の消息はベトナムとの平和協定の成立で、遺骨が帰った為父親とは別の区画に移ることになったという、親子再びの別離である。

 父はハワイ、ヒッカム飛行場を出撃したB-17に搭乗し未帰還となった。果たしてゼロ戦の餌食となったのか疑問が残る。


            2015-9-18










         タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

                             大幡   

          

  ヒンデンブルグ 

第1次世界大戦当初、ドイツ東部戦線でロシア第1軍レンネンカンプの突出により、ドイツ第8方面軍が壊走して戦線が崩壊する危機が生じ、ドイツ参謀長小モルトケは軍団長プリットウイッツを解任、西部戦線より2個軍を振り向けると共に、代役として退役中のヒンデンブルグ(H)に加え、参謀長ルーデンドルフ(L)を差し向けた。

   

 ルーデンドルフ

 H・Lコンビは敗走する戦線を立て直し、露レンネンカンプの進撃もここまでと見なし、薄い防衛線で対処、残る全軍でサムソーノフの露第2軍に対応、知り尽くした地形を利用して各個撃破し、西部戦線からの援軍到着前に、露第2軍を包囲殲滅し鮮やかな戦果をあげ、ヒンデンブルグは再召集の途上で作戦を思いついた等、数々の伝説を生み国民的英雄として、戦後大統領にまでかつぎあげられた。

    



 余談だが、後々にしぶしぶではあるがヒットラーを首相に指名するという、芳しくない運命が待ち受けていた。

 このような伝説に、敗走する方面軍をどうやって、しかも短時日にまとめあげたのか長い間疑問としていたが、雑誌歴史群像98年36号タンネンブルク殲滅戦の記事により氷解した。その実情を以下に列挙する。


    ロシア側では

・ 苦境に陥入った同盟国フランスの強い要請があって、動員予定を繰り上げて攻撃態勢に入った。

・ 露レンネンカンプは1個軍団を壊走させたが、独フランソワ軍団の動きにまどわされ、第2軍との連携作戦をとらなかった。
  

 レンネンカンプ  ロシア北西戦線第1軍司令官

・ 本来、ロシア軍は後退しての焦土作戦を、ナポレオン以来の伝統とし、敵国に深く侵入する場合の補給体制を殆ど持っていなかった。

・ 露サムソーノフの第2軍はより一層深刻であった。既存の2個軍団が沼沢地深く突出し、残る新編成の2個軍団は小銃も充分にいきわたらないまま、バラバラに先の軍団を追いかけた。ここへ病気休養後のサムソーノフが新任され、殆どの幹部が初見という状態であった。軍をまとめるのに手一杯で、作戦を立てる余裕等全くなかった。
  

 サムソーノフ ロシア第2軍司令官

・ ロシア軍はわずかなトラックしか持たず、突出した2軍団は、終末、ドイツ軍との遭遇時には2日間全く食事をとっていなかった。
・ ロシア軍は通信力も貧弱で、一部では傍聴可能な無線が使用され、暗号員も不足して平文で通信し、作戦がドイツ軍に筒抜けであった。

 一方 ドイツ側では

・ 独第8方面軍軍の主力が露レンネンカンプ軍により撃破されたが、25㎞下がった線で踏みとどまって戦線を再構築した。
・ 一部の独フランソワ軍は待機命令を無視して、ロシア軍の後方に突出し、その補給線を寸断し露レンネンカンプに後方の不安感を与え、更なる追撃を思い止まらせた。
・ 独第8方面軍団長プリットウイッツは、露第2軍が南方に現れるとの報に包囲されるのではとパニックを起こし、ホフマン参謀の反対を押し切り、ヴィスラ河までの後退を参謀本部に直訴した。

                  

 独第8方面軍 プリットウィッツ

・ 独参謀長小モルトケは前線の軍団長毎に直接問い合わせ、それほどの状況ではないと確信、大胆で強い決断力のあるリーダーとしてルーデンドルフと、大軍を統括するのにふさわしい貴族フォンの称号のあるヒンデンブルグを起用して、プリットウイッツを解任した。
・ ホフマンはH・L2人の着任前に戦線を後退整備し、ロシア第1と2軍の連携不十分を見越して各個撃破のため、先ず第2軍に主力振り向ける準備をした。

       

  ホフマン 独第8方面軍参謀

・ ここで又してもフランソワ軍団は待機命令に反して第2軍の後方深く前進した。

 このような状況にH・Lコンビが着任、ホフマンの作戦を承認し、発令した。 正にタナボタ式に成果を得たように見えるが、実際決断するには深い思考と勇気ある決断力が必要で、その実力を伴ってのことであろう。

 この作戦の結果は、ロシア第2軍の20万の損耗率は75%に達し、第1軍も半ば近い損耗を受け国境の彼方に後退し、以後ロシア軍は一方的に敗退を重ね、やがて革命により第1次大戦の戦列を離れることになった。
 しかし、タンネンベルクの戦いは、ドイツにとって戦術的大勝利であったが、2個軍を引き抜かれた西部戦線では勝機を逸しやがて全面的な敗戦につながり、戦略的には大きな敗因となったと云える。

 雑誌歴史群像の前に、ソルジェニツインの1914年8月でタンネルベン戦に出会っていたが、そこでサムソーノフ第2軍が一方的に敗走する様が微に入り細を穿って書かれるだけで、ドイツ側の記述や、レンネルカンプのその後も殆ど触れていない。 ノーベル賞に輝く大作家だが月ごとにロシア史を描くのだというには、少々片手落ちの歴史ではないか、月を冠してのその後の著作にも出会っていない。小生の浅学故かもしれないが疑問が残る。

 しかし、第1次大戦、東部戦線の中央部。対オーストリア戦線について歴史群像に伴せてポーランド史でかなりの知見を得た。望外の幸せである。


           2015-10-22

  









    映画 ベルファスト71 を見て   大幡

     民族浄化・過激派テロ行為の祖         

  


         
  この映画は、北アイルランドの英王国への帰属に加えて、本国によるプロテスタントの優遇政策もあり、住民がカトリックとプロテスタントの2派に分かれた争いを背景にしている。 蛇足ながらベルファストは北アイルランドの首都であり、71は1971年の略である。
 
 アイルランドを舞台にした「フィオナの海」 「ケス」 「麦の穂をゆらす風」 「スカートをひるがえす風」 等多くの映画があるが、いずれも豊かな風景に加え、永い忍従の歴史と物悲しい民族の息吹に満ち満ちている。

 余談だが、「麦の穂をゆらす風」では、情報を漏らしたことで叔父が甥をピストルで処刑する、身内ゆえに辛い苦渋の表情が忘れられない。
 又、「スカートをひるがえす風」 では第2次大戦下、不時着したドイツ兵と同じ様なイギリス兵が席を同じくする場面があり、イギリス兵はまもなく送還される。 戦後チャーチルはアイルランドの中立を苦々しい思いをこめてなじったという。

 さらに余談だが、風情の全く違う映画がある。 J・フォード監督J・ウエイン主演の「静かなる男」 、延々と続くビクター・マクラグレンとのなぐりあい、と共に赤毛のモーリン・オハラはアイルランド女そのもので、何度見てもあきないがアメリカ映画である。

 アイルランドの歴史にはどこかなじまない。しかし、そのロケ地は有数の観光地となって、里帰りのアメリカ人を引き寄せている。

 アイルランド島はヨーロッパで最後にキリスト教化され1937年ヨーロッパ最新参の独立国である。もっとも、冷戦によるソ連崩壊後、バルカンでの合掌連衡を除いての話であるが。
 この独立に際して、分離を支持・反対の両派に分かれ激しい抗争があって、反対派が北アイルランドに押し込まれ独自の憲法をもった自治領の、2か国体制になった。
                            
       国土  成立年  首都      カトリック  プロテスタント
 共和国  4/5   1939  ダブリン      94%      4%
 自治領  1/5   1971  ベルファスト    30%     55%

  注) %は住民比であり、自治領の100%未満は無効票14%がある

 独立前、ダブリン周辺は工業が発達して、多くのプロテスタントが居住していた。 今は居ない、いかに激しい民族浄化の争いがあったかと思われる。また、自治領の都市部では、両派の居住区はハッキリ分離され、混住していない。

 映画は、カトリック、プロテスタントがそれぞれ硬軟両派に分かれ、これらの調停役として駐屯するイギリス軍も、諜報機関が独自に地下組織を持ち、しかもその長が正規軍の司令官よりも上位である。更に、IRAがカトリック過激派の資金源として加担している。
 そもそもIRAは独立後用済みのはずだが、それ以降も存続するには、アメリカに移民した人々の故国へのゆがんだ郷愁故のことで、TVコロンボにこの辺りの情景が登場した。

 映画は、治安警察活動中の1兵士が部隊行動から外れただ1人残され、イギリス兵と分かれば命の保証がない、誰が敵で味方かが分からない極限状況で右往左往する。
 映画の約束で、辛うじて生き延びる、しかもどの会派かの要人を殺害した上で、まことにすさまじい活劇である。チャンバラ好きにはこの上ない満足感を与えるだろうが、多くの観客は何が何やらサッパリ分からぬ内に、THE ENDの映画ではないか。

 バルカンを経て、中東でISISに至る過激派行動はアイルランドに始まったのではないか。キリスト教、イスラム教の進度の差が無法性と、残忍度に表れている。


          2015-10-9










      B-29誕生物語とB-15,B17 大幡 


ローマは1日にして成らずというのが、ボーイング社は今日世界の旅客機の大半を占める巨大なメーカーに成長したが、その飛躍の最大の成因は4000機と云われるB-29である。

 B-29の前にはB-17がその前にはB-15があり、更にさかのぼると、1916年太平洋岸シアトルで、ウイリアム・ボーイングとコンラッド・ウエスターヴェルトの2人が、水上飛行艇による初の沿岸航空便を成功させたことに始まり、1928年航空機設計者として名を成したチャンス・ヴォートを加え、ボーイング航空輸送会社を設立した。その後、多くの同業者を合併吸収したが、独占禁止法により解体され、ボーイングは全株式を放出、製造部門はシアトルに集約して、現在のボーイング社となった。  

  (余談だが、) チャンス・ヴォートは1931年’昭和6年)航空機メーカーを創立、この会社からグラマンF6Fと並んで、ゼロ戦の強敵となった、F4Uコルセアが生み出された。

     

 B-15  試作1機のみ

 さて、B-15だが、この機体は試作のみに終わったが、「映画テストパイロット」の主題となり、レイ・ミランド、ヴェロニカ・レイク主演で戦前に作られ、戦後、本邦初公開時池袋の映画館で見た。物語はテスト飛行に失敗して機体が失われるが、主人公が奇跡的に生還するというあらすじであり、細かいことは全く覚えていない。

  その機体はB-17より一回り大きく、分厚く広い主翼の4発機で、見るからに鈍重で成功作とは云えない、しかし、之がB-17に活かされ、ボ-イング社が多発機の世界躍進のキッカケになったのは間違いない。

  ヨーロッパ戦線のイギリスには、アブロ・ランカスターとショ-ト・スターリング・ハリファクスという2つの4発爆撃機があり、アメリカ参戦までは大いに活躍したがその後、多数のB-17が貸与され、両機を押しのけてB-17がイギリス空軍の主役となった。

  B-17まことに頑丈である。フライング・フォートレスその名前どうり欧州戦線で最も多く活躍した爆撃機である。尾翼の半分をもがれたり機首のほとんどを失っても帰着する等多くの戦例がある。


 

 ザックリと後部が切り裂かれている

 
 

 機首部分が破損している


   映画「メンフィスビルの鐘」に登場、まざまざとその勇姿と奇跡の生還を見せつける。又、そのフライング・フォートレスという名称は、この頑丈さではなく、洋上はるか進出する沿岸砲台という意味である。しかも、多くの機体が悪意ある「ウイドウメーカー」「マーダー」等と冠せられるなか、B-17に限り「クイーン」とまで呼ばれた。
 この頑丈さがB-29に引き継がれた。

                           

   

  B-29はB-17が完成後まもなく1938年ごろから構想されて、もちろん、対日戦など毛頭なかった。米陸軍航空隊も、ヨーロッパに台頭したナチス政権をにらんでだが、ハッキリした構想を描けないまま、巨額になる4発機に対して、双発機を多く揃えた方が有利との考え方もあった。急迫するヨーロッパ情勢に押されて、将来の爆撃機としての試案を求めることになった。

  ボーイングの外グラマン・ロキード・コンソリデーテッドの各社が応じた。他社の双発機に対してボーイングは4発機で応じた。ヨーロッパ戦線の考察から、防衛装甲・防御火器の強化・自動防漏タンク等追加仕様が要求され、4発機の余裕からコンソリデーテッドB-32Xと並んでB-29が試作されることになった。しかも旅客機に於ける与圧機能の実績から、B-29が主役、B-32XはB-29が失敗した時の控えに止まった。

 (余談だが)控えのコンソリデーテッドB-32Xについて、その要目、写真を見たことがない、全て計画のみの存在なのか小生にとって一切不明である。

        

 B-32 ドミネーター  コンベア社115機生産


  B-17・29のシルエット図を見て分かるが、その細い主翼から察せられるように、翼面荷重は337kg/㎡に対し、B-17のそれは166㎏/㎡で、ほぼ2倍である。従って高速が得られる反面、離着陸が困難になる。その対策として、翼面の20%にあたるフォ-ル・フラップで対応した。エンジンもプロペラも破格の大きさであり、与圧室により成層圏飛行も容易である。入念な模型実験等により筋金入りとなり、1941年3機が試作発注れ、完成予定は42年8月とされた。

                 

  B-29とB-17

 当時、ボーイング社はB-17の他ノースアメリカンB-25の生産分担まで求められているなか、完成には程遠い試作段階にも拘わらず、250機30億ドル量産が発注された。ここで12月8日の開戦をを迎え、更に250機が追加発注された。しかも、試作機を屋内で全組み立てする能力さえ無かった。それ程B-29は大きかったが、たちまち量産工場が立ち上がる程アメリカの工業力が巨大であった。

  この工業力の奥深さを、戦前アメリカを見て回った日本の軍関係者は大きいとは認識していたとしても、ここまでとは産業人も含めて見通せなかったし、又試作段階で500機を発注する軍首脳の洞察力・決断力は並々のものではない。工業力の差よりも人間力の差の方が大きかったのではないか。

 追記すると、B-29は累計4000機を越えたが、ボ-イング社はヨーロッパ戦線向けのB-17の多量生産を並行して行っていたので、全てボ-イング社のみではなく、マーテイン社・ライト社等も加わってのことである。ヨーロッパ戦線の進展もあり、B-29は対日戦用となり、昭和19年6月19日、成都発八幡製鉄所初爆撃となった。


          2015-12-9

  










      B-29・勤労動員・伝単  大幡

       勤労動員学生の見た・働いた 敗戦までの風景

                       

  戦時下の中学では遠足の代わりに野外教練が実施され。2年に軽井沢・3年には富士登山を伴う御殿場と、軍の設営した演習場での2-3泊の催しがあった。しかし、昭和19年後半になるとこれに代わって勤労動員が待ち構えていた。


  

  著者が参加した御殿場での学生軍事演習


それは、重要施設の延焼防止のため近接する木造住宅を強制撤去し、その跡地の整地・整理に駆り出されて、荒川区の王子製紙近くに行ったのが始まりだった。自宅近くで1階の壁を取り払い、むき出しの柱に鋸を入れ、2階にロープかけ、何人かで引き倒し、残された木片を燃料として持ち帰った憶えがある。

 やがて、工場勤務として板橋区の凸版印刷に数か月通った。そこには巣鴨から志村行の市電にのり終点辺りである。同学年の別のグループは近くの金門製作所(ガスメーターで知られる)に配属され、機雷を作っているときいたが、こちらでは紙と鉛の活字に囲まれ、戦争の雰囲気は全くしなかった。

 続いて、赤羽駅から徒歩20分程、隅田川沿いの理研金属工業に配置替えになった。ここでは機関砲に装填される弾体ケース付属品運弾板の部品をヤスリ仕上げするのが作業の中心だった。 3月10日過ぎ川に面した工場から水面が見え、10体余りの土佐衛門がただよっている。黒焦げで着衣もなくガスが溜まってふくれあがっていた。余り驚きもなく、日が代わって又数体来ても無心に眺めていたマヒしていたのであろう。悪童と語らって焼け跡を見に行こうと、工場を抜け出し東十条駅に行ったが、切符が統制されていて思いを果たせなかった。後に通勤定期があり無礼覚悟で車内から望見する丈でもとホゾをかんだ。
         



  下って、4月14日頃板橋地区がやられ、住居の目白から池袋までは行けたが、赤羽線が全線不通で線路上を板橋に向かうと、途中山手線車庫でかなりの車両が全焼して骨組みだけになっていた。板橋駅に差しかかると、貨物線に点々とウンコの山が築かれてういた。恐らく軍用列車がP-51等の機銃掃射を避けて、B-29の空襲前に無事発車いずれかに向かったのであろう。構内倉庫は半焼け状態で、黒焦げの山であった。近寄ると火に当たり膨れ上がったカンズメが散乱している。夢中でカバン一杯ひろい集め食料不足の折から、勇んでそのまま帰宅したと思われる。
  5月29日工場に居た、昼頃である、隅田川下流の方面黒雲がもくもく上がり、横浜が全滅した。

  6月勤務先が、下流北千住の東京製鉄に移った。敗戦間際の配属の吾々に、鋼の特性についてマルテンサイト・オーステナイト等の講義があった、のどかなものである。仕事は体格の大きいものが、小型ロール(圧延機)に配属され、赤く熱したビレットを金火箸でつまみ、ロ-ルの小孔に差し込むという荒っぽく、かつ危険な作業で戦中とはいえ、15-16才の子供がよくやったと思う。小生等小さいものは構内の雑用にふられ、平炉工場の鉱砕片・レンガ等を小運搬した。

  8月、工場の片隅で広島に落とされたのはウラニウム爆弾だ、マッチ箱程度の大きさで戦艦を真っ二つにする等ダベっていた。余り仕事が無かったようであり、空襲警報が鳴ったが、大したことはないだろうと話を続けていた。フト見上げるとB-29単体の飛行機雲が見え、しばらくして黒い爆弾様のものが向かってくる、ハッキリと視認した。もしも爆弾であったらこの文章は存在しない筈、奴は近接して破裂、空中に白い雲が生じた、伝単である。しかも数メートル先に伝単ケースの重りが落下した。続いて伝単が花ビラのように舞い散った。伝単初見ではない、6月ごろに、沖縄戦で台風が吹き荒れ、米軍を蹴散らして正に神風という風聞があった。之に対応するかのように、B4程のア-ト紙に新聞記事として、台風の記事とささいな被害であったと記されていた。鮮烈な伝単の記憶がある。これら禁止されていたが、隠して持ち帰り、戦争記念として保存していたが、いつの間にか散逸してしまった、残念至極である。

          



  まもなく敗戦となった。8月16-17日の事、椎名町(板橋区)の住居から近くの焼け野原、双発の友軍機が」やってきて、低空から伝単が降ってきた、ザラ紙に謄写版刷りはがき大のものだった。走り書き数行、徹底抗戦の趣旨だった。厚木航空隊・園田一味の仕業と後で知った。その伝単も今は無い。


            2016-1-10













     B-29 東京焼尽-3月10日 内田百聞、

                      大幡
  

 終戦後撮影された両国一帯、円形建物は国技館、右上の川は隅田川


  内田百聞によれば、昭和17年4月18日のドウ-リトル空襲を除いて、本物の空襲警報が初めて鳴ったのは、昭和19年11月1日とある。東京と限定すればこの通りであるが、日本全土ということになると如何なものか。
 それは、昭和19年6月16日、成都を基地としたB-29の47機が、北九州の八幡製鉄所を目標としたのが、本土初空襲である。


 昭和19年アメリカ軍は太平洋戦域の主導権を握り、南方地域を放置して、日本の本土攻撃に集中する態勢にあった。そこでヨ-ロッパ戦線は、B-17・25にまかせB-29は日本専用として、如何に早く日本本土を爆撃するか、至上命令である。

 そこで、インドを基地とし成都を前進基地とするル-トと、マリアナ諸島を占領しての直接ル-トの、2つの作戦が展開された。先ず、多くのB-29がアメリカ本土から、西回りのオ-ストラリア経由には、充分な中継地がなく、東回りで地球を2/3周しての、イギリスから、欧州戦線を迂回してエジプト経由インドに進出することになった。

 当時、B-29は量産初期不良の塊のような機体で、途中多くが出火炎上、撃落・不時着して19年4月2日、ようやく30機がインドに到着し、4月一杯かけて100機程になった。しかも、インドから成都への進出も、ヒマヤラ越え、夏からの日本出撃用の燃料・弾薬・その他機材すべてをB-29で搬送しなければならなかった。直接爆撃行の6倍ほどの輸送任務が待ち構えていた。

 余談だが、6月5日バンコックへ向け98機が飛びたった、B-29の初陣である。しかし悪天候と故障に阻まれて、77機が投弾できたが、戦火確認の結果有効弾は16-8発に過ぎなかった。

 6月18日68機が基地を出撃した。目標の八幡製鉄を襲ったのはその内の47機合計90トンの爆弾を投下したが、製鉄所はほぼ無傷であった。一方B-29はレ-ダ-に探知され、少数の迎撃機と高射砲にみまわれ6機に損傷を受けたが機体の喪失は無かった。続いて7月8日長崎・佐世保・門司再び八幡と、19日満州鞍山まで足を伸ばした。8月20日97機が出撃、1機が高射砲に3機が迎撃機により撃墜された。中々成果の上がらぬ司令官を更迭、ドイツ本土爆撃を指揮していたカ-チス・ルメイの登場となる。

 ここで、マリアナル-トの出撃となり、昭和19年1月1日の帝都空襲となる。暫らくは昼間・精密爆撃にこだわり、成果のあがらぬ爆撃が続いたが、カ-テイス・ルメイの夜間爆撃への方針転換により、昭和20年3月10日を迎えることになった。

 百聞先生によれば、3月10日土曜日に十五夜、10時30分ごろ警報が鳴る。零時を過ぎて130機襲来、いつもの8千メ-トルの高度から、2-3千メ-トルに下りてきて、やがて神田方面に(九段方面からみて)火の手があがり、大正12年の震災時のような入道雲が現れ、高射砲の打ち出す曳光弾が花火のように飛びかい、B-29の翼には地上の火の手等が反射して、赤くなったりまた角度の違いから青くなったりした、火の手は家の近くの九段まで迫り、表を焼け出された人々が列になって通った。火の手の明かりで顔までハッキリと見え、みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。

 その頃、小生中学3年生、当夜塀際の桐の木に登って、火事場見物よろしく東の空を眺めていた。住居は淀橋区(新宿区)椎名町4丁目番地は忘れた。当日火災の中心は向島本所・深川区で、百聞先生よりかなり離れての見物である。小生の見立てでは、B公*は1000M位の低空で、鋲打ちされた継目が見え、長方形の弾倉が黒い棺桶のように見え、その中に焼夷弾をかつえ、赤・青の航空灯をちらつかせて、東の方向本所へと飛んでいった。百聞先生、反射して青くと言っているが、航空灯の見間違えであろう。この方面なら小生のほうが確かである。また、モロトフのパン篭よろしく、収束された焼夷弾が、百メ-トルほどで散開して、それぞれの単体が帯状の布を引き、これに着火して花火の様だった。この下で炎に巻き込まれ一晩に10万人ほど犠牲者がでたとは、空にも思わず余り危機感も敵愾心もなく、木の上に居た。

  注) * B-29に対する市井の呼び名


 当時、他の家族を疎開させ、親父との2人活しであったが、東の方本所は元々の住居が仕事の根拠地であり、取引先の殆どが深川・城東方面にあり、親父にしてみればどれ程の心痛であったか、まことに不謹慎な話である。
 その後、下請けの松下鉄工所一家全滅や、高橋木型店の一族にも不明者がでたが、いずれも親交がなく顔も思いだせない。幸いにも両国の家は戦火をまぬがれた。

              

  国技館の下にあった筆者の家 焼け残る


 余談だが、上の写真では片ずけけられた後で、直後は焼け死んだ人々が街のいたるところにゴロゴロしていたのは想像にかたくない。
 近所(東両国)の諏訪さんは、山梨に疎開させた息子に、生涯めったにないことだからと、自転車の荷台に乗せて見せに来たという、当時軍による統制が厳しく、汽車のキップが手に入らなかったからである。小生にも経験がある。 それは、小学1年の頃郷里三重県磯部村に預けられていた折(疎開ではない)村の神路川が氾濫し、祖母の総領息子のマゴに見せてやれとのことで叔父の自転車の荷台に乗せられたのを憶えている。
 又、3月10日の2-3日過ぎ、勤労動員先を仲間の2-3人で抜け出し、現場を見に行こうと東十条駅に行ったが、キップが手に入らず断念した。しかし通勤用の定期で薩摩守を気めこめばよかったものを、そこまで悪知恵が働かなかったのか。

 戦火は続き、B-29の跳梁はますます激しくなる。

   東京空襲の人的被害

参考)

 死者3000名以上の日本本土空襲(核兵器を除く)を列記する。

 3月10日東京下町(死者約8~10万名)
 3月13日大阪(約3100名)
 3月17日神戸(約2600名)
 4月13日東京城北(約2400名)
 5月25日東京山手(約3600名)
 5月29日横浜(約8千から1万名)
 6月 5日神戸(約3200名)
 6月 9日名古屋(約2000名)
 6月17日鹿児島(約2300名)
 6月18日浜松(約2400名)
 6月19日静岡(約2000名)
 7月 1日呉(約2000名)
 8月 1日富山(約2100名)
 8月 7日豊川(約2400名

 
                  

  2016-3-3









 追補   東京大空襲は被害の低減ができた?

             阿部隆史さんによる        
 

 東京大空襲で10万人の死者がでました。 その作戦の米国の司令官ル・メイを戦後になって航空自衛隊に貢献したという理由で勲章を授与しています。米軍は勝利したゆえにその民間人の大虐殺を戦犯として問われることはありませんでした。 日本から勲章を与えることではありません。

 ジェネラル・サポ-トの阿部隆史さんから下記に転載いたしました。 
               以上 服部


1945年3月10日の東京空襲で日本は甚大な被害を受けた。
なぜであろうか?
折からの強風、大規模火災旋風の発生、電子機器の能力不足による警戒網の不備など多くの要因があるが中でも夜間戦闘機と対空火器の数的劣勢は致命的だったと言えよう。
だが「全力を挙げて生産したのに劣勢だった」のか?
断じてそうではない。



   月光

前述した様に1944年10月以降、日本陸海軍は夜間戦闘機を生産していないのだ。
かくして夜間戦闘機の生産を終了した11月から翌年3月にかけての貴重な4ヶ月間の空費は致命的な結果を招いた。
もし月光の生産を継続していたら、2式複戦をキ102乙に生産転換しなかったら、どれほど多くの夜間戦闘機でB29を迎撃できたであろうか。
米軍とて夜間爆撃で自軍の損害が大きければ無闇に実施できはすまい。
夜間戦闘機の数が揃っていればB29を覆滅するまでには至らなくとも「貴重な戦略爆撃機を失うのは惜しい」と躊躇させる程度の打撃は与えられたであろう。

戦史叢書95巻414頁による月光の生産数は1944年4月が35機、5月40機、6月40機、7月27機、8月35機、9月40機である。
つまり大抵は月産40機と考えられる。
よって4ヶ月継続して生産したら約160機を生産できたであろう。

陸軍の2式複戦はどうであろうか?
日本航空史878頁によると生産数は1942年度220機、1943年度715機、1944年度715機だ。
ただし1944年度はキ102に生産転換した為、7ヶ月しか生産しておらず生産能力は月産100機を越えていたと推測できる。

    

 キ102乙


つまり陸海合わせて140機、4ヶ月でおよそ560機を生産できたと考えられる。
夜間戦闘機の生産を終了させたのでこれが皆無となったのだ。
560機の夜間戦闘機は「焼け石に水」ではない。
3月10日の夜、来襲したB29は334機なのだから。
当時、夜間戦闘機の生産を中止した為に多くの被害が出た事を我々は忘れてはならない。

多くのマスメディアは東京大空襲を天災の如く扱う。
それは大きな間違いだ。
爆撃したのは米軍のB29だしそれを撃退できなかったのは日本軍だ。
どちらも人間だし人災なのである。
その責任を問う事と「何故、対処できなかったのか?」の問題を考える事は残された者の務めであると僕は考える。
終戦直後に米軍の罪を問う事は不可能だったから当時のマスメディアが天災の如く扱ったのはやむを得ないが現代のマスメディアについてはいかがなものか?

更に責任追及するのならば矛先は米軍だけでなく「充分に守れなかった日本軍」にも向けて欲しいものだ。
加えて米軍の夜間無差別空襲を批判するならば重慶に対して実施した日本海軍の夜間無差別空襲も忘れてはならない。
そうでなければ「棚上げ御都合主義者」とそしりを受けるであろう


           2016-3-22









   T.W(タウンウオッチ)赤坂見附・プリンスホテル(赤プリ)
     ・惑星ソラリス・李王妃   大幡 

   

T・Wとは変貌する都市風景を、時をへだててその前後の違いを比べることに醍醐味がある。TVで之をライフワ-クにしている人を知った。根気の要る趣味であり、変化を予測、その変容を的確にとらえるには、かなりの想像力が必要である。
 さきの人に渋谷で出会った。10年程前のことで、プラネタリウムのあった東急会館が現存の頃で、駅前東側の歩行デッキ上であった。 会館方向にカメラを構え、手許に写真台帳があり、かっての写真と照合しながら、慎重に何度となく立ち位置を変えている。話かけようと思ったが、つけこむスキがない。
 
 暫くして東急会館が消滅、ヒカリエの話が持ち上がった。そこで会館跡地にむかって、新しい建物を想像しながら、色々とシャッタ-を切った。その後ヒカリエが完成して、T.Wの神髄前・後と見比べようとしたが、前の画面が全く役に立たない、ヒカリエの特大さと全く釣り合わない、全て廃却した。想像力の問題だ、しかし、あきらめずに次の物件を待ち構えた。



     
  


   赤坂プリンスホテル 解体前  2011-1-12 撮影


 赤坂プリンスホテルの建て替えの記事にであった。とりあえず赤坂見付けに行き、赤プリの雄姿を色々と所を変えてカメラをのぞいた。これぞと思うポイントが見つかった、永田町方向からの道が渋谷方向へへ立体交差している風景、カメラをのぞくうちにどこかで見たぞと気が付いた。ソ連映画「宇宙船ソラリス」の記憶が読みがえった、タルコフスキ-監督はこの風景に地球外惑星ソラリスの未来イメ-ジを抱いたのであろう。

 かなり前になるが、大井町の武蔵野館で見た。当時ソ連映画専門館に近く、都内唯一という存在であったが、さて先ほどのシ-ンに戻ろう、映画を見ている時はハテナと感じただけだったが、程なく映画誌上で赤坂見付と確認した。

 いよいよホテル棟の解体工事始まった。最上階綿帽子状の仮設が設けられ、別添記事の工程で、徐々に高さを失っていく。工事のさなか、別の記事でホテルの旧館が横引きされると知った。新築される2棟の配置の都合上永久保存のために引越しとのことである。
 この旧館は元李王家の邸であったが、植民地としての併合から敗戦にかけ、物悲しい物語がある。李王妃・梨本宮方子様のこと。



      
  


  旧館 李方子妃邸  2014-1-14 撮影
  



              


  李方子妃
           

 話は1914年方子14歳の時である。 李王家コン殿下との縁談に始まる。当時昭和天皇も適齢期にあり、その皇太子妃としてあげられ、美しく才媛にめぐまれた姫君である。一方、コン殿下は11歳の人質として東京に連れてこられ、皇族として扱われ、陸軍幼年学校に進み、首席卒業と才能を発揮した。ともに意に反してだが、歴史の歯車は強い力で廻り」大正9年婚儀が進み、大正10年長子晋が生まれた。翌年李王家のたっての要望に親子3人で帰国したが、不幸にも晋は食中毒により8か月の命を閉じた。日本人の血が王家に入ることを嫌った毒殺ではないかと推察された。朝鮮人の激しい差別や流産の悲しみにもまれながら、ようやく昭和6年待望の世子玖が生まれた。
 昭和10年8月からコンは宇都宮14師団59連隊長として赴任、1年8か月の間、普通の民家で一家団欒の日を送った。たまたまこの59連隊付けとして、清王朝の愛新覚楽溥儀が赴任して、互いの境遇から親交をかわした。 時移り、敗戦とともに皇族としての地位を失い、苦難の生活が始まった、事実上のタケノコ生活である。

 故国は李承晩の激しい反日政策下にあり、李という一族であるにもかかわらず、一家はまったく無視されるに止まらず、公邸を韓国の国有財産である、駐日代表部のため明け渡せと迫られた。しかし、調査の結果私有財産と判明、差し押さえをまぬがれた。収入の途は途絶えて公邸は人手に渡り。堤康次郎の手をへて赤坂プリンスホテル別館となった。
 
 朝鮮戦争が始まり、1960年の政変により、政権がめまぐるしく変転、朴正煕の登場により、ようやく韓国政府の庇護下に入ることになった。

 1962年一家の帰国が実現した。コンは既に脳軟化症を患い、故国を認知できなかった。方子はソウルの地を踏んで間もなく、 の臨終を迎え、以来1989年(平成元年)87歳の生涯を終えたが、渡韓30年、身体障碍者のため、絵や七宝等の趣味を活かして展覧会を開きその全売り上げを還元して、日韓の橋渡しに務めた。強靭な精神力の持ち主であった。その後打ち続く反日政策下にあって全く忘れ去られ、わが国でもその存在を語られることが少なく、残念である。

 T・Wとんでもない脱線である。ホテル建て替えの話から数年が過ぎ、新館完成から半年ほどすぎて、現地に行き最初の地点でカメラをむけ、想定した構図に新館がおさまらない、はるかに雄大な建物である。なんとか全容をとらえようと弁慶橋の方向に移動、ようやくカメラにおさまった、前後の写真を見比べて、広角レンズの必要性と、自らの非才を強く知った。

 その後の記事によると、36階棟のほかに住宅棟24階とある、それが見当たらない、別館がどこにおさまるのか疑念が残る。次は台地にあがって、水平地地点で迫って見ようと課題が残った。この地紀尾井町という。紀州・尾張・紀伊の徳川雄藩の邸に由来する。



           
  

 

 

 解体途中   2013-2-28  撮影



  

  

 

解体終了  2014-1-14  撮影



   


    建設途中 業務棟 ホテル36階と住宅棟 21階 2015-5-28 撮影


  


    建設工事完了   2016-3-23 撮影


              2016-6-8







   ノルマン 1

                      大幡                                      

少年時代ノルマンジーという言葉に二つの強い記憶がある、ひとつがマンハッタンの埠頭に横たわるノルマンジーであり、いま一つがドーバー海峡に面した奇岩である。まず始めにノルマンジー_を取り上げる。

 

ノルマンデイ- 1935-46  79000トン 仏

 ノルマンジーはフランスの豪華客船で1930年代、大西洋のオーシャンライナーとして活躍したが,ヒットラー政権が誕生して、第二次大戦の勃発に続くフランスの対独降伏により、たまたまニューヨーク港にて出港を見合わせマンハッタンの桟橋にそのまま繋留されることになつた、かねてから航空母艦に改装の計画があり,そこで工事が始まつた。しかし大改装の設備があるわけでなく、兵員輸送用であろう。ところが度々原因不明の出火があり、溶接による火花とも思われるが、多量の注水により転覆して、やがてむなしく解体されることになった。この原因についていろいろいわれるが、作業員によるサボタージユではないかとの説が有力である。当時のアメリカの世論は対英援助一色ではなく、ドイツ系アメリカ人に対する配慮もあり、故国ドイツえのそこはかとない思いがなせる業と考えられる。

 これに先立って大西洋上で、援英物資を積んだ数多の貨物船に出火が多発し、魚雷によらず失われた。当然ドイツ系の作業員によるものと考えられた、その手口は葉巻状の発火装置を可燃物資に潜ませるものであり、広い船内容易いことである。まさにサボタージュである、やがてアメリカが参戦するや間もなく下火となっていった。未だヒットラー政権によるユダヤ人に対する蛮行もあまり知られなかった時のことである。

 蛇足だが、オーシャンライナーとはヨーロッパとアメリカを繋ぐ定期旅客船のことで、特にサザンプトン~ニューヨーク間のスピードをブルーリボン賞として競ってきたが、長い間イタリヤとドイツに占められていたのを、1935年、10年振りにフランスに持ち帰つたのがノルマンジーである。

 

クイ-ンメリ- 1936-67  80000トン

 

クイ-ン・エリザベス 1940-72 83000トン 英

 

翌年イギリスのクイーン・メリー、1940年、Q・エリザベスの三隻が90000tの巨体で覇権を競う事になつたが、それも戦争でQ・Eは客船として就航することなく、ノルマンジーは転覆の始末である。一方、イギリスの二隻は軍用船として改装され大活躍し、戦後帰還兵や戦争花嫁をアメリカに連れ帰り、1億ドルを超える運賃を稼いだ。因みにQ・メリーは1946年1年1月、戦争花嫁専用として改装され子供用ベツドや遊び場が設けられ、1年半の間にニューヨークに1万3000名、カナダに1万名の花嫁と子供を運んだ。 話は戻るが,フランス船で嘗て賞に輝いていたのは、イルド・フランスである。  

          余談だが、Q・E、Q・Mはライナー船に復帰、20年余り活躍したが、航空機にその座を追われ、Q・Mは1967年アメリカのロングビーチに繫がれて、ホテルとして使われることになった。一方Q.Eは不名誉な運命に翻弄されて、奇しくも1972年、香港でクルーズ船に改装中、原因不明の火災で転覆して32年の生涯を終える。
 

2017-1-12


 

 

        
                    


       
    
          ノルマンジイ 2     大幡     
                

 

 次は、奇岩のことである.戦前「新青年」と言うミステー専門の雑誌があり古本屋で手に入れて愛読した。そのなかの一章、エイギユ・クルーズにアルセーヌ・ルパンが登場し、奇岩のあたりの洞窟を根城にして神出奇没の活躍をした。この奇岩の挿絵風景がそっくりそのままで、モネの風景画で有名なことをしばらくして知った。しかし具体的なところは永らく不明のままであったが、半世紀以上たって判明した。それはドーバー海峡に面したエトルタの町で、渋谷ル・シネマの予告編「愛しき人生の作り方」に登場した。原題で(Les souvenirs)小生なりに翻訳すると「思い出の数々」又は「思い出でたどるエトルタ」と言うところか、このほうがよほどピッタリする。

 早速本編を見た、パリに暮らす祖母が夫に先立たれ姿を消し、仲のよい孫が思い出をたよりに、エトルタにやって来るとゆう話でそれなりに楽しい映画であるが、小生にとっては、なによりも奇岩のある港の風景である。忘脚の中に埋没した記憶が何かのきっかけで、はっきり蘇えることがある、脳の働きにわ不思議な力があり、潜在意識の領域ともいわれる。

 港には多くのヨットが屯ろして、町は観光客でにぎわい、モネにあやかろうと絵筆をとる人々がいる。長閑な風景であるが、一方奇岩の辺りは自殺の名所でもある。さしずめわが国の当尋坊と言うところか。

 冒頭の古本屋だが、目白通りに面して、目白駅と当時の住所下落合との中ほどにあって、その手前が山手通りとの四つ角であった。其のころ(昭和18年)山手通りといっても、戦時統制下で工事が中断され、起伏の激しい道路予定地にすぎなかった.この予定地を右に行くと目白台地のはずれ、西武新宿線と立体交差のため、コンクリート打ち放しの橋脚が、中居駅から見ると保塁の様に聳えて、エトルタの奇岩を思わせた。 余談だが、マッカーサー達がやってきて、日本には道路予定地は有っても、まともな道路はないと言ったが、途切れ途切れの山手通り、正に予定地そのものであったが、一方、虎ノ門3丁目から新橋4丁目にかけて、幻の環状2号線、別名マッカーサー道路と言われ、予定地としての厳しい建築制限により、両側に高層ビルが建ちならぶなか、低層の木造建築のまま70余年が過ぎ、1兆円を超える予算をかけて、今日、ようやく完成した。溜池から来た2号線が虎ノ門ビルの足元をえぐって地下にもぐり、2階建てで国道1号線の先で汐留めの地下道につながった、地表の一般道、広々としてシャンゼリゼかも。しかし、その先魚市場問題で途切れている、予定地はどこまでも続く。

先ほどの古本屋に戻り目白通りを500米程行くと、中野と練馬方向の二股になるが、その少し手前の路地を右に曲がると、そこは医者横丁で、キャノン創業者の御手洗医院があった。二股に至り左手の中野方向少し先、左側の小野田米店で左折200m、かっての我が家である。

二股に戻り、右手の練馬に向かい、すぐ左に映画館があった。此の辺り強制疎開となり、隣あった民家の取り壊しを手伝った覚えがあり、二階建て民家の一階部分の壁を取り払いむきだしの柱に鋸をいれ、予め取り付けられたロープを総がかり、弾みをつけて引倒す、無残にも瓦礫の山となり、その夜、悦子(妹)と木屑を薪として持ち帰った。暫らくして悦子は三重県磯辺村に疎開した、昭和19年末の事で、親父と二人きりの自炊生活始まった。映画館に戻る、そこで白黒の水谷八重子主演の「小太刀を使う女」を見た。一時八重子がマドンナであった、

懐かしい思い出もあるが20年4月から5月にかけて、目白駅から此の辺り一面焼け野原となってしまい、小野田米店も焼けた。その倉庫に半焼けの米が一杯あり、勿論かなりの量を持ち帰った。この先で徹底抗戦の電短を拾ったが、とにかく終戦となり、幸い我が家は戦災を免れた。世の中が落ち着くまで、親父との二人活しが続いた。  思い出は尽きない、エトルタがとんだ事になってしまった、このへんで終わろう。
 


         2017-1-13

 

 

 

ギガント・ メッサシュミット・マンシュタイン    大幡  

 

  

  Bf-109で知られるメッサーシュミット社では、あまり多発機を見かけない。ところが、昭和17年頃の航空朝日に一葉の写真が載っていた。6発の高翼単葉機であり、戦後今日までこの一枚しか見かけなかった。その要目にいたっては一切不明のままであったが、ある日旧じゅんく堂大宮支店の雑誌コーナーで「S A」なるミリタリー誌を取り上げパラパラと見ると、突然まごうかたなくギガントMe323が大きく鎮座しているではないか、余りの奇遇にあわてたのか一旦は書棚に戻したが、数日たってあらためて購入した。

 当初の小型機による空挺部隊が、戦車や大口径の火砲を擁する部隊に遭遇すればひとたまりもない、そこでギガントが兵員200人か4号戦車など重量機材を航送するグライダーとして構想された。1941年Me321とJu322(ユンカース)の2機が試作され、Ju322は初飛行の時、事故で不時着など不具合が多くMe321が採用され、量産されたがクレタ島での大被害から、心ならずも当初の構想から外れて、専ら物資の輸送、特に孤立した部隊への補給作戦に投入された。

  写真 ハインケルHe111Z


この巨大機を曳航するために、ハインケルHe111を2機、横に繋いでその繋ぎ目にいま1個のエンジンを設け、都合5発機として開発された、しかし、曳航するため飛行場の制約等があり、なかなかうまくいかなかった。そこで、グライダー自身にエンジンをと左右に3発ずつ計6発としてMe323が開発された。
全長28.5m翼幅55m、機体は殆どが鋼管と木製の骨組みで羽布貼り、広大な貨物室には観音開きの大型ドアを備え、重量物の積み込みのため低床とし、不整地での離着陸を考慮して独立懸架式10個の車輪を備えている。巨体にもかかわらず胴体の大部分が羽布貼りで、人員輸送時に兵員が指で穴を孔ける事から、厳重な注意事項が登場した。

 


 上写真2枚 メッサーシュミットMe323


 半世紀ぶりの邂逅に重ねての対面が生じた、吹上図書館での「マンシュタイン伝記」である。クリミア攻略ハリコフ戦と寡兵もって奇跡と言える勝利を得た将軍も、時移りナチス頽勢のなか処を代えて、クリミアに立て篭もることになった。残された兵力を点検するなかに数機のギガントがあった。名将とはいえ只のグライダー、どれほどの戦力になったのか、改めてこの辺りを調べようと、さきの伝記を照会したところ所蔵されていない。読者の引き合いが少ないので、処分されたのであろう。哀れをもよおす。

 余談だが名将の為ふれておきたいことがある。それは、ドイツの名だたる将帥、なかでも、ロンメル、ルントシュテットを差し置いて、英米の将星達の尊敬と頌栄を一身に集めたのがマンシュタインである。それに、スターリングラードの悲劇生んだヒットラーの死守命令を、始めて覆したのも彼である。 
 
 そもそもグライダーはスポーツから始まり、一説によるとドイツ軍部による密かな航空兵養成策ともいはれるが、空挺作戦が盛んに研究され、パラシュート降下に伴う兵員の分散と戦力低下に対してグライダーがとりあげられ、少数の空挺隊の兵員と小火器の輸送用として開発され、1941年5月ドイツのグライダー部隊はベルギーのエベン・エマール要塞に奇襲攻撃を加え大成功したが、翌41年5月のクレタ島で作戦こそ成功したが、制空権のないまま大被害を被り、以後ドイツ軍は大規模な空挺作戦を発動しなかった。
そしてクリミヤのギガントMe323、孤立したマンシュタインに補給物資を運んだまではよいが、心許ない制空権下、傷病兵の送還もままならず、いたずらにヤクー17の餌食になったのではないか、たよりない小生の妄想だが。


 ギガント、ドイツ語で Gigant 英語で Giant である。

 

       2017-6-3

 

 

 

           

 

 

 


  
     B 2 9 撃ち落した物 遺した物     大幡

 昭和20年4月頃だったか、昼間家に居た、東の方角一機のB-29が煙を引いて墜落していった。思いたって現場探し、さして手間どらずに見つかった。目白の学習院裏手、高田の馬場寄り旧船舶研究所の辺りである。散乱するアルミニューム片の中から、長さ5~60センチの一片を手にする。翼の断面をして航空機断片とハッキリ証明できると喜んだ。近くにスーパチャージャーと思しき塊があり、間違いなくB-29と判定できる。当時の日本にはスーパーチャージャーそのものが全く無かった、又、断面の小さいのわ当然補助翼等であろう。大切に抱えてもち帰った。

 日時を特定しようと関連記事を探したが見当たらない。百間先生にも無い、もっとも先生の九段から見れば、はるか西の淀橋方向は死角かもしれない。 そして、B-29の撃墜基数も僅かものであろう。勇戦奮戦の物語に対して、組織的な迎撃記録が殆ど見当たらない。おそらく総数で100機を越えないのではないか。 ひるがえってヨウロッパ戦線での連合軍の爆撃機の損失数は数1000機台におよび墜落して捕虜になった塔乗員も数1000人を楽々こえている。B-29の成層圏との対比ではあるが、迎撃力においてドイツと日本の工業力の差が、如実に現れているのであろう。  しかし、被弾して目前の墜落にいたらなくとも、基地に帰投できず、海上にかなりの機体が不時着水する様である。大空襲のあと、再度警報が鳴り、敵数目標南方海上を遊よく中と、報ぜられるのが通例である。

   これは、海上に不時着水した搭乗員の収容作業と断定してよい。B-24かカタリナ飛行艇である。発見された漂流者は潜水艦に収容される。

 2月19日始まった湯黄島上陸で、洞窟に篭り3月23日までつずいた栗林中将の遅延作戦にもかかわらず、3月4日には一機のB-29が着陸に成功した。驚くべき設営力あり、僅かとはいえ我が対空成果の証でもある。 3月10日東京に始まり13,4日名古屋・17日大阪・神戸・19日再び名古屋と、毎回300機以上の爆撃により、基地の焼夷弾が底を尽き、その補充がつくまで、4月16日 5月11日の間、大都市えの焼夷弾攻撃が中断された。その影には4月1日から始まった沖縄戦と、これに対応する特攻作戦を阻止するため、九州地区の基地爆撃に、B-29の全力が振り向けられたのである。この1ケ月の余裕が、大都市からの子女の疎開につながったのである。暫らく東京に爆撃がなかったのをはっきり覚えている。しかし5月20日東京南部、29日横浜昼間、硫黄島から発進のP-51が護衛として参かした。此のとき揚がった黒煙は忘れることができない。さらに、B-29の5空団の内315空団は夜間専用として、尾部を除いて全機銃を外し、搭載量を増やして爆撃を行った。わが国の夜間迎撃力は全く無視されるしまつであった。

 空中で色々のことがあったが、地上では3月10日一夜で10万程の死者が出た。民間人の一夜だけの数としては第二次大戦最大の出来事ではないか。その遺体は、当時天皇の巡視に備えて、焼脚処分の余裕も無く、到る所で仮埋葬され、其の詳細は別表の通りである。戦争が終わって、昭和23年頃焼け残った両国に戻った。家族も疎開地から帰り一家団欒が再現した。日々の生活が落ち着いて、近くの江東(エヒガシ)公園が遊び場として復活、ギンヤンマ等が飛び交い、それを追って、高さ2米位長さ20米程の蒲鉾状の土饅頭を、駆け上がり駆け下りた。知らなかった、遺体が埋葬されていたのだ。知らぬが仏とはいえ誠に申し訳ない、バチ当たりである。

  表を見ると江東公園(50)とあり,小生が目にした錦糸公園の5~6基の土塁では (12895)とあるが、江東の2基で50とは全く解せない事であり、少なくとも500であろう、この土塁知らぬ間に改葬され公園は平地に戻っていた。そして、B-29のアルミ片も、電短も、「海と空」も無くなっていた。しかし、色々な情景は脳裏に焼きついてあの世に持っていくことになるだろう、そうして僅かでも、敗戦の痛みを後世にと、この項を立ち上げた。

 

 

 仮埋葬地と埋葬数、 





     2017-1-14



 

 

   
     因果は廻るオリンッピク-1 ベルリン・東京・ヘルシンキ
                                                大幡


 昭和11年ナチス政権下で、第11回ベルリン大会が開催された。この大会にからんで、ハッキリした二つの記憶がある。
 小生、故あって三重県志摩郡磯部村にあずけられていた、小学校2~3年のころ、父親から送られてきたマンガ本「江戸っ子健ちゃん」に、ベルリン大会が登場する。4コマ漫画である、先ず、暗闇の町屋の屋内「前畑ガンバレ」の声援が激しく流れる、 平泳ぎで独ゲネンゲルとの対戦である。次に、家人がラジオの音がうるさく近所迷惑でしょと。声を小さくする。 すると隣近所の窓が開いて、声を上げろ聞こえないぞと怒声が上がる。(この4コマだけハッキリ記憶している)当時ラジオの普及し始めで、全戸に行きわたっていなかった世相を示している。いま1つは、村社(むらこそ)とフィンランド勢との1万米のデッドヒートである。

 


 余談だが、江戸っ子健ちゃんに脇役として、アラクマさんというひげの小父さん(寄宿している大学生というところ)と、従兄弟ぐらいにあたる坊や、アラクマさんの学帽を顔半分かくれる位にかぶって登場するフクちゃんが、大ブレークしてその後健ちゃんの影が薄くなってしまった。当時、河田水泡の「のらくろ」と「フクちゃん」が、マンガ界を二分する勢いであった。

 


 さて、当の「ベルリン大会」、レニ・リーヘンシュタール(女史)監督により、陸上「民族の祭典」水泳「美の祭典」として世界に紹介され、ヒットラーの盛名を挙げたが、東京に戻って小学生5年の頃、日・独・伊三国同盟もあって文部省推薦となり、クラス単位で映画館で見た。
 ベルリン大会多くの話題のなかで、特筆すべきはトラックで力走するオーエンス、撮るのはレニ女史、迫力を求めて是非とも地上すれすれのアングルをと、恐るべきことにトッラクに穴を掘り、そこにカメラを据え付けたとのこと、これも、ヒットラーの絶大な支持があってのとであるが、(実際にどの様なシーンであったか覚えていない)この知見半世紀たって判明する

 

レニ・リーヘンシュタール


 女史のこのような権威には次のような事情がある、彼女は女優でありながら、山岳映画の監督として名を上げ、このドキュメンタリーの才をヒットラーに見込まれ、1934年ナチスニュールンベルク党大会の記録映画をまかされ、高く掲げられてはためく党旗の合間から、行進する隊列を見下ろすシーンが、それまでにはない斬新なものとして世界の賞賛を受けた。続いてのベルリン大会である。しかし敗戦とともに、ナチとしての激しい社会の指弾を跳ね返して、すさまじい人生を送ったが省略する。

 最近「栄光のランナー」を見た、主人公はオーエンスである、100・200・走り幅跳びと順調に、3つの金メタルを取得する、ヒットラーは金メタル選手を招いて小宴を設けていたが、1人、黒人のオーエンスは無視されていた。マインカンプに強調したように、優秀なアーリヤ人を劣等の黒人・オーエンスが、しかもドイツ人ロングを征服したのだ、どれ程腹立たしいと思ったか想像を絶する。この辺りマインカンプを読んだが覚えが無い、特に日本人関連は翻訳時に削除されたらしい。
 トラックに戻る、競り合うオーエンスとロング、最後の跳躍に際して、ロングは相手のくせを知っていたので、踏み切り板に目印となる白布を添えて新記録の手助けをし、しかも、表彰式のあと、オーエンスと肩を組んでトラックを一周し、互いの健闘を観衆にアピールしたのである。ナチの人口政策をあざ笑うかのようであった。
 さて、小生の記憶によると、オーエンスは4つの金メタルを取ったはずだが、オーエンスの出番が終わったという流れである、どうしたことかと思っていると、800リレーが残っていた。しかしオーエンスの名はない、これまでかという所に異変が起こる、2人のメンバー変更が告げられ、ともにユダヤ系で、代わりにオーエンスが登場する、勿論アメリカの勝利である。めでたく4つ目の金メタルを手にする、記憶に間違いはなかった。
 このレースには醜い裏話がある、アメリカではベルリン大会には参加すべきではないという世論が高く、最後の評決は58:56の二票差であり、これを導くため招致派のリーダーのブランデージがナチと裏取引きし、オリンピック期間中のユダヤ排斥運動を抑えることの代償として、ユダヤ系選手を除外することにしたのである。
 戦後、ナチに手を貸したのではないかと、バッシングを受けたが、数十年にわたりアメリカ・アマチュアスポーツ界にリーダーとしての地位を保持した。


 映画に戻る、競技の終わったオーエンスにレニから、もう一度跳んでくれとの要請があった、彼は観衆が居なくては実録にならないと強く断ったが、レニのどうしてもオーエンスの素晴らしい跳躍ポーズをとの熱意に応え、跳んだ見事に空中高く、オーエンスだけのシーンである、フイールドに穴を掘り地上すれすれに据えたカメラによって。やはり穴を掘ったとの記憶に間違いは無かった。

 


 余談だが、この「民族の祭典」会期中5~60台のカメラと、数百人で撮られて膨大なフイルム量である。これをほぼ一年かけて、レニ一人で編集した、ゲッペルス等がどれほど急がせたことか、誰一人寄せ付けず作業したという、絶大なヒットラーの支持なしにはありえないことである。
 映画の出来は素晴らしく世界を駆け巡り、昭和15年9月28日三国同盟成立、同年12月14日「民族の祭典」次に「美の祭典」と、全国一斉に封切りとなった。

 

 

 


 因果は廻るというが、200米平泳ぎの前畑・ゲネンゲル、走り幅跳びのオーエンス・ロング、共にお互いの健闘を称え、次の再会を約したが、次は無かった(東京大会辞退のため)。半世紀たって、有志により、ゲネンゲル・前畑は東京で再会した。オーエンスは永くアメリカ競技界に地位を得たが、ロングには苛烈な戦線が待ち構え、命をまっとう出来なかった。

 

 


 ヘルシンキとの係わりであるが、ベルリン大会一万米での、村社(むらこそ)とサルミーネン・アスコラ・イソホロの残念なデッドヒートがあるが、これは他項にゆずる。
 12回東京大会の辞退に伴い代替会場としてヘルシンキが決められた、しかし、それもソ・フィン戦争により消滅した。その次の13回ロンドンも第2次大戦のため中止、戦争が終わって14回ロンドン大会となったが、敗戦国日本は参加できず、次の15回がヘルシンキとなり、これに日本が戦後初参加し、水泳の古橋・橋爪が大活躍して、多年のうっぷんをはらしてくれた。とにかく因果はぐるぐる廻った

 

         2017-1-15

 

 

 

  

 

 


       幻の オリンピック-Ⅱ  東京大会(夏・冬)万博・皇紀2600年


                                  大幡


 昭和11年ナチス政権下のベルリ大会の映画「民族の祭典」を見た、昭和15年街の映画館でクラス全員で見た。前項でふれたフインランド勢と村社(むらこそ)のデッドヒートの影に1つの話しがある。それは最後の1周先頭にたったサルミーネン・アスコラ・イソホロの前に1人のランナーが居る周回おくれである。彼は近ずく3人の気配に内側の走路を空ける、3人に続いて村社も先を行く、レースはフインランド勢の1~3位村社4位残るランナーもゴールする、しかしさきほどの彼残り1周である。ひたすら懸命に走る、走路を空ける行為もあってか満場の観衆スタンデイングオベイションで応える、感激である、その彼は日本人と認識していたが、そのご調べてみたが関連記事が見つからない、 名前も分からない幻なのか。

 


 ベルリン大会が終わった、次は東京大会である。昭和11年当時わが国は壮大な計画をたてていた。その頃のオリンピックは夏冬同時に1国で開催することが原則であり、東京は両大会に併せて万博もと企んでいた。その会場として月島4号地、今の晴海が当てられることになっていた。昭和15年頃この地は方形に整地されていたが、何もない荒地のまま放置されていた。
 格好の野球場である、草野球のチームがテンデに集まり、早いもの勝ちでゲームを楽しんでいた。殆どの成年チームに伍して、小学5~6年の我々も相手チームを探して遠征した。ゲームのさ中、客を求めて玄米パンの売り子が自転車に物をのせ「玄米パンのほやほやー」とやってきた、うろ覚えだがほかほかと温かかった。両国から月島まで帰りの電車賃玄米パンに消えて、歩いて帰ったのも楽しい思い出である。


 昭和10年オリンピック誘致が始まった、2月オスロ総会に日本は只1人杉村陽太郎が乗り込んだ。12の候補地はローマ・東京・ヘルシンキの3都市に絞られていた、ローマに対して、当時日・独・伊3国同盟の機運がめばえ、ヒットラーを介してムッソリーニの辞退をとりつけ、同年7月の総会が開かれ、決選投票の結果36:27で東京に決まった。

 


 満州事変に始まる日本の大陸進出について、世界で物議をかもしていたが、ナチ程には認識されていなかった。決定の報に東京では万歳の嵐、徹宵の祝賀会、明けて日の丸と五輪旗の乱舞、色々の記念行事が続いた。
 しかし不吉な予兆がしのび寄っていた。万博である、万博は世界博覧会協定により、6年毎と決められていた、そして、前回は1935年ブリュッセルで開催され昭和15年(1940)は条約に適合しない、当時この条約に入っていない我国は開催するのは勝手だが加盟国は参加出来ない、万国という振れ込みは成立しないし、意味がない。
 このような基本的な条件を、当時の関係者が全く知らなかったとは少々疑問が生じる、一説によると昭和15年が皇紀2600年に当たり、これの行事としてオリンピック・博覧会として計画されたと言はれる。世界平和・万国協調の理念として、しかるに軍部の独走により、昭和12年日支事変が起こり支那大陸に戦線が拡がり、想像以上の戦費の増大と、世界の反対気運の拡がりにより、昭和13年1月返上となった。

 


 ここで先祖がえりして、皇紀2600年行事が前面に出てきた。 「金鵄輝く日本の 栄えある光身にうけて~~紀元は2600年 ああ一億の底力」 記念歌である、歌詞は一部欠けるがメロデイーは今でも口ずさめる。そうして、事変下にもかかわらず、というよりむしろ統制経済下、国威発揚・国民精神高揚のためとして、色々の設備が準備され、その最たるものが天孫降臨の地・日向(宮崎県)に建てられた八紘一宇の碑である。戦争中小額紙幣に使われ、しかも現存している。何故か占領軍のメガネをのがれて。


 今一つ、11年ベルリン大会ではラジオの世界同時放送が初めて行われ、前畑ガンバレにつながったが、当時わが国では八木英次等によるテレビ放送の研究が進み、何らかの形でオリンピックえの参加が試みられていた。「イ」の字が幻の様に浮かぶだけであったが、奇しくもこの八木アンテナが電探として我国を苦しめることになった。

200m平泳ぎで金メダル 前畑秀子さん
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  
       因果は廻るオリンピックーⅢ  ベルリン・(東京)・モスクワ・北京
                                    

                             大幡

 1936(昭和11年)ベルリン大会は、ヒットラー政権成立の前年1932に招致が決まっていた。オリンピックの「あらゆる民族の選手が一堂に会し同じ条件で競う」と言う理念は、ヒットラーの「アーリア人は他の人種より優れ、選ばれた」と言う信念とは全く相容れない、権力を掌握して8ヶ月、はじめはオリンピックに積極的ではなかった。 ここでゲッペルスが登場する、宣伝相として、彼自身は激しい反ユダヤ主義者であったが、今、世界にドイツがいかに文明的であり、かつ近代的な国であるかを誇示する好機であると、ヒットラーを説得、ナチス総力態勢を築き上げた。 ドイツの産業力が猛然と動き始めた、地下13mに堀下げた壮大なオリンピック・スタジアムに続いて、各種競技場、展示ホールなど全ての建物が天然石で覆われ、ベルリンは輝きわたった。また、クーベルタンとの交渉もあって大会期間の前後しばらくの間、反ユダヤの行為はベルリン周辺から一掃され、世界から来た観衆の眼に入らなかった。そして反ナチでは最も強硬なアメリカも、オーエンスの4冠にあわせてヒットラーを連れ帰り、アメリカをもっと秩序立てて欲しいと言う思いが拡がった。 とにかくベルリン大会は国威発揚の面では、競技場をツエッペリン飛行船が空を圧して悠然と飛行した。しばらくナチの隆盛がつずいたが、10年後あっという間に崩壊した。

 

 

 

 昭和15年12回東京大会返上により、代替地として次点のヘルシンキが浮上したが、これも第二次大戦により消滅した。13回に予定されたロンドン大会は戦火に潰え、12年の空白後14回ロンドン、15回ヘルシンキと続いたが、14回に敗戦国日本は参加どころでなかった。 昭和27年ヘルシンキに戦後初参加、富士山(ふじやま)の飛び魚古橋・橋爪の水しぶきがあがり、時は流れ東京大会(昭和39年)、ジェット機の五輪マークが鮮やかに見事に空中に描かれた。対ソ連の女子バレーが圧巻であった。横浜の古河電工へ営業に行った帰り道、相模線の平沼橋駅近くの焼きソバ屋で、手に汗して勝利を堪能した。10年たって(国としは)何事もなく昭和50年代は半ばを過ぎた。  

  1980年モスクワ大会、東西冷戦の只中どうして選ばれたのか、又、西欧諸国・日本が参加を取りやめたのか詳しい事情は知らない、とにかく参加しなかった。マラソンの瀬古・柔道の00真っ盛りの選手、どちらも出れば間違いなく金メダルと世界も認めていたが、この機会を逃して残念至極であったろう。 話しは昭和15年の東京大会に戻るが、小生中学生(昭和17年ごろ)、体操の先生に能登さんがいた。筋肉隆々逆三角形の素晴らしい体躯であった。オリンピック候補と聞いていたが、我々はカバと呼んでいた。当時いくつかの国祭日では「海行かば」を斉唱することになっていたが、海ゆカバ・水くカバね・山ゆカバ・草むすカバね・おおぎみの~と、カバの所を強調して歌っていた、先生にも充分伝わったことと思う、誠に無礼なことだが式典は平常通り進み、何事もなかった。

 さて、1980年のモスクワ大会、1991年突然ベルリンの壁が崩れ、ソ連政権も続いて崩壊した。何のめぐり合わせかベルリンに続いて、大会から10年余である。20世紀を通して、最大の独裁政権が軌を一にして、オリンピック開催の10年後に崩壊した。

 オリンピックは続くどこまでも、2008年北京で開かれた。ベルリン・モスクワに比べ、参加を拒否する国はなかった。差異が有るとすればこの点だけである、独裁国家としては何ら異なるところは無い。むしろわが国に降りかかる災厄はその比ではない、むしろ最悪の災厄政権である。二度あることは三度あるという。10年後にあたる2018年何事もなく、平穏無事に過ぎるだろうか、2020年の東京大会が無事迎えられるか、もしも、習政権が潰れたり、その潰れ方によっては、わが国がどの様なことになるのか、経済ががんじがらめの現状、平穏な筈がない。オリンピックどころではない、再び、大会返上ということになるやも知れず、痛し痒しどころか、世界の破滅どんな惨状が待っているのか、因果は廻るというが、昭和10年代一方的に攻め込んだ日支事変にひきかえ、只ひたすら防御一辺倒の尖閣、戦々恐々の毎日である。

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

     
    亀沢町・思い違いの数々勝小吉と割下水  
                                     大幡

  「本所菊川町・勝小吉と同じ所者(ところもの)だい」とながい間菊川生まれと思い込んでいた、ある時、戸籍抄本を見ると緑町1-10番地とある。調べてみると、小吉も両国(現在の墨田区東両国)生まれである、「本所菊川~~」の思い込みはどこから来たのか全くわからない。
 昭和11年、緑小学校に入学、一年一学期は亀沢町(二丁目あたり)で過ごした、当時の担任を大石先生と思い込んでいたが、残されていた答案資料から川井先生と判明した。どうしたことかこの一学期のみ資料が残っている、母「つる」は父と結婚するまで、郷里三重県志摩郡磯辺村・尋常小学校の代用教員であったとのこと、教員としての資質からか、資料の保存に気が回ったと思はれる。
 図画の時間に、近くの線路を後ろ向きに走る蒸気機関車、煙が機関車の頭方向に流れていて、後ろ向きに走っている書き方を、よく見ていると先生に褒められた。その証となる絵が有ると思い込んでいたが、どうしたことかこれも資料にない。褒められた記憶はあまりにも鮮明である、とにかく思い違いの連続である。


 余談だが、近くの線路、総武線が両国駅貨物操車場に引き込まれる線路であり、鋼製の桁が枕木を井桁に組んで支えられていた。昭和11年頃のことである、この仮設工事の風景戦後しばらく続いた、戦時統制令の影響を受けたのであろう。


 昭和11年夏休みになって、母の発病(肺結核)で療養のため、郷里恵利愿に一緒に行くことになった。「たに」祖母さんが迎えにきて、東京駅始発鳥羽行きの夜行列車に乗り込んだ、向かいのホームを行き交う長い車列の窓明かりを覚えている、三等車の差し向かいの座席に板を渡し、そこに母が横になっていた、寝台車を用意できなかったのか、涙のにじむ思い出である。


 話しかわって勝小吉だが、彼の「酔夢独言」によると、俸禄外の稼ぎの場が専ら亀沢町であった。彼は記紀春秋とは全く無縁の人で、一応役に付くための挨拶回りをしたが、むしろ役につかなかったことが、彼にとって幸いであったと思う。刀の目利き喧嘩の仲裁、亀沢町が桧舞台であったが、小生にとっては一学期だけの場に過ぎなかった。
 亀沢町の大通り「割り下水」と呼ばれ、墨田城東の町工場を後背地として、中古機械や工具鋼材商の一大集結地である、小吉の刀の目利きと縁があるのかな、かなり無理のある話だが、どちらも思い違いとは無縁で酔夢でもない。
 割り下水、その名の由来は大通りの中程を割る下水からきている、下水といっても雨水除けで、小魚が泳いでいたといはれる。墨田区内に今一本の割り下水が向島寄りに有ったが、近代になって暗渠になり、亀沢町のみ割り下水の名前が残った。
 昭和年代を通して商・工業地として大いに繁盛したが、戦後しばらく1丁目の辺り、メリヤス製品の集積地であった。二丁目には最近葛飾北斎館が出来、賑わいを呼んでいるが、数年前、北斎の手書きの絵が見られるとのツアーが有り、牛に惹かれてではないがバスに乗せられて小布施・善光寺と廻ってきたが、絵は勿論のこと当時に復元された建物群が、それなりの風情で江戸時代の小布施を忍ばせてくれ、善光寺は改修工事の素屋根に覆われていた。

  写真―善光寺素山門 

 先日、平成の「北斎館」に隣あわせのブロックに立ったとき、小学校一年の記憶が甦って来た、建物は戦災で失われて無いが、路地の様子がピッタリであり、このブロックの裏に総武線が走っている、毎日のように機関車を見ていたのかな、しばし感慨にふけった。

 

 写真―北斎館(A)

 

  住居跡(B)

 北斎といえば、版画類において世界で最も有名で、一度見たら忘れられないといはれる「富岳三十六景・神奈川沖波裏」、数年前上野の北斎展に足を運んだがやはりこの絵しか覚えていない。この巨大な波を実験水槽でおこし、その先端を1000/1のシャッタースピードで捉えると、全く絵のとおりヒトデがたの波頭が現れた、北斎にはこれが見えたのだ。比べるべくも無いが、小生には機関車の煙の流れと、半世紀後の路地の見分けぐらいしか出来ない。

 

  絵―富岳三十六景・神奈川沖浪裏

割り下水と交差する三つ目通りから四丁目にかけて、新古とり混ぜて色いろの工作機械(殆どがベルト掛け)や、標準のクランク・プレスなどを扱う機械商、鋼材・機械部品店などの集積地として栄え、20年代後半親父の手伝いをして、太丸(棒鋼)の藤田商事・型鋼の殿畑・鋼板(中厚板)の青柳シャーリング・機械ボルトの成島・スプリングの木島・伝導工具の「山中シャフト」等に出入りしたが、平成になってこの地を訪れてみると、成島・木島を除いて殆どの店や、道端に並べられた鋼材や大きな鋳物が全く見られない。またその名も「北斎通り」となり、産業地の面影を秘そめ、日本の工業力の源、中小鉄工所が求める色々の機材どこに行ったのか、この分野、大田区が今でもよく取り上げられる。城東地区の鉄工所壊滅したのかな、思い違いでないのを祈るや切である。


  写真―藤田商事 (C)

 

木島スプリング(D)



  成島ボルト(E) 

 

 山中しャフト  (F)

 

 
     ―森田鋼板 (G)


 先日 、風景を撮りに行った時、二丁目の藤田商事は中層のビルになり、何の関連も無い店が入っている、しかし成島ボルト・木島スプリングと、ぽつりぽつりとかっての面影が残っている、三丁目の山中シジャフト何の痕跡も無い、これに反して森田鋼板昔のままである、これらをカメラに収めた。
 

 

 
  亀沢町―地図
       亀沢町 一丁目   二丁目    三丁目   四丁目 



  (A)北斎館 (C)藤田商事   (E)成島ボルト  
            (B)住居跡 (D)木島スプリング(F)山中シャフト跡 (G)森田鋼板




      2017-6-5
 


 

 

 

 

 


      巨人ー洲崎・後楽園・ドーム球場
                               大幡

 プロ野球との初体験の記憶は後楽園球場に始まる。左翼外野席に大飛球が飛んできた、打者はスタルヒンである。昭和15~6年のことであり、当時、巨人軍は将来のファン養成策として、外野席を子供に無料開放していた。連れは居なかった、省線電車で両国から水道橋、小学5~6年生、それほどの冒険ではない。とにかく球が飛んできた、当時テレビもなくニュース映画に取り上げられるはずも無い、映像とて目に焼きついている。

洲崎球場


 プロ野球は昭和11年洲崎球場に始まるはずが、第一試合は早稲田の安部球場で行はれた、この一試合のみ。突貫工事もあって木製スタンドながら、新設の洲崎球場がしばらく専用となった。近くに汽車会社と色街・洲崎パラダイスがあり、すぐ南側が東京湾である。そしてこの土地東京ガスからの借地であった。同年築地市場が開場し、今この市場、豊洲の東京ガス跡地えの移転で騒ぎとなっている、なんのしがらみだろうか。
 当時プロ野球は職業野球といはれ、水商売のように思われた時期であったが、阪神の影浦・巨人の沢村等により、伝統といはれる巨人・阪神戦がここで生まれる。12年8月15日巨人対名古屋金鯱戦4回、満潮になった海水が巨人のベンチに流れ込んだ。文字通りの洲崎であり、この試合川上哲治のデビュー戦でもあった。沢村二度目のノーヒット・ノーラン試合が終わったと同時に、球場全体から大歓声が起こり、グランドに座布団が舞った、まるで国技館のように、スタンドが硬い杉板のためである。とにかくプロ野球として多くのファンをつかみ、その発祥の聖地といったところか、しかし余り使い勝手がよくなかった。


 昭和12年水道橋駅、神田川をへだてた北側の元砲兵工廠跡地に、鉄筋コンクリートの後楽園球場が完成すると、洲崎は余り使われることこなく、戦時中金属回収もあって、跡形も無く消滅した。昭和25~6年ごろ縁あって訪れたが、いくつかの鉄工所があったが、まばらに建屋が散在するだけの原っぱであった。


 後楽園に移ってプロ野球は一層発展したが、戦の影が忍びより暗黒の時代を迎えた。太平洋戦争となり、敵性語ということでベースボールと呼ぶこと等が禁止され、ストライクを「よし」ボールを「だめ」などと言い換えるとともに、スタルヒンも「須田」と改名され、 当時巨人の外野手「呉」(台湾出身)も萩原と名乗らされた。因みにポリドールが大東亜音盤、キングレコードが富士音盤と名を変えた。


 話が代り、昭和17~8年中学3年頃の先生に朝鮮出身の「金」先生が居た、われわれはコンさんと呼んでいた。黒板に書く字が実に見事で、修身を担当していた、かの地で創始改名が大騒ぎされたが、本土ではそれ程強制されなかったと思はれる、公式の場では憚られるが、一般では大目に見られていたのであろう、この先生、終戦とともに姿をくらました。


 余談だが、小生、動員先の工場でいたずらをして、全員集合の場で手ひどい平手打ちをコンさんから食った。差別についてもこういう一面があったと証言しておこう。


 戦争は終わったが沢村の姿は見られなかった、台湾沖で海没したとのことてある、また、須田はスタルヒンに戻ったが、改名時の冷遇もあって、巨人のマウンドを踏むことなく、金星等のチームで数年活躍したが、まもなく交通事故死した。とにかく再開された後楽園に足を運んだ。
 アルプススタンドから川崎徳治の入団式、平山の復員、千葉のピッチャー等多くの思い出がある。コチコチのジャイアンツファンに成長したのかな、水原の留守家族慰安の催しがあったが、ニュース映画に大きく取り上げられたので、実体験かあやしい。


 22年大学に進んだ、当時六大学の聖地神宮球場が、占領軍に接収され、春のリーグ戦のゲームが後楽園で行われた、多分早慶戦である、一塁側、外野寄りの入り口で同クラスの末吉がモギリをやっていた、「ヤー」と声をかけて入場した、当時の早稲田のピッチャーは岡本・荒川(宗)の全盛期で、入学したての末吉野球部の場外担当だったかな。さきの荒川、ワンちゃんのコーチで有名な荒川博とは別人である。
 小生プロ野球の方が気になり、六大学には足が向かなかったが、彼に会って転向、後楽園から足が遠のいた。そして神宮球場が接収されていたので、各大学の練習球場を転々とし、神宮球場は米軍兵士の草野球の場であった。なにかのハズミで彼らのナイターを見る機会があった、青々と広がるフィールドが眼に焼きついている、観覧席が開放されていたのであろう。
 さきの末吉だが、日鉄八幡での社会人の実績を買われて入学、秋から投手陣の一角を占め、2年以降卒業まで主戦投手の座を占め、卒業後毎日軍に入り、軟投ながら好投手として活躍し、そのご記者に転向したという。在校中2年目、校庭で講義に出られない彼から、小論文を代わりに提出することを頼まれた、小生の顔を認識していたのだ。
 この頃の早稲田、同じ学年に広岡・宮原(卒業後日本鋼管に入り実業団屈指のキャチャー)翌年に荒川博等がいて、天下が続いたが、末吉等の卒業とともに、長島・杉浦を擁して、猛練習で鳴らした砂押監督の率いる立教の天下が来た。小生、卒業後は六大学とは無縁になった、とはいっても早慶戦だけは大関心事だがキップの入手は絶望、30年代になっては、優勝した早稲田の神宮から母校までの行進を見ようと、新宿に出張って待ち構えた。学生の一部は行進を途中でスッポラかして、飲み屋街にくりだす、先輩のイキの掛かった店での只のみである、小生、後輩に振舞うほどの金は無い、先輩面などとんでもない、一人楽しく酒を味わった。


 余談だが、慶応優勝の時、彼等は銀座に繰り出す、一度見にいったことがある、6丁目交詢社あたりのクラブ風の店、数人が肩を組んで、ケオー・ケイオーと叫びながら入ってくるや、ピアノを取り巻き一人の演奏につれて合唱し始めた、スマートである。
 小学校の同窓会で慶応卒の相沢が、ダークダックスに引っ掛けて、学位をとったのは音楽部ではないと冗談を発したが、先ほどの彼等まさに音楽部かと思えた。
 さらに時移り、昭和の終わり頃学園祭を覗いたとき、大隈講堂の前で「秋の早慶戦いかがですか」と声が掛かった、「えっ早慶戦入れるの」と応えたが、ときすでにプロ野球におされて、早慶戦といえど観客動員の時代になっていた。


 後楽園スタンドに戻ろう、昭和22年頃「金で買える全て」All that can buy money、中世の裁判劇が上映された、暗い堂于右側に裸の階段があった、他の全ては忘却の彼方、只映画館は後楽園左翼側アルプススタンドの裏側、大きな斜面の空間を利用したものである。
 当時、東京は未だ一面の焼け野原で、焼け残ったビルの空間色々と利用されたが、上野松坂屋6Fで、グレゴリーペック主演の「王国の鍵」Key of kingdomを見た、満員のため右側の壁に沿っての立ち見である、ペックの顔がやけに長かったのを覚えている。日本橋の白木屋には後のソニー・東京通信工業が入っていた。

後楽園球場改築前


 時移り、その後の後楽園球場老朽化が進み、隣りあわせの競輪場に建て替えとなった。ここは開催の合間は斜めのバンクに取り外し式の打席が設けられた、打ち放しのゴルフ練習場でもあった、余り知られていないと思う。やがて東京ドーム球場が完成したが、小生ここで野球を見たことが無い、入場したのはストーブリーグ時の、見本市・蘭やキルト展などの記憶しかない。球場の名称について「ドーム」の他に「ビッグエッグ」等の裏話があるが省略する。

東京ド-ム移築後


 予談だが、ドームは薄い膜を空気圧で卵のように膨らませたもので、膜を補強するロープの他には鉄骨は一切ない、従って、ドームの出入り口はすべて空気の漏れないような回転ドアとなっている、その出入りに際しては、航空機を利用した多くの人が感じるように、僅かに耳に違和感が生じる、0.1気圧に満たないがゲームの有無にかかわらず、絶えずコンプレッサーが動いている。
 そして、球場の跡地の大部分は遊園地に当てられ、在来の施設を加えて豪勢なドリームランドに生まれ変わった、又南側にあったタクシー会社の駐車場は、神田川に面して高層ホテルが建てられた。
 原っぱの洲崎球場跡や汽車会社、色街パラダイスも消えうせ、高層マンション群が聳え立ち、多くの倉庫が連なり工業地帯の面影は全く無い。東京は激しく姿を変え発展し続けてきた、「巨人軍は永遠なり」と誰かが言ったが、東京よ永遠なれ、日本よ益々たくましくあれと祈るや切であり、そして老生やがて消え行くのみ。

 

 

 

 

 

 

 

   本所菊川町と2・26事件そして高橋是清   
                                 大幡

 

人生、最初の記憶は本所菊川町、父の勤めていた岩田商会の同僚、東郷さん一家との同居に始まる。昭和11年2月26日朝早く降り積もった雪を、長靴で道路脇の下水孔に踏み込んだのを鮮明に覚えている、後で2・26事件朝のことと知る。小学校入学前の事として、近くの市場で母親とはぐれて泣いたり、錦糸町の白木屋で「是わうまい」(ふりかけ)をねだったことなどがあり、少ない記憶のなかで、雪が取り分けのことである。      因みに、先の白木家今は無いが、かって錦糸町駅前交差点の南西角に、城東電車の駅ビルが有り、そこに入店していた。また城東電車は錦糸町を始発として、亀戸・大島・小名木川・境川・葛西を経て由門前仲町に至る、文字どおり城東区(深川区と合併され現江東区)唯一の足の路面電車であったが、戦時統制令で、東京市電に吸収されさらに都電となった。途中の境川から葛西橋までの支線があり、三和鋼器・砂町工場えの足として昭和30年代おおいにお世話になった。

  写真 錦糸町交差点右上隅白木家

 2・26事件では多くの人が殺害されたが、詳しい記憶は全く無い、幼児に分かる筈が無い。全て後年の学習によるもので身近なものではなかった。
 時が流れ平成になって、青山のドイツ文化会館にしばしば訪れるようになったが、東京メトロ青山一丁目下車、青山通りを赤坂にむかい左手に東宮御所の森が続き、右手のカナダ大使館に隣接して、一寸した公園の前面を進みその角を右に折れ、そのまま公園に沿って150mほど進むと、左手にドイツ文化会館がある。色々な公報活動の一つに、年数回本邦未公開のドイツ映画の上映があり、このための往来であった。

  写真 ドイツ文化会館 

 是清の坐像

 あるとき何気なく公園の裏手から足をふみいれた、奥まったところに高橋是清の坐像があり、広々とした平地に針葉樹の高木が整然と並び、一角が和風庭園とされ、総体で2千坪の規模である。案内板に2・26事件の高橋是清邸との表示があった。「風が吹けば桶屋が儲かる」に近いが「雪が降って是清」という訳である。彼にこの大きな邸を構える財力、どこから生まれたのか暫く疑問であった。

  写真 和風庭園 

 案内板

 思い立って彼の伝記を調べてみた。少年期アメリカに渡っての奴隷生活にはじまり、奴隷と言っても、日本の丁稚小僧にあたるのではないか、とにかく屋根と口つきの2年で英語をマスター出来たのである。アメリカ南部の綿つみや鉄道工事のタコ部屋とは思えない。帰国して順風満帆ではない、事業の挫折七転び八起き波乱万丈であった。
36歳の時南米ペルーの鉱山に出資したが、現地に行ってみるとすでに廃坑になっていた、ようは騙されて全財産を失いかけたが、かなりの出資金を取り戻したので、経済能力には優れていたのであろう。
39歳転機がやってきた、日銀入行である。難工時途中の日銀新館の工事主任として、大きな予算オーバー・工期の遅れを、大理石からレンガへの設計変更により乗り切きって手腕を認められた、明治25~6年頃であった。
明治37年12月、戦費調達のためイギリスに渡り、目標の1000万ポンド(現3500億円)に対し、およそ13倍4兆5000億円の調達に成功するなど、抜群の問題解決能力を発揮したが、この私邸を構えられたとは思えない。
又大正2年山本権兵衛内閣の大蔵大臣に始まり、大正10年内閣総理大臣にまで上り詰め、72歳で政界を引退するまで、資産を構えるほどの事業活動が見えない。隠遁生活1年あまり、昭和2年日本を襲った金融恐慌が再び彼を必要とした。
田中儀一内閣の大蔵大臣として、銀行の取り付け騒ぎを収めるため、3日間の休業を定めその間に、紙幣の大増刷を行った、最高札を2倍の200円とし、裏面を白紙のままサイズも切り詰め、全国の銀行に山積みして際限なしの引き出しに応じられる態勢を整えた。これには、大暴動に至るかと思はれたさしもの群衆も平静を取り戻したのか、開業時には平穏な朝を迎えられた。因みにこの裏面白紙の紙幣はあくまで見せ金である、沈静化するとともに急速に回収され、市中に出回ったのは限られ、大変希少なものとなり現存すれば、500万~1千万の値が付くとも言われる。
世界大恐慌が再び日本をいや是清をゆさぶる、犬養内閣の大蔵大臣として、76歳の老躯、病勝ちにも拘らず5度目の大役であり、日本初めての赤字国債である。国家予算を1.5倍に引き上げ、道路・公共事業を全国に広げ、重化学工業を振興、昭和7年には経済成長もプラスに転じ、世界に先駆けて恐慌を脱した、積極財政であり、後年「日本のケインズ」と言われるが、ケインズ経済学誕生まえのことである、むしろその元祖と言っても良いのではないか。
因みに、アメリカはその後もフーバー、ルーズベルトと不況が続き、第二次大戦への参戦でようやく脱したのである。


余談だが、20年前バブルがはじけた時、第二の是清が現れたなら、GDPの2倍を超える赤字国債を積み上げることなく、隆盛とは言えなくも中国にGDP2位の座を明け渡す日が、はるか先の事になったであろう。


さて、是清最大の活躍の場はこれからである。とにかく赤字国債には副作用を伴い、インフレを招いて国家財政の破綻に至る恐れがある。しかし、当時軍部は昭和6年の満州事変、更にワシントン条約をたてにして、益々の軍備増強に赤字国債を引き当てようとした。
昭和10年11月の予算会議、川島義之陸軍大臣の主張に是清は「一体軍部はアメリカとロシヤの両面作戦をする積もりなのか。米国と戦ってニューヨーク・ワシントンを占領出来ると思うのか、またロシヤと戦ってモスクワまで行けるつもりなのか、国防というものは攻め込まれないように、守りに足るだけでいいのだ。大体軍部は常識に欠けている、その常識を欠いた幹部が政治にまでくちばしを入れるのは言語道断、国家の災いと言うべきである」と言い放った。
その3ケ月後、2・26事件の凶弾に倒れる、その傍らの愛用の机上に、フルベッキから贈られた座右の黒皮表紙のファミリーバイブルが置いてあったと言う。是清83歳、浜口雄幸・井上準之助・団琢磨・犬養毅とテロの時代が続き、第二次大戦の敗北という大きな犠牲があったが、今日世界はテロという全く新しい戦争の時代を見るにつけ、わが国は一歩先の道を進んでいるのであろうか、但し、一国平和主義とは全く別のことだが。


波乱万丈の人生である。謎は解けないが、凄まじい人生にただただ感じ入るばかりである。膨張する軍事予算の抑制に立ちはだかり、事半ばで2・26事件の凶弾に倒れ、さぞかし無念なことであろう。しかも、その後のわが国の多くの指導者が事に当たって、凶弾の災厄が脳裏をよぎり、時の流れに逆らおうとしてためらいを生じたという。2・26事件の後世に及ぼした災い如何程か計り知れない。そして、時代の大きなターニングポイントであった。


さて、菊川町に因んで今ひとつの思いがある、勝小吉(海舟の父親)がこの地に生まれ「本所菊川、所ものだい」と下町キップを誇る台詞があるが、小生も同じ「所もの」だと長らく思い込んでいた、調べてみると、小吉は本所松坂町、現在の墨田区東両国3丁目辺りの生まれである、また、小生抄本によると本所区緑町1-2生まれとある、長年の妄想が吹っ飛んでしまったが、東両国2丁目では学業時代の大半を過ごした、小吉との縁いくらかあるかな。しかし菊川町には雪以外何もなくなってしまった。
 当時に戻って、小生まもなく小学校入学、幼児期からの転機であり、 しかも、入学したのは堅川を隔て隣町の緑小学校で、ひと月ほどの間に、一家は菊川町を離れて亀沢町に転居していた。

  2017-6-7

 


 

 

      

    東両国 その1 両国国技館・双葉山69連勝そして宮城野部屋 

               大幡

 


 小学校三年生学期末、担任の前田長左衛門先生が、転校する小生に「算数で100点満点の大幡が東京に帰ることになった」と、級友の前で別れを惜しんでくれた。
 4年生の1学期を本所区東両国の江東(えひがし)小学校でむかえ、「信組」に編入された。当時1学年は男女それぞれ忠・孝・信の6クラスのところ、この年は人数が少なく信組に限り男女共学で、都会の生活が始まった。
 北側少し離れて省線電車の両国駅と、前面1ブロック先が市電通り、行き交う電車自動車の騒音にド肝をぬかれ、しばらくは夜寝付かれなかった。よくしたもので数日すると全く気にならなくなった。
 都会の音は煩わしいだけでなく心地よい音もある。大通りの向こう側が国技館である、場所になると朝早くから乾いた櫓太鼓の音で目が覚める。そして夕刻、最後の横綱の取り組みが終わると、それなりのどよめきが流れ、高らかに櫓太鼓が鳴り、やがてテンデンバラバラと低くなって、夜の帳りのなかに人々は散ってゆく。
 ところがある日夕方、トテツもない大歓声とともに太鼓がなった、近くに居た大人が「双葉山負けたぞ」と騒ぎになった。当時双葉山が連勝中で、70連勝間違いなしと思われていた、その日、安芸の海の奇襲にあって連勝が途絶え、時に、昭和14年春場所4日目のことである。
 この歓声を実際に聞いたと思いこんで居たが、資料をたどっていくと春場所は1月で、小生まだ磯辺小学校3年3学期で、田舎にいたのである、繰り返される大人の話がすりこまれ、いつの間にか実際に聞いたと思い込ませるほどの大事件であった。

  写真―A

 改めて双葉山の記録をたどってみよう、連勝は昭和11年1月春場所、前頭3枚目の7日目から始まり、同年夏場所全勝、12、13年の春・夏場所の全勝と66連勝しての、14年の春場所である。小生が緑小学校1年入学、三重県磯辺小学校3年との長い間並行して続けられていたのであり、途絶えたのは江東小学校転入前である。なにがしかの因縁を勝手に感じても良いのではないか、まして地元のこと相撲が大好きになった。

  双葉山連勝記録―B

 この3年での69勝とはと疑念が生ずるだろうが、当時は年2場所昭和11年は1場所11日、12年夏から13日となり、15日制となったのはさらに後のことである。そしてこの年月、今の6場所制に置き換えると270連勝に相当するのである。この長い年月怪我一つ無く勝ち続けたのは奇跡と言えることである。
 古く、江戸時代の川柳に「1年を20日で暮らすいい男」とあるが、晴天10日では場所ごとの優劣判定に差し支え、奇数の11日から13、さらに興行成績上から、今日の日曜からの15日制となったのである。足掛け4年の69連勝、今日の6場所90日に比べとてつもない偉業ではあるが、しかし、他の1面もある、当時大相撲は東西2陣営に分かれ全力士の勝星の優劣を競うことになっていた、従って、自陣営同士の取り組みが無かった、自陣営の上位強豪力士との取り組みが無い分、相手側の下位力士との分有利であったが。
 このような制度にかかわるのか、昭和10年ごろ、天竜事件と言う騒動があり、半数近くの力士が大阪に去り、協会分裂となった。紆余曲折して和解のなった力士が、出羽の海部屋に集まり、分家すじの春日野部屋を合わせると、半数近くを占めることになった。そこで、同部屋同士の組み合わせを避けるため、東西制となったのではないか、あくまで小生の憶測ではあるが、当時はそれなりの合理性があり、面白かった。そして、場所が終わると、優勝側が楽隊に続いて、オープンカーに横綱と優勝旗をのせ、そのあとに優勝側の力士が徒歩で続き、国技館から所属部屋えと街頭行進を行うのである。実際にオープンカーに乗った羽黒山と旗手の輝登を覚えている、昭和14~5年頃のことである。因みに旗手は関脇以下の最優秀力士ときめられている。
 東両国2丁目の我が家の右隣が宮城野部屋であり、右に少し離れて羽黒山の住まいがあり、その所属する立浪部屋は3丁目とはいえ角を左折してすぐである。関取が身近な上、稽古が終わって砂だらけの力士が、目の前の朝日湯に駆けこむのが日常であった。
 戦争が始まった、いや空襲が、3月10日がやってきた。我が家のブッロクを残して、立浪部屋も含め周囲一面灰燼に帰した、国技館にも火が入り屋根の一部がむき出しになった。しかし、戦火に打ちひしがれた国民を鼓舞しようと、昭和20年応急措置を施し、11月秋場所として晴天10日、この場所に限り進駐軍の要望で直径16尺(4・8メートル)として大相撲が開かれた。さあ次場所と言う時、無残にも占領軍よりメモリアルホールとして接収されてしまった、

 

 写真―C

暫くは小屋がけで川向こうの浜町公園、代々木の神宮外園と晴天興業が続いたが、協会の努力により、蔵前に土浦にあった航空隊の格納庫の鉄骨を利用して、国技館を建てることにになった、途中見に行くと、隅田川に並行して大きな鉄骨が2列立っていて、その間に3角の梁が渡される大きな空間が目に浮かんだが、ふと、ツェペッリン(飛行船)が来航し、屋外に係留された時の支点になった風景を思い出した、昭和29年蔵前国技館が完成した。
 しかし、地の利と急ごしらえで使い勝手の悪さと、元の両国に帰ろうとの機運から、JRの操車場と、舟運のため隅田川から引き込まれた舟溜まりを埋め立てた地に、目がつけられ現在の国技館が再建された、そうして両国国技館となり、栃錦の尽力が大きかったと聞く。が、その地籍は墨田区横網町であり、元の東両国住民としてはいささか違和感があるが、横網(よこあみ)を横綱と勘違いする人もあり、まあいいかなと思う。
 さて、お隣の宮城野部屋、横綱の鳳(おおとり)が引退して興した部屋だが、初めは横網から始まったと記録にあるが、その後のいきさつは全く分からないが、我が家の左隣が宮城野部屋であったことは間違いない。幕内力士が1人、十両が1人の小部屋で土俵も無く、立浪部屋に出稽古していた、日時がはっきりしないが、そこの幕内力士が本場所で負け続け、10日目を過ぎてようやく1勝して「夜道が暗いので提灯が欲しかった」と、世間を笑わせたラジオ放送を覚えている。
 祥細を調べようと最近相撲博物館を訪れた、快く調べてくれた、親方の鳳が病弱で千葉印旛沼の方に転居し、また、キレイな娘さんが居るなど、かすかな記憶と資料がピッタリ一致した。しかし、当該する力士名が「福の里」だがスッキリしない、福の里とすると昭和27~8年のことであるが、ラジオの時代である漢字2文字の力士と言う事で、立浪部屋に「緑国」と言う関取がいる、色々調べてもらったが納得できない、諦める事にした、小生のおぼつかない記憶では、とにかく宮城野部屋の力士であった。
戦争中の疎開騒ぎもあってか、部屋は留守中に色々な人が住みつき、ここに部屋が再興されることは
なかった。


                      2017-6-10         


 

     


 

                                     



   東両国 その2  風船爆弾・花火・植木等 

            大幡

 昭和18年頃、2歳上の姉「和子」が勤労動員先の話として、両国国技館の大鉄傘下、桟敷を取りはらった大空間で、風船爆弾本体の和紙貼り合わせ作業について語ってくれた。かなり大きなものと想像した。この貼り合わせの接着剤として、コンニャク糊が使用され、アメリカで回収された風船爆弾の本体が、何で出来ているか分からなかったといはれる。とにかくオレゴン州で、原因不明の山火事が度々有り、プルトニューム抽出工場が一時的に操業停止したという。
 この風船に水素ガスを入れて放流し、成層圏の偏西風(時速200キロの)に乗り、夜間温度が冷えて高度が落ちると、砂嚢の一部を落とし浮揚して高度を維持する、この時限装置を操作して大陸到達のころあいをみはらかって残る砂を全て落とし、着地と同時に携行する爆薬が点火、それなりの爆発に伴う焼夷効果を狙ったが、全くの運次第、対費用効果がゼロに近い兵器で、何が何でもアメリカ本土に衝撃をとの思いから生まれたものである。
 後年、大宮碁会所の同好会「千住会」が催す、茨城県日立市鵜の岬温泉での会に参加、翌日対戦がすんで散会後、単身県北五浦(いずら)海岸の六角堂を訪れた。岡倉天心・横山大観などの修行の場で、崖を降りて海面近くに据えられた小さな祠(ほこら)である。

  写真―六角堂  

    天心記念館

きれいに舗装された常磐線大津港駅までの帰り道、中ほどに差し掛かると、風船爆弾・放流基地跡という標識に出くわす、思いがけない邂逅であったが、荒涼とした只の野原、ここで約9300発の風船が放たれたのか、2年かけてとはいえ、少々手狭ではとの疑念が生じたが、さらに奥まで入ることなく通り過ぎた、風船がアメリカであまり気にも留められなかったように。しかし、後に地図上で調べるとかなり広大な地域と推察され、立ち入らなかったのが少々残念である。


 余談だが、先ほどの六角堂、3・11大震災の津波で流失、海を漂うのがテレビに流れたが、しばらくして再建されたとの事である。

 戦争が終わって殆どの工場が休止して,きれいな水が隅田川に戻ってきた。昭和23年ごろ、川向こうの浜町河岸でボラが釣れた、エサは干潮時に現れた川底のドロを掘り返してのゴカイである。とにかく1尺余り、吊り上げて大騒ぎをした。この浜町河岸、都電が通っていたが、焼け跡のガレキ置き場となって、数メートルの山になっていた。当時中心部の銀座裏等の堀が、ガレキ処分場として埋め立てられた。復興を急ぎ、引き当てる予算も無く、行政の見逃しも有ったのであろう。
 ようやく世の中も落ち着いてきて、花火の再開が期待されるなか、地元の新田組が、見物用の桟敷を独占すると言う条件でと聞いているが、ガレキを取り除き花火大会となり、尺玉やスターマインが夜空に乱舞した。成層圏を行く風船爆弾と違って、わずか2~300メートルだが、空中に大花輪が甦った。我が家はそのすぐ傍であり、2階の物干しは絶好の場所であり、わずかな縁を頼りに色々な人がやってきたが、これも昭和35年までのことである。父の事業の失敗により、不渡りの穴埋めに2棟の家と地べたが処分され、転居を余儀なくされた。

 話し変わって左隣の宮城野部屋、本来旅館のような造りで我が家のすぐ左隣、正面左側が洋館風の2階で、中央が玄関その右手板塀の中小さな庭のある和風総2階、かなりの奥行きが有るが、土俵の余地は全くない。その洋風2階が植木家である、老年の父がカザリ職をしていて、その製品を娘の「ますみ」さんが、帝国ホテルに納入していると聞いた。一方、年長の息子「等」やはりと思わせる野太い声で、ご存知どおりの風貌、なかなかの男前でその上如才ない、あるとき、小生と同学年の大村・本田の3人に、ハーモニカのバンドを結成し、夏祭りの余興に出ようと声をかけてきた。彼は色々なハーモニカを持ち合わせていて、大村・本田にはリズムとメロディを、小生には比較的易しいとベースを当ててきた、先の2人はそれなりの素養があり、何とか格好が付いた。
 大村の兄貴はアコーデオンの名手でNHKに呼ばれるほどで、本人もタンゴに入れ込んで、特にアルゼンチンタンゴでは誰がどうの、当時人気の藤沢蘭子では物足らないとほざき。又、本田はジャズに造詣が深く、イーストコースト・ウエストコーストやれジャムセッションと口角泡を飛ばすほか、ラジオの組み立てに長け、当時日本橋白木屋にいた東京通信工業(後のソニー)に製品を納め、かなりの小遣いを稼いでいたが、後に、当時を振り返り「卒業後に来ないか」と声をかけられたが、見送ってしまいもし入っていたら、どんな人生だったかと述懐した。
 さて、小生全くのオンチどうにも様にならず、この話オジャン、もし楽才がありコンボが成立し、等さんと付き合いが続いていたら、どんなスーダラ人生になったやら、想像するだけで楽しい。
 余談だが、等さんの父親、三重県松坂近辺の寺の住職だったが、檀家との折り合いが悪く寺を追われたと、世間に言われていたが、住職からカザリ職えの転向どんな人生だったのか、とにかく、三重県から東両国、多少の縁が引き寄せたのかな。さて、「等」本人大変義理堅く、大村とはその後も交流が続き、千葉県幕張の転居先まで、近くの興業帰りに寄るからと電話してきたが、残念なことに来訪が無く、仲間が船で帰ろうと言うことで果たせなく、再度申し訳けないとの電話があったという。

風船爆弾も、花火も空中に飛び散り、3人も幕張・青梅そして鴻巣と散りじりになり、2~3度再会を果たしたが、近年は両人とも「両国まで出て行くのはどうかなと」と言う始末である。それに引き換え、先日、相撲博物館を訪れたわが身の生命力、そのありがたさをかみ締める毎日である。

2017-6-12

 

 

 

 

 

 

 


     志摩電鉄・タブレット・荷客輸送   

           大幡    

       

 昭和初期の志摩電鉄は三重県の鳥羽町・賢島間を結ぶ25km弱、単線の小さな私鉄であった。

 鳥羽市 地図―A

 小生、小学一年生三学期から三年三学期の二年半ほどを、志摩電鉄沿線の磯辺村で過ごした。家庭の事情で秀吉(ひできち)伯父方に預けられたが、この秀吉伯父、農業のかたわら志摩電の職員でもあった。今で言う兼業農家でありしかも荷役用に黒毛和牛を飼育して、当時としては進んだ篤農家であった。
 三年生の頃、学校帰りに迫間(はさま)駅から一駅で、伯父が駅長をしている穴川(あながわ)駅に遊びに行った。穴川は白木駅と共に単線25kmの志摩電を3分割する交換駅であり、上下線が一時に通過すると、次の電車までの時間がかなりある、距離にして8km、直近の時刻表によると往復2~30分かなりの時間である。

  志摩電 時刻表―B

駅の裏手は的矢湾の奥まった海辺にあり、右手に船着場があり小さな連絡船が、船乗り等に色町として知られる渡歌野(わたかの)などを往き交っていたが、この的矢湾、江戸時代江戸と大阪を結ぶ海路の、嵐よけの船だまりとして栄えた。そして、左手が養鰻場であり海を隔てる石垣が、絶好の釣り場である。
 潮時になると、大型のはぜが石垣にビッシリと押し寄せる。餌は岸辺でつかまえたカニの足であり、伯父が全て用意手ほどきしてくれたが、入れ食いと言っていい伯父ほどに行かないが、次々と釣り上げて夢中になるのは小生、程なく伯父は懐中時計を見て駅に戻る。しばらくの間一人きりになる、少し沖合いをボラが群れを成している、目の前に餌を向けるが全く釣れない、釣り方が違うのであろう。電車の行き交うのが音で分かり、程なくしておじが戻ってくる。何度か繰り返してかなりの釣果があがり、叔父は下ごしらえして帰宅に備える、かなり離れた恵利原の家までどうして帰ったのか覚えが無い。恐らく、早番勤務で遅番と交代して、自転車の後ろに乗せたのだろう。
 釣りのほかに、駅の業務についても色々と教えられ、特に記憶に残るのがタブレットの取り扱いである。穴川駅業務室のホームに面したタブレットを納める台(閉塞機)と、その真後ろの転轍機の大きなレバーであるが、実際の交換時伯父の操作と、行き交った電車をハッキリと覚えているが、その本質を知ったのは後年のことである。

 

  タブレット閉塞の模式図―C

 タブレット(tablet)といえば今日(こんにち)携帯がらみで使われるが、自動化される前の鉄道業界においては、通行許可証として非常に重要な役割を与えられていた。交換駅間の一区間には一列車しか走れない、そのために特定のタブレットを通行許可証として、上下線の車両間で受け渡しをする。しかし、自動化とともに全く姿を消し使用されることも無く、完全に忘れ去られている。
 昭和の風景として再現してみよう。先ず、単線運転の志摩電で見ると、鳥羽・賢島の24kmを8km毎に3分割すると鳥羽~白木~穴川~賢島間となり、それぞれの区間には一列車しか走れない、これを閉塞区間と呼び、3区間毎に特定のタブレットが設定され、これを持った電車のみがその区間を走行し、交換駅(穴川)で上り下りの電車間でタブレットを交換して、それぞれの方向に発車できる仕組みになっている。後に同じ場面に遭遇した、先に着いたのにこの交換作業のため、後から来たほうが先に発車して、少しばかり腹が立ったことがあるが、しかしこれは当然のことである、実際の穴川駅の作業を見てみよう、先に着いた電車のタブッレト(T)ーAを、伯父が閉塞機にはめる、この際タブレットには特定の刻み目があり、これが閉塞機の刻み目と一致して、対応する転轍機(A)のレバーが操作可能となるように安全が図られている。そしてレバー(A)を操作して、今進入してきたポイントが逆方向にきりかわる。やがて反対側の電車が到着、T-Bを受け取りT-Aを渡す、これで後着が発車出来る。伯父はT-Bを持ち帰り閉塞機にはめ、転轍機(B)のレバーを動かして先着側のレールが走行可能になり、T-Bを渡してようやく先着の発車となる。あくまで自動化前の風景であり、自動化が普及するのは昭和30年代のことである。
 さて、ここで駅舎中央のレバーを操作して、かなり離れたポイントが切り替わることに疑問が生じても良い、気づく読者はさすがである。小さな駅でも上下線のポイントと操作台間には5~60mの距離があり、一人の駅長が操作するには、それなりの仕組みが必要である。種明かしをすれば、操作台とポイントの間をロッド(32~38mm径の鋼管)が延々と線路脇に伸びてつながっており、この管の押し引き一方向の動きが、ブーメラン状の金具を介して、図のように平面上90度方向に転換して、ポイントのレールが動くのである。これらはポイントの電動化とともに姿を消した。

 

  転轍機操作機構図―D

 この辺り、万世橋にあった旧交通博物館には、現物が操作可能の状態で展示されていた。大宮の鉄道博物館、車両こそ大規模に展示されているが、鉄道のアナログ技術の歴史的変遷については殆ど実物展示がない。これもひとえに鉄道ファンの関心の薄さと、当局の怠慢を指摘するメディアの欠如に他ならい。裏方には光が当たらないのが常でまことに残念である。


 小学生時代に戻る、地元の人は志摩電を「ガタ電」と呼んでいた、勤めていた伯父には申し訳ないが、小生も同感であった。それはいつも電車が後ろに有蓋貨車を1両引いて走るからである、中間点の志摩磯辺駅(現上之郷)の近くで、線路を横切る溝の下にもぐりこんで、電車を待ち構えその下腹を覗こうとしたが、文字どおりガタガタ大きな音がしただけで何も見えなかった。全ての電車が貨車を引いていたかまでは覚えていないが、時にはさらに1両の無蓋貨車を引くこともあった。当時、中長距離の物流において、9割前後が鉄道によっており、恐らく全国どこでも見られた光景と思われる。

  有蓋荷車―E 

  無蓋荷車―F

 小学4年以降東京に帰ってから、兄弟して夏休み、磯辺村に帰省するのが年毎のことであったが、東京発の夜行列車が10時ごろ鳥羽駅に着くと、同じホームの延長状に志摩電が待ち構えていて、後ろに有蓋貨車が鎮座している。我々旅客と一緒に、小荷物・手荷物が台車で運ばれ同乗してから発車する、文字どおりの貨客輸送である。当時3輪トラックが活躍していたが、あくまで近距離の小運搬のみで、中長距離は鉄道か舟運しかなかった。
 穴川駅に戻る、小さな駅舎は旅客部分と業務部分に二分され、客との接線は切符の出札窓と手荷物などの受け渡しの窓口に区分され、高(出札用)低(荷物用)二つの棚がある。最近BSの「木造駅舎」の番組に、全く使われなくなった荷物用の低い棚と、締め切りの大きな窓口が登場し、しばし時の流れに感無量であったが、歴史遺産として色々の保存運動があり、懐かしい風景に癒された。しかし、残念なことにタブレットの受け台が全く見られなかった。
 蛇足とは思うが、タブレットの受け渡しに関わる設備なので触れてみたい。運用する区間によっては、タブレットの受け渡し時に列車は必ずしも停車するとは限らない。特に、貨物列車の場合、専用の操車場まで中間の分岐駅に止まる必要が無い、そこでホーム先端の受け台が活躍する、と言ってもそこにただ建てられているだけで、車掌がこの螺旋めがけて放り投げるのである、そしてホームの中ほどで、先ほどの行為を視認した駅員の掲げる次のタブレットを受け取るのである。この作業のためタブレットは大きな輪の繋ぎ目に儲けられたカバンに収められ、たやすく腕に通して確実にやり取りされる。もうこの風景再び見られることも無く、昭和の風景として思い出の中にしかない。

 

  タブレット受けーG

 郷里での夏休みも戦争で中断され、伊勢志摩も遠くの存在となり、志摩電もその後近鉄に買収され、いつの間にか宇治山田・鳥羽間が新線でつながれ、狭軌から広軌になり、京・大阪・名古屋と直結され、伊勢参宮・英虞湾とレジャーの足として脚光を浴びている。時折、鉄道番組で磯部・賢島等に遭遇するが、縁戚の人との交流もうすれ、タブレットなどのアナログ技術もすっかり忘れ去られ、複雑な思いである。


  2017-11-14

 




  富士登頂・軍事訓練・戦後風景      大幡

       
 八月の初旬、体調不良のままぼんやり眺めるTVの画面に、少しばかり不思議な光景が飛び込んできた。ヒマラヤを征した田部井女史が、夫君の差し出すピッケルに引き上げられるように、ゼイゼイとあえぎながら富士山7合目で、登頂を断念、同行する若者たちの登高を見送る姿である、このシーンにつられて70年前の記憶が甦ってきた。
 昭和19年夏中学三年生、御殿場の軍事演習場での教練の一端として、富士登山の7合目あたりで親友の渡辺が脱落し、不用意にも外套を持たなかった小生、彼のを借りて登頂することになった。彼は田部井さんのように、ガンバレよと見送ってくれた。日が暮れて厳しい寒気がやってきた、彼の外套が無ければ小生の登頂は無かったろう。

  写真 昭和19年・富士の裾野演習所


 余談だがこの渡辺が「海と空」を教えてくれた、「機械化」しか知らなかった小生を、本格的なミリタリーの世界に導いてくれ、終生の趣味を授けてくれた大恩人である。
 さて先ほどのTV番組、「登山に関わる日本一尽くし」で、南アルプスの北岳・間ノ岳と連なる縦走路や、名前の長さで山梨県大月の、牛の奥の雁ケ腹摺り山(うしのおくのかりがはらすりやま15文字)そのほか色々の事があげられ、標高では当然、1に富士山2に北岳3に間ノ岳と話が続いたが、小生の頭の中は昭和19年、当時の日本一は新高山であり、二が次高山(つぎたかやま)で三が富士であった。改めて台湾地図を見ると、玉山(新高山)3952mその近くに秀姑孌山(次高山と認識していた)3805mがあるが、はるか台北(たいぺい)寄りに興隆山(雪山)3884mがある、これでは富士山は少なくとも4位となる、しかも当時の日本の版図には、台湾より遥かに大きい朝鮮半島があり、4000mを越える山があってもおかしくない、地図により調べてみる、意外にも中国との国境にある白頭山(2700)が最高峰である。とりあえず4位確定か、しかし当時の小学校唱歌に「富士は日本一の山」とある、既に死語となって久しいが、内地で一位ということか。

              興隆山 (3848m)

              秀姑孌山 (次高山3805m)
              玉山 (3952m)

  地図・台湾全図

 富士登山にもどる、現在の富士は五合目まで観光バスも乗り入れ、ここから登山開始であるが、昭和19年教練の折は麓の一合目、浅間神社に参拝してからの登山である。中学3年生にしてはよくやったものだが、引率の石黒先生、延々と続く我々の登高の列を逆行して「ガンバレ」と声をかけながら、最後尾を確認してから再び、大股で先頭えと登っていく、本来英語の先生だが大した体力である。
 この先生には色々の思い出がある、授業中に話が脱線してSF小説の世界にはまり込み、二つの話を記憶している。
 一つはブラジル・アマゾン源流の秘境で、視力を失った部族がおり、ここに迷い込んだ探検隊の一人は。視力の無い部族の人に見捨てられていたが、視力のある彼から見れば絶世の美女、二人は逃亡を図りこれを妨げようとする現地人は、道路に沿って設けられた装置(こうもりが発する高周波ようの)により、高速で追いかけてくると、後は覚えていない。
 次はパミール高原あたり、チベット奥地の桃源郷、そこでは人々は何百年と生きることが出来、周辺には金が大量に埋まって、山々に囲まれ気候が温暖で、節度ある人々は不足するものも無く、争いも無い理想卿として描かれ、まさにエルドラドである。この話イギリス人作家ジェームズ・ヒルトン(1900~54)によるもので、この理想郷をシャングりラと名づけた。
 余談だが、これが「失われた地平線」として映画化され、そのロケ地に中国雲南省の西北端にあるデチェン・チッベト族自治州の中心部「中旬?」(旬の日を田とする字)が、秘境というイメージで選ばれて、その後ロケ地が観光の名所となり、多くの観光客が訪れる通例にもれず、これを見込んで地方政府が香格里拉(シャングリラ)と名前を変えてしまった。シャングリラという名前、東南アジアで余程浸透したのか、シンガポールを初めとして、その名を冠したリゾートホテルが多々ある。

  地図・シャングリラ

 昭和18年11月25日、太平洋の最前線トラック諸島のタラワ・マキンが、米軍上陸後5日にして玉砕した。年が明けて石黒先生の授業時「勝ち抜くまでは」を織り込んで戦意高揚の標語を作れということで小生一案を提出した。全員を取りまとめ一覧して「良いのがあるぞ大幡だ」と読み上げた。 「火と燃ゆる タラワ・マキンのこの恨み 勝ち抜くまでは 消すまいぞ」少々鼻が高い思いと、我ながらよく出来ていると胸を張った。

 話しは登山に戻る、8合目あたりで山小屋に泊まり、翌日早朝4時ごろ登山開始、現在はめいめいがヘッドライトを点け、登路を真珠の首飾りの様に連なるのとは大違い、月明りだけを頼りに這うように声をかけあって登った。山頂間近に御来迎、目の前に最後の登山道が絶壁のように聳えていた。わずかに残る雪渓から飲料水を導くゴム管を望見した。やがて山頂にいたり、浅間神社で金剛杖に焼印を受け、郵便ポストにあらかじめ用意したハガキを投函した。トニカク富士山に登った間違いなく。やがて下山である、6~5合目辺りから須走りで、砂ばかりの下り道、自分では直立している積りが、眼下の山中湖が斜め、先上がりに傾いている。しかもかなりのスピードが出ているので、踏み出す1歩が5~6mの歩幅、あっという間に麓に着いた、半日もかからなかった。この教練富士山頂を含め3泊4日である、戦局厳しい昭和19年のころ、物資も乏しい中でよく出来たものである。

 後年(平成17年・05年8月)この東富士演習場で、自衛隊の富士綜合火力演習を見る機会があった。3万余の見学者の前で、90式74戦車・対戦車誘導弾・榴弾砲や空挺部隊など自衛隊員2000名により、華々しく火力演習が富士の裾野に展開された。中でも圧巻は空中に富士山のシルエット状に描かれた榴弾砲の弾幕である。草原の風景こそ昔のままだが、展開される機材の進化には目を間張るものがある。

 

 



  入場券・写真・4点 F席スタンドからのけいかん,富士山のシルエット、ヘリコプター

 昭和19年の教練に戻る、出発は文京区の校庭に整列、最寄り駅(駅名は覚えていない)まで銃を担いで街中を行進した、背の高い順に三八式、数が足りないので途中から模擬銃になり末尾の背の低い数人が騎兵銃である、とにかく打てば弾の出る銃を担いで誇らしい気持ちであった。更に自慢できるのは配属将校、それも現役の近衛少尉、しかも当時人気の細川俊夫ばりのイケメンであった。浅草で名の知られたすき焼き家「松喜」のボンボンで、教練場での雑役の婦人達が、代わるがわる首実検に来るほどの人気であった。
 配属将校といえば退役後の年寄りが通例で、入学初年度にはヨボヨボの白髪の少佐で、2年からどうしたことか現役の少尉である、昭和20年になって彼はいなくなった、首都防衛に配属されたのか、そして我々も首都防衛予備軍ということで、時折焼跡に散開して校舎を敵陣に見立てて、各個に前進と演習したが手にするのは木銃、少し前に三八式・騎兵銃の応召と言う出来事があった。関東地方に布陣していた軍隊に配備されたのであろう。しかしこの現地軍ではゴボウ剣すら充分には行き渡っていなかったといはれ、非番外出時にはゴボウ剣の使い回しがあったという。首都防衛予備の我々は全くの徒手空拳、実戦になっていたらどうなっていたのか。

 ドイツ映画「橋」に、敗戦直前ベルリン防衛に駆り出された少年兵が出てくるが、軽機関銃にバズーカ砲まで持っていて、屋内に潜みパットン戦車に側面からバズーカを放ち格座させ、しかもバックファイアで側面援護の米兵をのけぞらせる、物量の差にあきれ返る思いが残っている。
 話しは少しさかのっぼて、昭和18年2年生の野外教練は軽井沢で行われ、全員木銃を担いでいった。銃は3年生の教練に駆り出され、我々までには行き渡らなかったと思はれる。軽井沢高原で、木銃かついでの戦争ごっこ全く記憶が無い、覚えているのは薄切カボチャの小夜食(寝る前の軽いオヤツ)と、酒保のような売店でウニの瓶詰めを土産に買ったことしかない、家人から「山に行って海の土産ね」とからかわれた。小夜食は初めての経験でそれにウニのビン詰め、どちらも食べ物のこと、乏しくなった食量事情が影響したのであろう。

 写真・昭和18年 軽井沢

 時期がハッキリしないが銃の応召前、荒川の河川敷、赤羽の国鉄の橋梁下辺りの教練で、各自に2発の空砲が与えられ、散開して匍匐(ほふく)前進「各個に打て」の指揮に従い、発砲、一応の反動を肩に受け、更に突撃・小休止、薬莢(やっきょう)の回収が始まり、ただ1個の不足、改めて出発点に戻り全員横1列になって、1個の薬莢に汗を流した。
 今一つ別に実弾発射の経験がある、文京区春日町の現東京都立戦没者慰霊碑のあたり、台地の下に大塚方向にトンネル状の実弾演習場があり、遥かかなたの標的に数人ずつ代わるが割る発射した、当たったのかどうかハッキリしない。
 戦後前線帰りの会社先輩から聞かされた話だが、昭和15~6年ごろの中国戦線実戦のさなか、機関銃の発射時ポンポン跳ねる薬莢を、敵方に身をさらしてドンブクロ(麻袋)に回収して後送したという。どこまでも物資不足の軍隊である。

 戦争は突然終った、雑音交じりの「御聖断」自宅で父親と二人かしこまって聞いた、「負けたんだね、この国どうなるの」子供相手に仕方ないと思ったのか、ほとんど話しが無かった、すぐに戦時補償の打ち切りという経済的大打撃が来た、当時の金で50万円ほどと聞いている。数日して登校した、焼け残った鉄筋校舎の屋上に、最上級生(4年・当時早期卒業で5年生はいなかった)の我々が集められグラマンが低空で飛び交う中、校長は悲痛な声を張り上げて「いつの日かあの赤い星のマークを日の丸に変えよう」と、耐え難き敗戦から立ち直りやがて敗北の恨みを返そうと誓った。正直のところそれほどの復讐心は無かった、9月2日ミズーリ艦上降伏調印式の事か。
 程無く校庭に一台ジープに乗った2~3人のアメリカ兵がやってきた、さては屋上の件ばれたのかなと、少々心配したが英語担当の鈴木先生、かなりの時間英会話が続けられたが、何も起こらずジープは立ち去った、この先生後に「鈴木長十の受験英語」として予備校でもてはやされた。
 戦後もニュース映画は続いた、靖国神社・宮城前広場に土下座して、高山彦九郎ばりにひれ伏す若者、どれほどの思いだったのか。誰かと語らって下駄履きで宮城前に出かけた、物資不足でゲタの登校が見過ごされていて、放課後のことであろう。いきなりアメリカ兵が呼び止めカメラを向けシャッターを切り、一言も無くたちっ去った、我々は力なくサンキューといった、敗戦国民の情けなさと、われながら不甲斐ないとの思いが今も残っている。

 半世紀以上過ぎて時折タアイも無い思いがよぎる、アメリカのどこか小さな町で一人の老人と口をきく、話が弾んで自宅に招かれ、古いアルバムを取り出す、昔日本に占領軍として行った、「そのときの写真だ」勝ち誇って威張りくさった数々の中に、宮城前の一枚にゲタばきの少年、よくよく見ると小生そのもの、あー!そこで我に代える。
 戦後 しばらくしてWVTR(進駐軍向けのラジオ放送)が始まった、同級生の鈴木、コチコチの勤皇派で、「神国日本神風が吹く」と叫んでいたが、ある朝登校の道すがら「聞いたか、WVTRジャズすげえなあ」すっかり洗脳されていた、全く同感であった。ジャズには戦争中かすかな記憶がある、敵性排除としておおっぴらに聞くことがはばかられる頃(昭和16年頃かな)近くの細野洋服店の5~6年年長の息子が、コッソリ音を絞って聞かせてくれた。

 余談だが、神風は吹いたが特攻の話しではない、すさまじい嵐が沖縄戦線を吹き荒れた。航空機が飛べないのは日米お相子、地上海上ではそれなりの損害があったが、近代装備のこと大したことは無く、元寇の再来とはいかなかったかった、神風のいはれを知ってか、我々の戦意をくじこうとしての伝短が8月の空に舞ったが、当時は気象関係は軍事機密として何も知らされていなかったので、反って僅かとはいえ溜飲を下げる思いであった。

 敗戦で心のすさんだ生徒をやわらげようと、学年揃って映画「リンゴの唄」を根津神社近くの木造の映画館で見た、このあたり運良く焼け残っていた。サトーハチロー作詞並木通子の歌う「リンゴかわいやかわいやリンゴ」どれほど癒されたかどうか分からない。只映画は最大の娯楽でその後数限りなく見た。新宿の武蔵野館で立ち見の邦画、終わって明るくなって見ると、いすが全く無く、むき出しのコンクリートの床だった。そして戦後初めて上映された洋画は「ウエア殺人事件」と「ユーコンの叫び」で、どちらも戦前に輸入され、上映出来ずスットクされたB級作品である。(映画はきりが無いので割愛する)

 昭和21年ごろ、鈴木が両国の家に訪ねてきて「今浜町クラブで働いている」という。浜町クラブ、隅田川の対岸浜長公園の北端にあり、地の利でか火がはいらなかったとみえ、接収され米兵相手の日本国営クラブになり、背の低い彼は米兵からショウティー(shorty)と呼ばれ、その発音のショウリーを「勝利」ともじって、国は負けたが俺は負けてないと奇妙な強がりを言っていた。「クラぶに来ないか」との彼の誘いに応じて、両国橋を渡って訪ねた折、トレイ一杯に並べられたジョッキに、並々と注がれたビールを出された。飲み残しかといぶかる小生に、クラブの主任が「我々はビンを空ければいいんだ、アメ公が呑むかどうかは関係ないんだ」との話しで、兵隊が只で飲んでいるのを知った、占領費こんなところにまで使われていたと知った。勿論ビールはたっぷり飲んだが、その前にコカコーラを初めて飲んだ、「薬臭い」と話しの通りでなじめない味だが、甘味欠乏の時代でこれがアメリカと承知した、敗戦の味だ。そしてショウリーしばらくして肺を病んで逝った。
 誰かが「もはや戦後ではない」と言ってから既に半世紀が経った。巷では若者が「戦争ってどこと?アメリカだって?そしてどちらが勝ったの?」作り話かもしれないが、敗戦の痛みも、遠い過去となってすっかり忘れられ、ただ「安心!安心!」と叫ぶ世論、むなしい思いである。

   2017-11-16



 

 

 

     ダンケルク            大幡

 
 第二次大戦の有名な戦闘で、大陸から英本土への撤退作戦を取り上げた映画である。
 映画評論によれば、英雄物語ではなく重圧にひしがれた兵士の、屈折した心理描写を意図して、凡百の戦争映画を退けると持ち上げているが、 映画は無人となったダンケルクの街路を、一人の英軍兵士がドイツ軍の銃弾に追われ、無事友軍のバリケードに救われ、忽ち目の前にドーバーの海岸が開けて始まる。しかし、かなり筋の通らない話の集積であり粗製濫造とさえいえる。そこでいくつかのう矛盾点を挙げてみる。
1 冒頭の兵士、味方に救われてすぐ海岸に出る。
2 志願した民間ボートに救われる精神異常の兵士。
3 海上の船舶を攻撃するドイツ軍のハインケルHe111
4 遠浅の海岸に立派過ぎる桟橋。
5 上げ潮を待つ小船での浸水騒ぎ。
 これらに触れる前に、ダンケルクに至るヨーロッパ戦線の概略を手短に整理してみる。
・ 1939・9・ 1 ドイツ軍のポーランド侵攻と、これに呼応するソ連軍の挟撃に始まる。 
・       3 ポーランドとの条約により英仏対独宣戦布告
・       4 英・大陸遠征軍、仏に上陸
・ 1940・4・ 9 独,,ノルウェー・デンマーク侵攻
・     5・10 独、対仏西方侵攻
 開戦から西部戦線の兵端ガ開かれるまで凡そ半年、funny warといはれる静かな時が流れたが、その背景を探ってみよう。
 ドイツ軍の基本戦略は、東西両面の同時戦争を避けることが最重要とされ、東部ではポーランド分割により、ソ連との不可侵条約が有効に機能していた。
 一方フランスは第一次大戦の経験から、専守防衛に徹しスイスからルクセンビルグに至るマジノラインに頼りすぎ、ポーランド侵攻のドイツ軍の背後を突こうという意思が全く無かった、更に、アルデンヌの森を機動部隊が通れるとは全く考えず、マジノラインを築かないのみかそこには予備役の劣弱な部隊が当てられていた。そしてベルギー国境はイギリス軍と連合して、開戦後ベルギーに進駐うして防衛線を築くことにしていた。この時代に逆行した陣地戦を国民も支持するなか、シャルル・ドゴール中佐ら若手将校が、機動戦を唱えていたが省みなれなかった。
 イギリスはドーヴァー海峡を有効な防衛ラインと考え、更に過去の戦訓にもとずいて大陸遠征軍を派遣することが最良の策と考えていた。
 英仏連合軍はドイツ軍の主力がベルギー方面にやってくると考えていて、ドイツ側ではこれに対してマンシュタインの案になる、機動部隊によるアルデンヌの森の突破が用意されていた。先端が開かれ連合軍がベルギーに展開するのを見て、ヒットラーはほくそえんだと言はれる。森から突進する機動部隊に前面のフランス軍は忽ち崩壊して、防衛ラインに大きな穴が空きそのままドイツ軍は西方に突進、20日にはその先鋒はソンム川のアルヴィルに達し、ベルギー方面に展開した連合軍を包囲する形になった。

 地図ー1

 その連合軍は21日、ドイツ軍の機動部隊と追随する歩兵部隊の間に楔を打ち込もうと、アラスの地で猛烈な反撃に出たが、ロンメルにより撃退された。戦略的には失敗と思はれたが戦略的には意外な効果が有った。ドイツ側で、ルントシュテットは更なる大反撃が用意されているのではないかとの疑念がわき、パリ進撃前に機動部隊の不用意な損耗を避けるため一時停止を考えていた。一方ヒットラーもあまりにもうまくいきすぎたことに不安を覚え、包囲した敵軍の殲滅を空軍にとのゲーリングの要請に、渡りに船と24日全軍の停止命令を発した。このため連合軍は態勢を立て直す余裕が出来た、このことを映画では連合軍側の陣営でドイツ軍が停止したようなテロップが流れたが、ヒットラーの命令を知るわけは無い、「今日はドイツ軍やけに静かだな」ぐらいだろう。

 地図ー2

 地図-3


 この戦況に先立ってイギリスでは、過去の戦訓から万一を考慮して、14日にはラジオで「全長30~100フィートエンジンつきのボートのオーナーさん、未だ徴用されていない場合その旨申し出てください」と、このことは既に多くの船が徴用され、オランダ・ベルギーから退避して来た河川用のスクーツ(喫水の浅い200~500トンの貨物船)も目がつけられていた。
 25日包囲された連合軍は、海岸線で東西100キロ縦深50キロほどの橋頭堡を維持していて、ダンケルクは未だ戦場ではなかった筈である。このような情勢で26日撤退作戦が発令され、海峡連絡船「モナーズライン」が、初めて1312名のイギリス兵を乗せ夜間20時ダンケルクを出航、翌27日00時15分無事ドーヴァーに帰港した。しかしダンケルクの港湾は爆撃による被害が激しく、海浜よりの撤退が主力になりここでスクーツが活躍したが、海岸に横付けするわけではない臍まで漬かっての乗船である。

 写真ー1

 30日朝、現場指揮のヘクター・リチャードソン中佐が、陸軍の放棄車両のトラックなどを、干潮時沖合いに向けて縦一列に並べ、その上に導板を渡し仮桟橋とする案を出し、早即工兵隊が活躍満潮になると小型船なら十分接舷でき、浜辺からの乗船の効率が飛躍的に向上した。

 写真ー2

 余談だが、この面目躍如のリチャードソン、後に重巡エクゼターの副長に転出して、日本軍に撃沈されて終戦まで捕虜生活を余儀なくされた。
 撤退作戦は5月26日に始まり、31日海岸の陣地は幅32キロ奥行き10キロに縮小していたが、その外周陣地は仲間の撤退を助けるべく頑強に戦っている、指揮官ラムゼーはかれらこそ最も救い出すべき将兵だと感じていた。そのころダンケルクの街は脱走兵や迷い兵であふれていた、傷痍兵や統率の取れた部隊が優先され、このあたり画面でよく描かれているが、もっともこれをテーマとした映画で当然と言える。    
 6月3日夜半最後の撤退作戦が発動され、危険を顧みず大型船から小型船まで一斉にダンケルクの浜辺に殺到した、そして一夜が明けて6月4日14時イギリス海軍省は正式に作戦の終了を通達した。この作戦によりイギリス軍将兵19万8229名・フランス軍将兵13万9997名が撤退したが、イギリス陸軍は精鋭のマチルダ戦車や車両・火砲を多量に失い、予想されるドイツの侵攻に対し、十分な防衛体制が構築されないと言う事態を招いた。しかし、多数の実戦経験を経た将兵が、新兵と混成部隊に編成されることで、新編成とはいえその戦闘力を飛躍的に高めることに成功した。


 この概要に照らして冒頭の矛盾点を詳述する。
1 友軍のバリケードに救われた兵士、撤退作戦の終盤でも縦深10キロあり、ダンケル
 ク市街であるはずが無く、ドイツ軍の銃弾が飛び交う街は海岸をかなり離れている。
2 志願した民間船に救助された兵士、たった一度の遭遇戦であれほどの精神異常をき
 たすとは思えない、しかも激戦に蹴散らかされたのはフランス軍である。しかも船に同
 乗していた正規兵何をしていたのか、また父親の船長何がおきたか不思議そうな表
 情、何ともつりあわない。
3 海上の船舶に水平爆撃のハインケル111、陸上の目標ならともかく当たるわけが無
 い、これはユンカース87の縄張りだ。
4 立派な桟橋、ダンケルク港にこれほど長い桟橋があったとは、更に7~8メートルの高
 さがある、開かれたドーヴァー海峡にこれほどの干満があるだろうか。
5 干潮時の浜に放置された船に隠れて満潮を待つ10人ほどの兵士、遠景では2~30
 トンにしか見えなかったが、船内の情景100トン以上はある、浮力を争っているのに銃
 弾によると思はれる穴からの浸水をぼんやり眺めている、しかも浸水はほぼ直角である
 外の水位は穴よりかなり上にあるはずであり、それでも船に浮上の気配が無い。ボンク
 ラども浸水を止める様子が無い。


 これらの矛盾点は壮大なダンケルく戦では些細なことで、7昼夜にわたり参加した大小800隻の舟艇、、しかも一日に数往復している、延べにすると2000隻になり一日あたり300隻である、海はこれらで埋め尽くされたのではないか、そして6月3日から4日の夜は総動員された800隻が浜辺に殺到したのだ、すさまじい光景が展開されたであろう、あえてCGを避けたといはれるが是非ともこれを見たかった。そして最後の撤退を支持して外周陣地にとどまった兵士たちはどううなったのであろうか、4日以降も1000人を越える帰還者がいる、殿(シンガリ)はしばらく抵抗したのであろう、霧にまぎれてのキスカのようにはいかなかず、友軍の無事を見届けて降伏したと思はれる。そして帰ったイギリス兵は20万人だが、最初の遠征軍は何人で帰れなかったのはどれほどか、いろいろの疑問が残るが関連する資料が見当たらない。
 余談だがイギリス本土に救われた14万のフランス兵、自由フランス軍として編成され、ドゴール指揮のもとD-Dayを迎えることになるが、彼はドーヴァーを小船で渡ったのではなさそうである、どのようにしてイギリス本土に渡ったのであろうか。


     2017-11-17

 

 

 

 

 

     ラパロ条約と密約    大幡

 

 話しは1920年代の後半、ナチスが政権をとる数年前のことである。ドイツのバルト海に面する港に、厳重に封印されたコンテナーが届いた。中身は試験飛行に失敗したパイロットのなきがらであり、ラパロ秘密協定により、ソ連領内で行はれた、飛行機・戦車等武器の開発・試作試験の一端による。
 当時敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約により、再軍備には厳しい制約があり、この密約が無ければドイツ軍の再建はかなり遅れたであろう。この知見戦争中「海と空」によるものであり、この認識半世紀以上眠ったままであった。

 この歴史は1922年、バルト海を遠く離れた地中海ゼェノヴァ湾に面した、イタリアのジェノアに始まる。第一次大戦敗戦によるヴェルサイユ条約の、苛烈な賠償総額1320億マルクの重圧が、敗戦後三年復興期のドイツ経済にのしかり、その不履行を理由にルール一帯が連合軍に占領されたり、上シレジアの一部がポーランドに割譲される様であった。
 高まるドイツ側の不満と、革命後の混乱が続くソ連問題を議題として、ジェノアの地で国際会議が開かれることになったが、当時の国際情勢を整理してみると。

・ ソ連は帝政時代の外国公債と戦時の援助物資の変換等併せて約140億ルーブル(1970年当時の200億ドル)の負債を抱えていた。
・ ソ連はヴェルサイユ条約に招かれず、対独賠償権が保留されていた。
・ ソ連以外の連合側では、革命政権はいずれ崩壊し穏健な政府が出現すると、希望的見通しが支配していた。
・ ロシアの対外債権の大部分をフランスが占めていて、ソ連の対独賠償権を戦後返済能力の無い対ソ連経済援助の担保とみなし、これにより独・ソの接近を妨げようと目論んでいた。
・ ドイツは西側との連携の大勢と、ソ連と連合の少数との二派に分かれていた。

 このような情勢の中で、1922年バルト海を遠く離れたイタリアのジェノア(モナコに近い)で国際会議が始まった。主な議題は(A)ドイツ賠償問題(B)ソ連の経済問題であったが、ポアンカレー(仏)とロイド・ジョージ(英)は議題(A)を除外することに同意していた。当時の国際世論では野蛮な好戦国ドイツ、流血で手の汚れたボルシェヴィキ、この見苦しい二つの大国がジェノアで仲間入りを許されるか、どんな態度をとるか固唾を呑んで見守っていた。
 一方ドイツでは少数派ながら、ソ連と対等の経済協力を図る交渉が、ベルリンでひそかに進展していた。会議が始まると即ソ連問題に入り、関係ないとして独代表団は議場から締め出され、ソ連もこれに同意した。独側は孤立感と更なる賠償におびえていた。
 会議が進行して、ソ連はいかなる国とも対等な立場で、経済協力をやる用意があると明白にし、更に全世界の軍備縮小を提案、世界が同意するなら赤軍の全面解体する用意があると、大見得を切り、国際世論を味方につけた。
 ソ連代表団はジェノア東方30キロの漁港、ラパロに停泊しているイタリアの駆逐艦に本部を当てていた。ドイツ側からの接触は不可能である、会議が数日進行する中、ソ連側からドイツ側に、ベルリンでの試案を進めようとの話が来た、今にも死刑宣告に近い窮地に立たされるドイツ側、ためらう余地は全く無い、すぐさまラパロの漁村で仕上げの会議が始まり、紆余曲折はあったがその日のうちに、ソ・独国交回復条約が調印され、ソ連の計らいでささやかな祝宴が催された。
 この発表にロイド・ジョージらは激怒したが、後の祭り、ロシア・ドイツの厄介者を封じ込めようとのカラクリの裏を見事にかいてしまった。英仏側の怒りはすさまじく、平素冷静な「タイムス」誌でさえ「英仏を愚弄するものであり、断固たる措置をとるべきである」と悔しがった。
 一方ワイマール共和国では成立とともに独・ソ協力の機運が高まり、ゼークトを頭とする軍部の対ソ接近はすばやく、ヴェルサイユ条約が禁じた武器の製造・実験をコッソリ始めていた。しかもその資金について、当時のヴィルト首相、政府としては表面的にははねつけていたが、裏資金の通を付けだんまりを続けたという、なかなかの人物であった。
 そして、ソ連には「両国が交友関係にあるときだけ、両国はもちろんヨーロッパは平和を享受することが出来る」また「ドイツ経済にとって広大な市場となるのだ」と、西側の結束にすこしでも楔を打ち込めればとの思いと。ドイツにとってロシアぐるみの包囲網を崩せればとの利害一致が、ラパロ条約成立の最大要因であるが、ソ連当局の巧みな外交力なくしては実現しなかったであろう。

 第一次大戦ドイツは寸土も侵入を許さず、戦場では負けていないととの意識が強く、過酷な賠償がドイツ民族の強大な反発力を生ぜしめ、ヒットラーの台頭する前から、産軍一致の再軍備江の強い動きがあった。そして、ラパロ条約の密約が大いに効果を上げたのは、その後のヨーロッパ状勢のっ示すとおりである。

 少し話をさかのぼるが、冒頭の密約の存在と棺のこと「海と空」で、第二次大戦中に承知していた「ラッパロ条約」としてだが、半世紀以上たって密約の正体どれ程のものかと、興味がわいて調べ始めたが関連資料が全く見つからない、20年ほど前、港区の図書館で広辞苑並みの分厚い「ドイツ関連辞典」にも見当たらない。ない筈である「ラッパロ」ではなく「ラパロ」と「ッ」の一字が邪魔をしていたのだ、どんなキッカケかはすっかり忘れてしまったが、平成15年県立熊谷図書館の書士が、かなりの時間をかけて「世界」の昭和37年6月号「独ソ関係の一こま・ラパロ条約40年」の記事を見つけ出してくれた。本稿の大分はこれによる。

 密約に戻る、とにかくドイツ軍部の兵器開発の全貌がソ連に筒抜けである、ここにはドイツ人のロシア人に何が出来るものかとの、油断があったのであろう。そして、グスタフ・マンネルハイムの指揮と、スキーを駆使したフィンランド兵士はソ連軍を翻弄した。この様を見たドイツ軍の将領達はソ連軍を極度に軽視し、そのうえナポレオンの故事を無視して、冬服を用意することなくモスクワに突進し、やがて冬将軍のとりこになり、次ぎ次と現はれるT-35戦車ヤクー17地上攻撃機に押し捲られ、東部戦線崩壊の有様は大方の人が承知の通りで、第二次大戦ドイツの敗北はソ連軍なくしてはありえないことである。針小棒大だがドイツの敗因色々あるが、ラパロの密約無くしては有り得ない、そして、ドイツのこの失態なかりせば日本の惨敗も遥か先のことになったかもしれない。しかしわが国にとって良いかどうかは分からない。



    2017-11-18

 

 

 

 


       明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡


 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。


 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作・大久保利光・伊藤博文・勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。




 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830~98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信、伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。


(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838~1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825~83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16~7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文、井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。


(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。


(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリカ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリスの海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団(1871年6月~73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋-横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19

 

 

 

    登戸研究所  法紙幣 風船爆弾    


 風船爆弾で象徴される陸軍登戸研究所は、現在その中枢部が明治大学生田キャンパス(川崎市)となっており、その一角に当時を偲ぶ記念館がある。
 たまたま、熱海で碁の催しがありその帰途を利用して尋ねてみた。小田原で小田急に乗り換え生田駅で下車、線路沿いに徒歩15分程で、キャンパスの裏口に瀟洒な建物があったが、左手奥の守衛所で案内を乞い言はれるままに、標高差20mほどの急坂を登り台地の上に立つ、久しぶりのことでしっかり汗をかいた。案内板があり記念館は構内の最も奥まったところにあり、徒歩7~8分、秘密戦にふさわしい暗灰色のコンクリート一階建て、周りの校舎に比べ小さな倉庫と言った佇ずまいである 当時、研究所の殆どの建物が木造の中、少ないコンクリート造ずくりであり、構内の片隅であったことが幸いしてか、当時の姿をとどめる唯一の存在である。

        写真  (B)

 この研究所は、銃弾の飛び交う前線に対し、後方の物資の調達・通信・治安の維持、更には敵方の後方撹乱など余り注目されることは無いが、必要不可欠で複雑多岐にわたる業務があり、秘密戦とも呼ばれる。これらに憲兵や特務機関員、陸軍中野学校で養成された工作員等が当たり、この業務に必要な資財機材の研究開発と、供給を目的として開設された。
 昭和12年日支事変が始まると、戸山ケ原(新宿区)で研究していた通信の実験場として、生田台地(川崎市)に開設され、戦線の拡大長期化につれ、業務も増大組織も拡大していった。また謀略・破壊工作等の性格上意図的に秘匿され、一般に知られることが全く無かった。

 

 

       地図   2点
     登戸研究所時代の建物配置図
     現在の配置図


 その機構は4科16班、関係者も数十人から1000人余に膨張した。昭和19年の組織図を見ると
  第1科4班 風船爆弾、ラジオゾンデ・通信、怪力電波、人工雷
  第2科7班 防諜機材、毒物兵器、諜者用カメラ、対植物謀略兵器
  第3科4班 紙幣・証明書等の偽造・分析・鑑識
  第4科1班 上記研究品の製造
 この内容から、昭和12~16年日支事変期と16~20年の太平洋戦期に大別され、研究の内容・軽重に大きな変遷があったと思はれる。前期に戦争は支那大陸に限定され,研究の主力防諜関連は世界に広がっていたが、16年対戦勃発とともに、世界との交流は完全に閉ざされ全く違った世界となった筈である。
 防諜・諜報・諜略については、対支・対ソ・対欧米とその性格が分かれ、交通・通信の途絶等複雑であり省略する。
 又、怪力電波・人工雷については、昭和初期殺人光線として空想科学小説にしばしば登場したが、当時のマグネトロン(周波数変換)のレベルでは到底実現不能の夢物語であり、現在の知識から見れば笑止千万とも言えるが、当時はかなり本気だったのかな。
 スパイ関連の小型カメラ・耐水マッチ・証明書の偽造等少々「007」的で、上海等の魔窟辺りの心象風景で、実際にどれおどの活動場面があったのかと思う。
 薬物・毒物の研究、伝単の印刷 中国戦線の後方撹乱のため、家畜類の毒殺・食用植物の枯死、敵方の要人の毒殺等を目的として、諸種の薬物が開発されたが、その実効面については余り語られていない。更に毒物関係も731部隊との関連も有ってか、具体的記述に乏しく語るものが無い。
 余談だが、青酸ニトーリル系の遅効性毒物の人体研究が、昭和16年頃南京病院で行はれたが、戦後昭和23年帝国銀行椎名町支店で、厚生省技官を装った犯人が行員12名を毒殺、小切手等を奪った帝銀事件の捜査段階で、その毒物が登戸研のものではないかとの疑念が起こり、多くの人が捜査対象になった、とんだ副作用である。このおり研究内容が深く証言され、後に記念館設立のキッカケともなった。
 日本軍は兵器以外の物資ついて現地調達の方針をとってきた、初めは軍票・日銀券・アヘン専売により取得した中国法幣を当ててきたが、戦線の拡大とともに軍票等は信用されず、法幣の偽造で対処してきたが、昭和16年英領香港を占領、中国国民政府造幣所の印刷用原版と大量の原紙手に入れ、登戸研に送り本物そのものの偽札を、無制限に印刷することになった。

        写真  (G)  

 これまでに蒋介石重慶政権側の経済を混乱させようと、対立する汪兆銘の南京政府に中央儲備銀行を設立、儲備券を発行全土に普及させようとしたが、軍事支配地域に限られ期待したほどの効果は得られなかった。
 この制約を乗り越えようと現地のアウトサイダ-(闇勢力)との連携がとられ、さまざまな裏話があって然るべきだが、小生のレベルでは発掘のてだてもない。
 しかし、重慶政権も巨大な軍備を調達するため、奉幣の印刷を増大させ、1937年(昭和12年)の発行額14億元が44年には1894億元になり、日本が発行した偽札は1%の45億元に過ぎず、殆ど何の影響も与えなかったが、37年の各種の物価指数100に対し、44年には5700と凄まじいインフレを招き、中国民衆を大いに苦しめた。
日本軍の食料などの現地調達が時に暴力を伴い、物議をかもしているがこれも一時・少量はまかなえても、師団規模となれば貨幣による商業的な調達以外に無い、そのための偽札である。44年4月の大陸打通作戦時には兵士に給料として支給され、それなりに通用したと思はれる。但し、発券の裏打ちは敗戦後、蒋介石の無賠償決議によりウヤムヤとなったが、日中国交回復時に、どのような裏取り引きがあったかまでは、この項の主題を外れるのでここまでにする。
 余談だが、現地調達は日本だけではない、映画「戦火の馬」に第1次大戦時ドイツ軍の所業に、かなりのスペースがさかれている。現池住民を組織的に徴用して、大規模な農園を展開していた、そしてアメリカは完全自給の体制をとる唯一の国であるが、唯一つ自給できないものがあり、それは戦地での性処理である。ベトナム戦を題材にしたいくつかの映画に出てきた、余りに多いので具体例を示せない。そして日本の敗戦後の風景、ドウス昌代著「貧者の贈り物」に詳述されている。
 そして風船爆弾、「東両国ー3」に一部を取り上げ、殆ど対費用効果ゼロと切り捨てたが、一応の成果が有ったとも言える記述があったので紹介する。



    (図) アメリカ軍に確認された風船爆弾

 最初の風船爆弾は、昭和19年11月3日明治節を期して、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来から一斉に放たれた。それぞれに15キロの爆弾と、数個の焼夷弾を搭載し、翌年の4月までに9300個が放球された。アメリカ本土到着が確認されたのは361個だが、おそらく1000個程度が到達したと推定される。その被害はアメリカ本土は勿論アラスカ・カナダさらにメキシコに及び、至る所で原因不明の火災が起こり、20年3月ワシントン州ハンフォード工場につながる送電線に風船爆弾が接触して断線事故となり、マンハッタン計画の研究用原子炉を一時停止させた、アメリカ当局はパニックをおそれてこの情報を公開しなかった。
 この放球作戦が11月~3月に限定されて行はれたのは、偏西風という気象条件によるものであろう。

 

 (図) 太平洋上の冬の偏西風予想図(風船爆弾の飛行経路)

 放たれたばかりの風船爆弾の姿はしなびた茄子と言うところだが、まず気球内に水素ガスを60%程度に満たして基地から放ち、上昇するにつれ外気の気圧が低下してガスが膨張し、高度4500m程度で100%まで満たされ、立派な球形になり上昇を続け、予定高度に達するとバルブからガスを放出して、偏西風に乗って太平洋上を東へ移動し夜を迎える。気温が下がるとガスが収縮して気球がしぼみ高度が下がる、すると高度維持装置によりあらかじめ搭載された砂袋を投下し始め、高度が回復すると投下は止まる。偏西風は時速200キロほど、およそ2昼夜半かけてアメリカ本土にたどりついて、爆弾や焼夷弾を投下することになっている。

(図) 風船爆弾の全体図

 戦後明らかになったが、アメリカはこの風船に細菌兵器が搭載されるのを恐れ、厳戒態性を取っていた。一方わが国でも細菌兵器として牛ウイルスなどを用意して「最終兵器」と呼んでいたが、最後の段階で爆弾に切り替えた。若し実施した場合「わが国の稲の収穫期に焼却される恐れがある」とする東条英機首兼相陸軍大臣の判断で、中止されたとする説があるが、その任期と照合して真偽の程不明である。
 一方この時期には、天皇も参謀本部も敗戦を予期しており、その報復を恐れていたと言う、とすると、19年秋にはその意識が最高指導部にあったとされる。もっと早く少なくともドイツ降服時か、沖縄陥落時停戦できなかったものかと悔やまれる。
 余談だが、戦後ワシントンのスミソニアン航空博物館でV2号ロケットとともに風船爆弾が「最終兵器」として展示された。又海軍でも潜水艦でアメリカ本土に近づき、洋上から放球することを研究していたが、潜水艦不足から計画が中止された。
 さて、この作戦昭和19年9月30日大本営で実施が決定され、11月3日に放球開始されたがその素早さは驚異的である。先ず、市中から和紙とこんにゃくが姿を消し、日本各地の造兵廠、民間の工場・学校の体育館で、気球の外皮よなる原紙作り(こんにゃく貼り)が始まり、広い空間のあるデパートや劇場さらに国技館等で、ガすを入れる満球テストが行はれたと言う。姉「和子」が国技館に動員され、この作業に当たったと聞いたが、まん丸にふくらんだ10mの巨大な風船を目にしたとまでは聞いていない。わずか1ヶ月でとはかなり無理である、相当前からの準備が必要であるがその点定かでない。

      写真 (C)

 一方、中国経由で昭和20年2月の新聞に、風船爆弾の戦果を伝える記事が出た、世界との交流は電波傍受しかないと思はれていたが、以外なところに小さな窓がいていたとは驚きである。
 さて、敗戦からこの記念館設立(2010)まで、半世紀を越える年月に色々な事があった。
 敗戦と同時に、謀略・毒薬等の研究趣旨から、証拠隠滅が厳しく行はれたので、その存在すら世間には全く知られなかった。
 1948年(昭和23年)の帝銀事件で毒薬関連の調査が進み、設立の遠因となったがしばらくは何の進展もなっかた。
 1951年敷地の大部分を明治大学がキャンパス用として購入、木造の建物は空襲も受けず、大径間のトラス構造で教室に最適である。
 植物用の毒薬を研究いた所に最初に出来たのが、何の因果か農学部である。
 学部の増設に従い中・高層のコンクリート造りとなっていき、最後の木造建築が消滅したのは1991年頃である。

      写真 (D)

 一方世情では、1970年代後半から、ようやく戦中史の掘り起こしと地元史研究の気運が広がり、その教材として登戸研究所が取り上げられた。
 このうねりが大学を動かして、奥まったところのコンクリート造りの一棟が、記念館に転用されることになった。
 記念館を辞するにあたり、研究所の現存施設を尋ねたところ、当館の他にもう一箇所「弥心(やごころ)神社」の2つとのこと、神社は往路坂を登りきったところと確認、古びた小さな祠(ほこら)、昭和18年戸山が愿の「八意思兼神」(やごころおもいのかみ)をこの地に祀り、現在「生田神社」と呼ばれている、手を合わせて帰途についた。


  

 

     写真  (E・F)
   (Fの碑・昭和63年元所員有志により建てられ、裏面に
   「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と戦後数十年
   万感の思いが込められている。


 蛇足ながら入り口の立派な建物、台地に上がるためのエスカレータだけ、しかも登り専用である。往路汗まみれの苦労は何だったのかと悔やまれた。 



   2017-11-21


 

 

 

  
   御茶ノ水駅・小赤壁・グリーン車    大幡


 ある日新聞に、JRが中央線の電車にグリーン車を導入するとの記事が出た、2両増結するためにホームの延長工事が必須で、御茶ノ水と西荻窪に難工事が予想されるとあった。既に工事が始まっていて、秋葉原よりの崖に蜀の桟道よろしく吊足場が設けられ、この風景を眺めるうちに中学生の頃の話が思い出された。


 中学2年新学期、新しい漢文の授業が始まった。小身痩躯白髪の牧野先生、出欠簿で呼び上げ起立した一人一人を確認しながら、小生の番が来た「おおはし」との声に全く反応しなかった、あたりを眺め回すように再び「おおはし」ときた、そこで小生「おおはた」ですと起立した「幡」が読めないのかと軽い抗議の気持ちも有った、じろりと見て「どこから来た」との冷たい口調に「本所東両国です」と応えると、すかさず「川向こうか」と切り捨てられた。本所深川で両国とくれば、同じ下町でも少々優越感を持っていたが、あっけなく踏みつけにされた思いであった。
 この先生の授業の中でお茶の水に話が及び、神田川の崖をえぐるように省線電車が走り、ここを「小赤壁」と呼ぶということから、上野の不忍池を「小洞庭」瀟湘八景に因んで「近江八景」と話しが膨らんだ。さてこの「小赤壁」先生の話から半世紀以上再び出会うことも無く、この呼称を使う人もいなかった。更にこの崖天然のものではない、徳川幕府が発足してまもなく、大きな利根川の付け替え工事と並んで神田川の開削が始まった。中国の故事に「水を治めるもの天下を治める」というが、歴史上黄河は暴れ河で中華の大平原を幾度と無く氾濫して、いくつもの川筋を残している、まさに河を収めることが政治の初めであり、徳川幕府もその例に倣ったのであろう。


 上毛に発する利根川もともとは江戸川として東京湾に注いでいたが、これを渡良瀬川に合流させ太平洋に向け、江戸の洪水禍を防止したのである。更に千川と善福寺川の合流点(現在の飯田橋)から真っすぐ東の隅田川に、放水路として神田川を掘削したのである。殆ど東西に真っすぐな神田川も。御茶ノ水の辺りでカーブしているのは、当時の工事能力から、本郷台地のくびれた鞍部を選んで開削したためであろう。
 またこの掘削は現地の土質(岩盤ではない)により、逆ハの字の斜面であったが、明治になり右岸に鉄道、左岸に道路を設けることにより、現在の絶壁状の地形が生まれたので「小赤壁」の歴史は明治になってからのことである。


 ここで「赤壁の戦い」にふれてみると、208年華北平定に成功し中国統一のため南下した曹操は、諸葛孔明の策により同盟した劉備・孫権の軍と、長江赤壁の地で対峙し、公明の火計の策により敗退し、全国統一どころか天下三分の形勢となった。この戦い両軍併せて100万余・数千隻の規模である、「小」とはいえ余りの落差アゼンとするしかない。


 グリーン車対策に戻ろう、御茶ノ水駅のホームは東側の聖橋と西側の御茶ノ水橋の間に設けられ、東側は中央線の上り線が総武線の下にくぐり、ホームに段差が出来てこれ以上延長の余地は全く無い、西側の終端にはホームの幅一杯の階段があり、ラッシュ時の混雑から幅を狭めることは出来ず延長出来そうも無い、難工事というよりグリーン車そのものが没かと思われた。
 工事の情況は、初め「首都圏直下型大地震対策」との看板が掲げられていて、秋葉原よりの吊足場から水道橋方面に延々と足場が組まれ、壁面の土留め工事が進んでいるが、工事用の人員機材全てが水面側から対応するしかない、神田川上に架設工事用のH柱が多数打ち込まれ、テニスコート数面ほどの仮設デッキが設けられているが、いかにも工事規模にふさわしくない、ここでこの仮設グリーン対策と判断した。ホーム拡幅のため中央線の上り線を神田川よりに移設すればよいと合点した、その気になって見ると、デッキと上り線の間には充分の余地があり、御茶ノ水橋の橋脚の外側水面上に橋脚を設け橋梁上に上り線をと考えた。そしてデッキ上には基礎工事用のコルゲート板が山と積まれている、果たせるかなと確信し工事の進行を予想しいて、色々と記録になる写真を撮ってみた。


 しばらくして現場を訪れてみると、先の予測に不都合なことが起こっていた、御茶ノ水橋よりの斜面の土留め工事が永久工事の様を示している、ここは外側に障壁を線路の高さまで設け埋め立てるはずが、全くの誤算でありホーム幅の問題をどう解決するのか分らない、改めて工事の状況を見ると、上下線のホームにH柱が立ち並び仮設の梁でガッシリと井桁に組まれており、ホームの下がスッカリ掘り取られ足元スカスカになり、コルゲート板が消え失せている、どうやらホーム下の基礎工事に使われていたのだ。


 程なく仮設デッキに大型のクレーンが設置され、上り線のホームに直径1・5メートルを越える柱が2本立ち上がった、仮設ではなくしかも大きな梁で連結され、更に工事が進み、下り線側にも2本の柱とそれぞれを梁で井桁につなぎ、工事の全貌がほぼ姿を現わした。上り下り2面のホーム上に、旧来の御茶ノ水橋側の歩行デッキとつなげて、大きなスペースが出現するのである。何のことは無い、階段の幅は少し狭くなるがホームの中ほどに別の階段が増設され、幅は聖橋側と同じでよいのだ。更に工事が進み3本目の柱が建ち、4本目を示す白い円が聖橋側の階段を下りて間じかのホーム上に画かれている、デッキは聖橋側につながり、その幅は外側の線路一杯に、片持式の梁が出ている。デッキの規模は東西両出口と、上下線の線路外側一杯の巨大なものである、これが歩行通路だけの筈が無い、鉄骨の規模から2~3階の駅中(えきなか)施設になると思はれる。この予測外れるとは思えない、神田川対岸からの駅全景の変化が楽しみである。
 とにかく当局は合理的に最小の経費で対応するもので、階段の増設と言う当たり前のことに考え及ばない、素人の見当はずれの妄想に恥じ入るばかりであるが、デッキについては外れっこないと確信している。


 ここで又訳の分からないことが起こった、聖橋のきれいなアーチの全面を覆う仮設シートが張られ何事かが始まったらしい、T・W(タウン・ウォッチ)の真髄、着工前・完成後を比較する楽しみを外される予想外の動き、いろいろな方向から御茶ノ水駅周辺の写真を撮ってきたが、あの聖橋のキレイな全容全く撮っていない、工事の進行を待つしかないが、たまたま11月8日、左手のひらのデュプィトレン拘縮の再診で東京医科歯科を訪ねた折、シートの一部が外されていてアーチの下側一杯に足場が組まれ、アーチ下面のコンクリート補強と思われる。かなり前から、東京駅から新橋間高架のレンガ構造のアーチに、直下地震対策としてコンクリート補強が施されているが、同じ趣旨のものであろう、しかしこの費用JR持ちとは思えない。とりあえず中間報告とする。
 
 

 

 


 


 

   お知らせ

 

 

 

    2022年4月5日

   このブログの作者である大幡高通さん93歳が一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。 

 お読みいただいた皆様へ 彼に代わって御礼申し上げます。


        このブログの投稿のお手伝いをしていた服部です。

   ありがとうございました。


         2022年4月5日