郷土史・歴史


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  城巡り



項目



 源範頼

源範頼 ゆかりの地 その1


源範頼 ゆかりの地 その2

源範頼のお墓

範頼のお墓 その2

範頼のお墓 その3

範頼のお墓 その4


源範頼の子孫

石戸城・砦 (天神山城)

石戸藩

鎌倉古道の石像 すべて    
       桶川芭蕉句碑より鴻巣平間まで 新33か所めぐり


陸軍桶川飛行学校
練習機での特攻

村上来島海賊

藤堂高虎

清須会議と丹羽長秀・三法師

清須会議 その2 信長の子供たち

竹中半兵衛とその子孫

四境の役 大島口の戦いと久賀

世良修蔵

赤禰武人

佐久間大学

幕末の四兄弟

折敷畑の合戦

厳島の合戦

芸州口の戦い 和木を訪ねて  四境の役

毛利元就の調略  厳島の合戦における

司馬遼太郎で学ぶ日本史  磯田道史

革命の3段階など 磯田道史さんによる

関ケ原合戦 通説打破

マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令

広沢真臣  ひろさわさねおみ

広沢真臣暗殺裁判と陪審制度

辻将曹

御手洗・ みたらい

中村春吉 1871-1945

岩城島

佐島と生名島

人名政 (にんみょうせい)

野山獄と岩倉獄  高須久子

薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟

幕末の薩摩藩主

長州ファイブ・5傑

薩摩藩 第一次英国留学生

薩摩藩 第2次米国留学生

乙丑の獄(いっちゅうのごく)

商社示談箇条書

青松葉事件

林勇蔵 と 吉富簡一

亀山社中・海援隊

海援隊士

龍馬の船  龍馬晩年年表

鄭成功  1624-62

宇久島

平戸

大浦天主堂 国宝・世界遺産

幕末・明治の殉教  「浦上四番崩れ」

高杉晋作の終焉の地・下関を訪ねる

長府の街と藩・人

神機隊と芸州の諸隊

神機隊の本陣を訪ねて

溝渕広之允

赤松小三郎 惜しまれる暗殺

隠岐正義党

服部潜蔵

幕末の国際情勢とペリ-の来航

三浦按針・ウイリアム・アダムス

初期徳川幕府の通商条約

三島通庸・彌太郎・弥彦

菅野覚兵衛・千屋寅之助

ラドガ-ス大学  日本人留学生

龍馬の蝦夷地視察

大村藩と渡邉昇

坂本龍馬と近江商人 武田鉄矢氏による

忠勇隊

庄屋と志士

野崎家旧宅

西郷陣屋

高梁散歩

 

 

 

 

 

 







     源範頼

 
                  

 1150-1193?

   源範頼は義経と同様な運命になった割には知られていません。地元にゆかりがあると言われるので調べてみました。
 頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。遠江国蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者,蒲殿と呼ばれる。兄の頼朝の代官として源義仲(木曽義仲)追討の大将軍となり、上洛して弟の義経軍と伴に義仲を滅ぼす。 一の谷合戦では3万と言われる主力大手軍を率いて戦い、また義経軍は1万の搦手軍を率いてその奇襲により平家に勝利した。その後中国と九州の平氏側の御家人を味方につけ平氏を長門国に孤立させる。そのせいで義経は屋島の戦いで勝利する。続いて壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。 義経と頼朝が対立した、義経は藤原泰衡の襲撃により自害する。頼朝の奥州藤原氏を滅ぼした軍に参戦する、これが最後の出征となる。 曽我兄弟の仇討事件をきっかけにして謀反の疑いを受ける。伊豆の修禅寺に幽閉され謀殺されたという。

 平家滅亡までは主力を率いて勝利し貢献大です。義経が有名ですが範頼が平家の主力を押さえていたからこそ、義経の奇襲が成功したともい云えます。
 頼朝は封建制の常で兄弟はいつもライバルです。うまく弟たちを使ったともいえますが、3代で鎌倉幕府が滅びる原因にもなりました。


 

    範頼ゆかりの地 その1


       
 1. 蒲さくらは、範頼の杖についていた種が成長して、蒲冠者のいわれから名がついた樹齢800年以上の桜です。蒲桜の根本にある墓石は逃れ住んだ範義のものといわれています。

     

 北本市 石戸蒲さくら 天然記念物


     

 東光寺 範頼創建といわれている


2. 範頼の妻、亀御前は範頼の死を知り、荒川に薙刀を持って身を投げて、その薙刀が常勝寺に残されているといいます。(ここはシナ駐屯第1歩兵連隊供養地の寺でもある)

         

 常勝寺  


 3. 北本市にある高尾阿弥陀堂は亀御前を供養するために建てられたといわれて高尾さくら公園隣にある。 亀御前の石塔と薙刀は常勝寺にここより移されたといいます。

                    

 高尾阿弥陀堂 鐘楼


  4.. 石戸神社は1199年に亡くなった範頼の息女・亀御前の供養のために建てられたといわれている。遺跡堀之内館の中に神社はある。堀之内館は源範頼の住居の地と伝えられている。


              

 石戸神社                
  
 

 石戸神社入口

    
   

 神社の奥にある2つの小さな社この後ろに土塁と堀の遺構がある

                     

 土塁と堀の遺構

  

  石戸神社由来

         
   
     交通

   北本駅西口から北里メデイカルセンター行きバスで15分・190円
    蒲桜行も少数あります。





           2015-7-14








     源範頼 ゆかりの地 その2  

 
  源範頼の居館跡は北本にある石戸神社を含む堀之内居館跡と吉見にある現在は息障院というお寺に居館跡の2つです。

 吉見にある居館跡を訪ねてみました。住所は吉見町御所374で御所という地名を今でも残しています。 落ち着いた境内のたたずみです。 庭もよく手入れされています。 南東部にある幼稚園を経営されているようで、財政的に安定しているお寺だとうかがわれます。

 近くに安楽寺があり、範頼が平家の追及を逃れるため稚児僧として隠れ住んだ地と言われています。安楽寺も訪ねました。吉見観音とも呼ばれています。息障院から徒歩で二〇分ほどです。

 ここの本堂と三重の塔は範義が建てたといわれています。戦国の争いで近くの東松山城の戦いのときに焼失しました。現在の建物は江戸時代の再建です。ここは義経の鞍馬寺と同じ立位置にあるお寺ということになります。風情のある良い寺院です。
 

  範頼居館跡・息障院


  

 息障院の門


  

 息障院の本堂


  

 息障院の長屋門


  

 北西角の空堀と水堀


 

 南側の空堀 塀は息障院のもの


 

 南西部から南側空堀を望む




  安楽寺・吉見観音


  

 安楽寺・吉見観音


安楽寺 三重の塔


   2015-9-22

  








   源範頼のお墓 その1 -その4

 
 範頼のお墓は伝説により8か所あります。まだまだありそうです。

 有名なものは伊豆の修善寺にあるものです。範頼は、ここに幽閉され梶原景時に包囲されたとありますので、ここで亡くなった可能性は高いと思います。 その遺骸は家臣のものではないかということで、日本中のあちこちにお墓ができるようになりました。

 後世には地元以外には忘れ去られた人物ですが、これらのお墓の数より、当時では人望もあり評価された人物であったのでしょう。

 源範頼の子孫・吉見氏が能登や広島・安芸郡に領地を構えたところから、逃亡伝説もそこにはあり、お墓もあります。生きていてほしいとの願望・希望が伝説として伝えられたました。

                  青字は訪れたところで詳細ペ-ジあり


 1. 埼玉県北本市 東光寺蒲桜下の石塔
    東光寺には範頼の位牌が保管されている




 2. 伊豆市修善寺

 伊豆市修善寺の墓



 3. 横須賀市金沢区

 横浜金沢区 大寧寺の墓


4. 伊予市上吾川 称名寺・鎌倉神社 鎌倉塚 (その4)


  

 夏目漱石の句碑


 蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花        夏目漱石

 木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉        夏目漱石




  5. 広島市佐伯区三宅 観音神社  (その2)

 五輪塔



 6.鳥取市河原町の霊石山中腹 

 五輪の塔


  7.. 浜松市南区飯田町 稲荷山龍泉寺 



  
  
 8. 長門市 三隅中の生島山中

 

 

 9. 広島市西区古江上 福蔵寺  (その3)

 

   2015-11-3  2016-10-23





   源範頼のお墓  その2

 

 広島の佐伯区にある範頼のお墓に行ってきました。 観音寺にあるということで、そこを訪ねました。 でも境内を探してみてもお墓の五輪の塔は見つかりません。 お寺の住職さんに尋ねました。 範頼の御霊は確かにここにあるそうです。 しかしお墓そのものは、元あるところに残し、広島の発展に伴いは当地に移転した。 

  
  

 観音寺



 源範頼は平家討伐の際にこの近くで本陣を張りました。 当地ではよいことをしたということで、後に伊豆から追われて来たときに、この沖で遭難して、死体が海岸に流れ着き手厚く葬られたといいます。 鎌倉の後期に、子孫の吉見氏この近くで領地を得て、先祖を祀るために、蒲神社と五輪の塔を建立したと伝えられる。

 お墓は観音寺近くの老人ホームの山すそにありました。

 9月からはすぐ自転車で行ける近くにヨットを係留することになりました。 何か範頼に導かれてきたような不思議な気持ちです。

  

 範頼のお墓  五輪の塔



  

  老人ホーム 喜生園 この横にある


        2016-9-24


 



     源範頼のお墓 その3

 

 広島は中心の街区を除けば山と海の間の土地は狭いものです。 従い、山斜面にも高層のマンションや家が建築されています。 こんかい西区にある源範頼のお墓を探してみました。 パソコンの地図で住所から見当をつけ、マリ-ナから自転車で行ってみました。ところがどんどん山を登って行く坂道で、自転車をこげるわけでもなく、押しての山登りになりました。不安を感じつつも見つけることができました。

 今度マリ-ナ探しは、範頼に導かれて、不思議な力で広島へ行ったような気持になりました。不思議な縁を感じた次第です。愛媛、山口、鳥取にも範頼のお墓はあるようです。 できるだけヨットで訪ねたいと思っています。

 

 

 広島学院高校の横に福蔵寺がある

 

 福蔵寺

 

 範頼の五輪の塔

 

   2016-10-29

 

 

  源範頼のお墓 その4


 広島廿日市沖で源範頼が遭難して近辺に2つのお墓があります。すでに、ここで報告済みです。どうして伊予市にあるのかはわかりませんが、伊予は古くからの瀬戸内海上航路の一角であるのは間違いないでしょう。
 松山にヨットで行きましたので、訪ねてみました。 松山市駅から伊予鉄道にのり郡中港の終点で下車します。JR四国の伊予駅も同じと言えるように接近しています。 そこから珍しくタクシ-で行きました。ひなびたところですが、幸い運転手はご存じですぐ近くまで連れていってくれました。称名寺境内の鎌倉神社にそのお墓はあります。大洲の藩主が保護していたとかで、江戸時代に大きくした墓石があります。
 帰りは徒歩で帰りました。20-30分ほどの散策になります。
 

 稱名寺参道の標石 右に行きます


 鎌倉神社 この奥にあり


 江戸時代のお墓


左が大きな墓石で中央の小さいものが古くからのものと思われます。


 夏目漱石がここを訪れたときの歌碑



 蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花        夏目漱石

 木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉        夏目漱石

  
     2016-12-10

  

 

 

 

 

 

 



    源範頼の子孫   



 源範頼を祖とする家系は残りました。範頼は吉見郷を領して吉見御所と尊称された。今でも埼玉県吉見町にある居館跡といわれる場所は御所という地名が残されています。

 次男の範園と3男源昭が外曾祖母である比企尼(頼朝乳母)から、武蔵国横見郡吉見庄を分与された。範園の子から吉見氏を名乗る。5代目の義世は謀反が発覚して処刑された。その子である尊頼は渋川氏に養子入りしたため嫡流は絶えて家督と所領は2代義春の弟で能登吉見氏の頼隆に引き継がれた。能登と丹波に下向した能登吉見氏,石見吉見氏(範園の庶子の系統)がある。


  範頼配下の武将に小山氏がいました。その一族に吉見氏を名乗るものがいます。範頼の孫・為頼は小山一族の吉見家を相続することで吉見氏を称するようになったといわれています。


      2016-5-2











        石戸城・砦 (天神山城)   

  

 石戸城  手前が一夜堤


 石戸城の近隣の城



      石戸城の歴史など


 大河ドラマでも平清盛の話になればスルーです。戦国武将のようなロマンを感じることがないからです。兄弟・親子・親類の相続争いは勝手にやっておればという気持ちです。

 そのような時代ですが、地元の石戸城・砦は扇谷上杉氏が古河公方に対抗するために築城しました。
 石戸の位置が鎌倉街道が通り、鎌倉から鴻巣を経て忍に通じる交通の便があり、川越と岩付、松山の城を連絡する位置にありました。

 上杉謙信が関東の争いに乗り出してきたことから、松山城攻防の後詰めのために石戸城に在城したことがあります。

 (後)北条氏が力を増して、 関東を支配する動きのなかで、北条氏邦により石戸城は落城した。

 秀吉が北条氏への小田原攻めにのときに、、その前哨戦として、関東の北条氏の諸城を攻撃して落城させた。 石田光成が忍城への水責め攻撃が有名です。
  諸城が北条氏から秀吉のものとなった。それで小田原城に孤立した北条氏が降伏して、秀吉の天下統一となる。 秀吉により家康が関東転封になり、家康の譜代牧野氏に石戸城はまかされたが、川田谷に居館を移したことで廃城となりました。



  年表

 1132  藤田八右衛門による築城ともいわれる
1457-60 扇谷上杉家臣の大田道灌により川越城・岩付城・石戸城を築城
       古河公方に対するため、同時期に江戸城も完成。

1525 北条氏綱が岩付城を陥落、大田資頼が石戸城に逃れる。
 1537 扇谷上杉の本拠川越城が北条氏綱により陥落
 1546 川越夜戦で上杉朝定が死亡して扇谷上杉滅亡
 1562 北条氏邦(鉢形衆)が一夜堤を築いて石戸城を陥落
 1564 上杉謙信 松山城の後詰めの際に着陣。松山城落城を知り、
     騎西(私市)城を落として帰る。 

 1590 小田原攻めで秀吉に降伏
     徳川家康のにより牧野康成に与えられたが廃城


  

 北本教育委員会調査図



    石戸城の規模と郭など

 城跡を散策してみますと、近くの松山城や鉢型城のように籠城作戦をとっても数千名の兵士が籠城できるほどのスペースはないようです。 発掘がすすみ南側に大きな構えが見いだされないかぎり、数百名の籠城しかできない面積です。城というよりは砦です。

  北・東・西の3方を川・湿地に囲まれた要害です。南側からの攻撃しかできないので、南側は大きな堀で守られています。
 北条氏邦が攻撃の際に東側の台地に陣を構え一夜堤を築いて落城させた言い伝えは理にかなっています。

 現状では目立たないところに遺跡の小さな表示があるばかりで、現代になってできたさくら堤通りを車で走行すると切通しがあるのみで、気が付かないで過ぎてしまうでしょう。
 荒川で掘った土を掘に埋めて平坦にしてしまったせいで、注意しないと分かりにくくなりました。西側崖斜面下には古くは荒川の支流和田吉野川があったようですが、ここも河川改修と湿地の埋め戻しで、現在は天神下公園のグランドになっています。東側の湿地は昔のままで、一夜堤も残されています。

 私有地になっているのでやたらなところには立ち入りできず1の郭には2-3層の天守台の跡地があるといいますが、確認できておりません。

 地元では、まだ10-20年は使える、駅西側の再開発に6億円も投じました。半分が国費で支払われるということが、その大きな開発理由でした。
 地方創生が叫ばれていますが、それなら民有地を買い上げて、城・砦の復元をめざしたらどうでしょう。もちろんオリジナルに近い木造の構造物です。壮大な天守を再現する必要もないので、費用も少なくて済むと思っています。 現在ある樹を伐採して再利用をする、エコに作ることも考えなければなりません。
 
    
    

  石戸城  想定図


   

 教育委員会にある古地図  鎌倉街道が通る



  

 石戸城を切り裂く現在のさくら堤通り


   

 和田吉野川(天神下グランド)より西斜面を見る
   

  

 2の郭 東側にある湿地  右には一夜堤

   

   
    1の郭

1の郭北側


  

 1の郭北側部分 上の道が鎌倉古道


 鎌倉古道(堀)から見た1の郭 本郭跡



           

 北本・高尾にある民家で石戸城天守閣ではありません  笑い
     屋根にはしゃちほこもあります。りっぱな城風建物です。


  

 1の郭 西側堅堀 その1  南北に走る

  

 1の郭 西側堅堀 その2  南北に走る


  

 3の郭より1の郭前のオオタニ(堀)を望む





   2の郭

  

 鎌倉古道(堀)より右1の郭で左2の郭

  一夜堤  2の郭より対岸を見る




   3の郭
     

 3の郭前の堀

  

 3の郭北側  オオホリがあったと言われている


  

 3の郭から5の郭前に大手門があったのか?

  

 3の郭 東側斜面 右側に湿地



    4の郭

  

 4の郭  虎口と思われる場所


  

 4の郭にある石塔群  18世紀のもの


  

   
   5の郭
 
   一番わかりにくく適当な写真なし。
  

     2015-10-1


 

  城めぐり







      石戸藩     

  
  武蔵国石戸領とは現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣氏南西部の荒川の右岸地域をいいます。


領地は、具体的には畔吉村、小敷谷村、藤波村、小泉村(以上 現上尾市)、日出谷村、川田谷村(現桶川市)、石戸宿(現北本市)、馬室村(現鴻巣市)

桶川市川田谷に陣屋がおかれた。遺跡を示すものは残っていない。立て看板もない。石戸城を廃して川田谷陣屋で政務をおこなう。でも江戸屋敷に主人は住んでいたことでしょう。 10年余で加増されたところから、関東の要地関宿に移封されて、関宿藩となる。
 子の家来の子孫から鈴木貫太郎がでます。

  

  川田谷陣屋跡  圏央道桶川北本インター料金所近く
  高速道路建設に伴い移設されている

  

  同じく反対側の墓地、地元の老人によると、ここら当たりが陣屋跡で
  あるとのこと。

   


 牧野信成(のぶしげ) 初代石戸藩藩主 

 1578  牧野康成の3男として生まれる
 1599  家督を継ぐ
 1633 石戸藩できる
 1644 1万7千石に加増され下総国関宿藩に移封、石戸藩は廃藩。石戸領5千石は隠     居料となる。

     2015-10-19








   鎌倉古道の石像 すべて    
       桶川芭蕉句碑より鴻巣平間まで 新33か所めぐり







      陸軍桶川飛行学校
           
            練習機での特攻

   

 

 

 

 

     村上来島海賊


村上海賊3氏族のうちこの来島に城を構えて割拠したのが来島村上氏です。早くから河野氏に臣従した。秀吉の中国攻めの際に調略を受け入れて信長に従う。これにより本能寺の変のあと、秀吉の大返しの時に、毛利氏は追いかけようにも兵糧弾薬が不足しできなかったといわれている。背後で来島村上氏の活躍があった。

村上3氏族で上図のように瀬戸内のすべてを押さえられます



 来島城

 ヨットから見た 来島城跡

 


   来島村上氏の統領について

 村上通康 1519-1567


 河野家の家臣であり来島水軍の総帥。1541年大山祇神社を攻めた大内水軍を撃退させた。1555年厳島の戦いで毛利氏への援軍として勝利する。
 ここで述べた甘崎城主として家臣の村上吉継がおり、通康の死後ですが、1576年に信長との戦いで毛利氏側として第1次木津川の戦いに参戦。


 来島通総 1561-1597


 村上通康の4男として誕生、7歳で家督を継ぐ。1582年に豊臣秀吉に寝返ったため、熊島村上、因島村上、毛利、河野氏に攻められたので、秀吉の元に身を寄せる。秀吉と毛利の和睦後旧領にもどった、来島姓を名乗る。秀吉の四国攻めで伊予風早郡に14000石を得る。慶長の役のときに朝鮮で戦死する。

 今回は今治の停泊が1泊しかできなかったので、後日に来島にはいってみたいと思っています。

   2016-11-5

 

 

 

 



      藤堂高虎

1556-1630

 下の年表にあるように主なものでも、浅井家、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を変えています。それでも家康の死亡の際にはわざわざ臨終に呼ばれた外様大名です。
 変節漢と言われていましたが、人情に厚く、禄だけでは人は心服しないと言い、情けをもって家臣と接しないようでは禄を無駄に捨てるようなものであると述べている。


 年表

1556 近江の藤堂村で生誕

1570 姉川の戦いで浅井長政の足軽

1573 浅井家滅亡 阿閉 貞征、磯野 員昌、津田 信澄に仕える

1576 豊臣秀長に300石で仕える

1581 3000石加増、鉄砲大将

1583 賤ヶ岳の戦いで1300石加増

1585 紀州征伐で5000石になる、四国攻めで5400石加増で1万石の大名

1587 九州征伐で2万石に加増,正5位佐渡守に叙任

1591 秀長嫡男秀保に仕え文禄の役で戦う

1595 秀保の早逝で高野山へ、生駒親正に説得され還俗、5万石に加増され宇和島7万石の大名になる

1597 慶長の役で大洲1万石を加増で8万石

1600 東軍として関が原に参戦、今治12万石を加増され20万石に

1608 22万石で津へ転封

1614.1615 大阪冬の陣と夏の陣に参戦、5万石加増で27万石に

1617 5万石加増され32万石に

1623 死去

 


今年に行ってみた見た宇和島城、今治城、甘崎城など高虎が築城したものです。名手といわれて下記のように多くの城に関わりました。


   藤堂高虎の関係した城

・1585年(天正11年) 丹波・出石城

・1586年(天正13年) 大和・郡山城

・1587年(天正14年) 京都・聚楽第(縄張り)

・1587年(天正15年) 紀伊・猿岡山城

・1594年(文禄3年) 京都・伏見城(秀吉の命により助工)

・1596年(慶長元年) 伊予・宇和島城

・1597年(慶長2年) 伊予・大洲城

・1601年(慶長6年) 近江・膳所城(築城助工及び縄張り)

・1602年(慶長7年) 伊予・今治城及び伏見城の修理助役

・1606年(慶長11年) 江戸城大修理の縄張り

・1608年(慶長13年) 伊勢・津城の大改築及び伊賀上野城の大改築

・1609年(慶長14年) 丹波・篠山城

・1610年(慶長15年) 丹波・亀山城の普請の手伝い

・1619年(元和5年) 京都・二条城の縄張り及び和歌山城の石垣工事

・1620年(元和6年) 大坂城の修復

・1623年(元和9年) 山城・淀城築城の普請を手伝う




 

 

 

   映画  清州会議 と 
        丹羽長秀・三法師   

     

 丹羽長秀

 映画 清州会議を見ました。 感想は60点
以下でもないし90点以上でもないというところ
です。
まだ封切りになったばかりですので、
これ位にしておきます。 
そうそう一言、映画での音楽は
チェンバロが演奏しています。
 かって二本松藩の武士道と少年隊の本を読
みました。二本松藩が丹羽長秀の子孫の藩であ
ることをその時に知りました。少年隊は八重の桜
にも少し登場しましたが、合津の戦いの前に白虎
隊とおなじく12-15歳の少年兵が戦いました。
余り世間では知られていないお話です。
  三谷さんが描いたような清州会議かどうか
歴史的には不明です。
丹羽長秀は賤ヶ岳の戦いに秀吉側に立ち2年後
には死亡します。1時は120万石領し、秀吉に
疎まれたことや関ヶ原の西軍に属したことから、
幕末には5万石でした。
 秀吉と池田恒興、丹羽長秀が担いだ信長の孫三
法師は成長して織田信秀となり13万石の岐阜城主
となる。織田信秀は朝鮮にも出陣した記録があり
ます。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し前哨戦の岐阜城を
守り、池田恒興の息子の池田輝政にせめられ落城
する。福島正則の助命要請が認められ高野山に送
られる。秀信はキリシタン大名であった。
 ご両名はなかなか歴史の一舞台には登場します
が、その後ははっきりとしていませんね。
                                                           ; 2013-11-11

 

 

 

 



   清州会議 その2
  信長の子供たち   

        

 織田秀信・三法師

 織田信成さんはスケートで最後の頑張りをして
います。信長の子孫であると聞いて、信長の肖
像画に確かに似ているので、遺伝子の怖さを感
じるほどです。でも世の中には疑っている人がす
ぐ現れます。本当に嫉妬の民族ですね。

 子供たちのその後を調べてみました。ウエブだ
けのものですからご参考程度にしてください。
明治まで続いた大名は信勝で五万石ほどです。
あとは徳川の高家として名誉はもらいましたが
旗本で数千石です。
四男の秀勝は清州会議ではりっぱな後継者と
しての要件は備えていましたが、あえて
秀吉は三法師を立てたのでしょう。信長の葬儀
のときは秀勝が喪主をしているくらい
ですから。一八歳で早死にしてしまいます。秀吉
はあんなに後継者で自分の血筋の
子供にこだわりますが、信長の六男以降の人材
は豊富にいました。天下を獲ったいまとなっては
信長の子供は重要でなかったということでしょう。 
秀吉の馬廻衆になった子供たちもいます。
しかし、秀吉や信長の馬廻衆の中から戦国大名
になったものは多い、スタートできる地位にはい
たことから、子供たちにその器量がなかったという
ことでしょう。秀吉に殺されていたわけではなかっ
たですね。

長男・信忠 家督を継ぐ、本能寺の変で死亡
        秀信(三法師)岐阜城主として
落城、高野山に幽閉死亡
        秀則(二男)坊主となる
二男・信雄 北畠の養子、秀吉と組み信孝を
自刃させる、家康と組んで小牧
長久手を戦う、秀吉のお伽衆、
徳川になり五万石を得る、明治ま
で二万石と三万石の分家が残る
三男・信孝 神戸家の養子、四国平定の大将
であるが本能寺で秀吉の後塵を
拝す、清州会議では兄信雄と
後争う、賤ヶ 岳の戦いで柴田勝
家につき自刃となる。
四男・秀勝 秀吉の養子、山崎の戦い・賤ヶ岳
の戦い・小牧長久手の戦いに参戦、
        丹波亀山城主となり没す。
五男・勝長 遠山の養子、武田方につき信玄の
養子(人質)になる、勝頼により返還、
        長男信忠の与力として武田攻め、
本能寺で兄と伴に討死。
六男・信秀 羽柴姓をもらう、朝鮮の役で名護屋
に駐屯、子供は相続せず。
七男・信高 羽柴姓をもらう、関ヶ原で東軍、旗本
二千石の高家として仕える。
八男・信吉 おなべの方が生母、剃髪して没す、
関ヶ原のときは二七歳であったが
         どうしたんでしょう。
九男・信貞 秀吉で千石の馬廻衆、七男信高と
伴に東軍へ、二千石の旗本の高家と
        して仕える。
十男・信好 秀吉に仕えた? 子供なく断絶
十一男・長次  秀吉の馬廻衆、西軍に加わり
戦死。子供なく断絶
庶長男? 信正 長男信忠の兄? 原田直政の
妹の子、信長の兄の信広の娘
を正室に,この家系を継いだか?

五徳・長女 家康の長男信康に嫁ぐ、信長に訴状
を送り夫とその母の築山殿を死なせる。
      信長へ帰る。
冬姫・次女? 蒲生氏郷へ嫁ぐ。
秀子・三女? 筒井順慶の子の定次に嫁ぐ。
永・四女?  前田利家の長男の利長に嫁ぐ
三の丸殿 秀吉の側室他に 丹羽長重室、中川
秀政室、万里小路注充房室などあり。

                                         
   2013-11-17









  竹中半兵衛とその子孫   

 
   

 竹中重治・半兵衛
 
 黒田菅兵衛の大河ドラマで竹中半兵衛が死亡
した放映があったところです。最後まで見るつもり
ですが、ホームドラマの雰囲気で作られているの
と諸葛孔明のような軍師という日本には存在しな
かったものをを描いているのが不満です。軍師で
はなくて参謀大名というべきでしょう。

 竹中半兵衛はわずかな手勢で岐阜城を乗っ取
った話が有名ですね。浅井長政の家臣であった
こともあり、信長の浅井攻めでは浅井の家臣を
調略して貢献した。秀吉の与力として中国攻めに
活躍する。黒田菅兵衛の長男のちの長政の命を
救った。
肺の病気で死亡する。36歳で亡くなりました。

 嫡男は竹中重門その時6歳であった。嫡男は
若かったので、秀吉の天下取りには活躍できず、
重用されることはなかった。黒田菅兵衛が烏帽
子親で元服し後に秀吉に仕え5000石となる。
関ヶ原の戦いでは黒田長政のすすめで西軍より
東軍に鞍変えした。黒田長政と伴に戦う。
黒田長政は恩返しをしたといったところでしょう。

 以降幕末まで徳川の5000石の旗本として存続。
幕末に陸軍奉行だった重固は鳥羽伏見、合津、
函館戦争を戦う。幕末の徳川の旗本はすっかり
堕落していて、戦争に行きたくないばかりに、
子供に家督を相続させる旗本が続出しました。
竹中家はそれでは無かったですね。
 
            2014-6-11









  四境の役 大島口の戦いと久賀(くか)


 四境の役・150周年と言われてピンと来る方は少ないと思われます。このことを記述したパンフレットを僧月性の記念館で目にしました。それで周防大島・屋代島にある久賀を訪れました。
 1866年の第2次長州戦争の時に、長州藩は小倉・石州・芸州・大島と四か所の国境で幕府と戦いました。その四境の役で周防大島での戦いが大島口での戦いになります。先の大河ドラマの文の中で高杉晋作が幕府の軍艦を奇襲して砲撃する場面を思い出される人がいるのではないでしょうか。その戦争です。 長州の海軍は防府にあったようで、この周防大島にはありません。 爺は大島口の戦いは防府あたりの戦闘だとカン違いしていました。
 地図を見ていただければ周防大島・屋代島は瀬戸内の大事な拠点となる位置にあるのが分かります。ここは長州藩で四国の松山や本州の広島を押さえる位置にあります。それで幕府兵と松山藩兵により最初に攻撃されて大島は占領されました。
 高杉晋作の丙寅丸による奇襲が成功して、といっても被害は軽微であったようですが、幕府海軍への再攻撃の懸念や薩摩の加担の恐れなどで、その後の幕府軍の動きが後手に回る結果になる。長州は世良修蔵による第二奇兵隊の働きで見事に大島を奪還した。
 

 


 妙円寺のある遠崎村より対岸の笠佐島に上陸して反撃を開始、


妙円寺から見た笠佐島・上陸地点 門の奥にある島


大洲鉄然 1834-1902


月性に学び、第2奇兵隊と新武隊に貢献、維新後は西本願寺で活躍、廃仏毀釈に抵抗する。

久賀の覚法寺に生まれた大洲鉄然が藩に占領を通報した。

 

大洲鉄然の生誕した覚法寺

琴石山の斥侯により、岩国方面に煙が上がっているとの通報を受けて笠佐島に上陸させる。


 琴石山


伊藤惣兵衛(藤屋)・久賀 ここに集まって会議をしたという。
酒屋はそれゆえ幕府軍の放火をまぬがれた。

 館報射撃で穴の開いた村田邸・久賀 不発弾がここにあり。

 明治維新100年記念公園・久賀

 久賀は本土との橋がかかるまでは大島の玄関口であり、最も大きな栄えたまちであった。

   2016-12-14





 

  世良修蔵

1835-1868

世良修蔵が第2次長州戦争での四境戦争・大島口の戦いで、見事に第二奇兵隊を率いて周防大島を幕府軍から奪還しました。彼が軍略を考え、その指導指揮無しでは、数に劣る長州軍では大島解放をなしえなかったでしょう。この戦いに勝利したことにより、第二次長州戦争の全体的な長州勝利の先駆けとなった。

 世良修蔵と言えば、奥州戦争のときに、居丈高な態度をとり、遊女と居たところを暗殺された悪い人物程度の認識で、大河ドラマ的なイメ-ジしか持ち合わせませんでした。 また、大島口の活躍にも無知であったので、唐突に薩摩の大山格之助と共に世良修蔵が実質的な奥州鎮撫部隊の指揮官として登場したのも疑問でした。
 わずか五七〇名の兵しか持たなかった、持たせることができなかった新政府の方針は、奥州の諸藩兵を会津と戦わせることでした。 品川弥次郎などはその困難さを理解して先に指名されそうになった参謀を辞退しました。 会津藩は恭順策を新政府が受け入れないと見越して、着々と参戦準備をしていました。 その困難な状況で、彼が非妥協的な態度をとることになった。 彼だけが悪者にされて歴史に残ってしまったというのが事実でしょう。 その能力から明治の山県有朋に並ぶ元勲になったでしょう。

 略歴


 彼は長州・周防大島に生まれ、藩校明倫館や月性さんの清狂草堂などに学ぶ。阿月にあった浦靱負が開設した私塾・克己堂で教鞭をとる。浦家の家臣となり世良家を受け継ぐ。赤禰武人に誘われて奇兵隊に入り、第二奇兵隊軍監となる。赤禰武人の事件で内応を疑われて謹慎。復帰して周防大島を解放した。京都で薩摩藩との折衝にあたる。鳥羽伏見の戦いで八幡山の幕府陣地を突破して活躍。奥州鎮撫総督府の参謀となり福島で暗殺された・


訪れた、 阿月・柳井市にある世良修蔵宅跡


 歴史庵から世良修蔵の大島解放作戦
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/bakutyouwar/oshima.htm

 敬天愛人による世良修蔵暗殺事件の周辺
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm

   
  2016-12-28

 

  世良修蔵の冥福祈る 福島で50年ぶり法要、歴史再認識

  2018-4-22  維新再考より 

 

 

 

 

 

 

 

  赤禰武人

 1836-1866

 明治の元勲伊藤博文が塙忠宝(国学者)と加藤甲次朗(歌人)を、誤解により暗殺したといわれています。 敵対する勢力には吉田松陰や久坂玄瑞らも同様に排除しようとしました。幕末以来に、新選組を含めてどちらの側にいても、排除する手段として暗殺が行われてきたといってもよいでしょう。その悪しき伝統が戦前戦後にまで続きます。

 最近では明治の偉業をこの暗殺者がなした業として否定する意見も聞かれます。会津の人間も許されて明治になって貢献した歴史もあることから、一面的にとらえてはなりません。


 阿月・柳井市を訪ねたときに、赤禰武人はここの克己堂で教鞭をとっていました。屋敷跡の石碑もあります。しかしその墓もあるということで山道を探りましたが、整備されてはおらず、見つけることはできませんでした。いまだに地元でも裏切り者の汚名ははれていないのでしょうか? 
 彼は攘夷戦である下関戦争で最後まで戦ったという記録がア-ネスト・サトウの文にあるといいます。 山県有朋には、その戦いで最初に逃げたとかも言われて、その後に幕府と通じた疑いをはらせませんでした。山県有朋とは確執があったらしく、明治になってからの復権も彼が執拗に妨げたと言われています。晋作は死ぬ間際に赤禰武人のことを悔やんだ。


 幕府側についた人間でも明治になって政府側で活躍した人はいます。 赤禰武人もせめて蟄居で殺さずにおいてくれれば相当の活躍をしたでしょう。 敵対勢力の生存まで奪うことはやめたいものです。続いていますが。


訪れた阿月にある屋敷跡


 略歴


 長州柱島で生誕、15歳で月性の清狂草堂、浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。短期間であるが松下村塾に学ぶ。梅田雲浜の望南塾、安政の大獄で雲浜が逮捕されると同じく捕らわれる。釈放され藩より謹慎処分。謹慎を解かれると高杉晋作らと英国公使館焼き討ちに加わる。攘夷戦の下関戦争に加わる。奇兵隊の第3代総督に就任。第1次長州戦争後に俗論派と諸隊との融和を図る政策で高杉と対立する。功山寺挙兵で晋作が藩論を統一。裏切りの嫌疑を受けて処刑された。


    2016-12-29

 

 

 

 

 

     佐久間大学

 

  高校のクラブに同姓の同級生がいました。その時は佐久間氏に縁続きと聞いた覚えがありますが、卒業以来会ってないので、確かめようのない話です。
 第2次長州戦争・大島口の戦いにおいて、佐久間大学が松山藩士として出兵した。その周防大島の清水峠の戦いで、敗走する松山藩兵の中、少数の手勢を率いて、第2奇兵隊の前に立ちふさがい獅子奮迅の戦いで戦死した。 信長に追放された佐久間信盛の子孫といいます。 あの追放された佐久間氏がこんなところで登場したので、興味をもち調べました。

 佐久間氏は桓武平氏、三浦氏の流れをくみ、鎌倉幕府に仕えていたが、承久の乱の功績により、千葉県勝浦市御宿と名古屋市昭和区御器所(ごきそ)を賜りそこに子孫が定住した。織田信長の時代となり尾張佐久間氏は盛重と信盛が重臣として仕える。

 盛重は桶狭間の戦いで丸根砦陥落で戦死した。その系統で柴田勝家についた佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いで奮戦したが死亡。この盛重系統で信濃飯山藩3万石、信濃長沼藩1万8千石となるも断絶した。養子は旗本として残った模様。

 追放された信盛は、その子・信栄が父死亡したあとで赦される。織田信忠と信雄に仕え、信雄改易後に茶人として秀吉に仕える。大坂の陣後は徳川秀忠に仕え3000石を与えられる。信栄には2男7女があり、息子2人は先立たれた。弟の信実が継ぎ関ケ原で東軍に従軍、上総に1000石をもらうが兄より先に死亡。養子をむかえ旗本として存続した。 松山藩の佐久間氏は娘の家系でしょうか? 不明です。 佐久間象山も縁続きといいますがこれも不明です。



      2016-1-7

 

 

     

 

           幕末の四兄弟

 

左から、松平定敬・桑名藩、松平容保・会津藩、一橋茂栄・一橋家、徳川慶勝・尾張藩

 

左から、松平定敬・桑名藩、松平容保・会津藩、一橋茂栄・一橋家、徳川慶勝・尾張藩

 明治11年に撮った写真が上載のものです。有名な会津藩主松平容保をはじめいずれも幕末に活躍した。 その父は美濃高須藩主の松平義建(よしたつ)である。彼は、父・義和(よしなり)が水戸藩のは部屋住みであったが高須藩に養子として入った。高須藩は尾張藩の連枝の藩で水戸藩や一橋家ともうごっちゃまぜであります。義建は10男を成しており詳細は

 長男:源之助 1820年生、夭折
 次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子
 三男:武成 浜田藩越智松平家養子
 四男:整三郎 1826年生、夭折
 五男:茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)
 六男:某 戊辰戦争で切腹
 七男:容保 会津藩会津松平家養子
 八男:定敬 桑名藩久松松平家養子
 九男:鐡丸 1849年生、夭折
 十男:義勇 高須藩主

 1. 徳川慶勝
 尾張14代藩主になり尊王攘夷を主張して安政の大獄で隠居謹慎を命じられる。弟の茂徳が15代藩主となった。桜田門外の変により復権し弟が隠居して、実子の義宜が16代藩主となり、慶勝は実権をにぎる。第1次長州征討の総督となる。内乱による外国干渉を慶勝は大いに危惧することから長州への寛大な処置をとった。長州への再征にも反対する。 鳥羽伏見の戦いのあと、500もの朝廷への帰順を誓約する書面を送りそれを受け取る。そのことで朝廷軍は江戸上洛を戦争することなく成し遂げる。明治への態勢を決めた最大の功労者といえるが、あまり知られていないようだ。

 2. 徳川茂徳(もちなが)茂栄(もちはる)
  高須藩11代藩主となる。兄慶勝の隠居謹慎で尾張15代藩主となった。兄慶勝の子を養子としていたので、隠居後はその義宜が16代藩主となる。15代将軍慶喜に代わって一橋家当主を継承して茂栄(もちはる)となった。徳川一族の総代的な役割で新政府と交渉にあたる。

 3. 松平容保 
 義和の子に、義建・高須藩主と容敬(かたたか)会津藩主がいた。義建の子容保と容敬の娘を結婚させ、養嗣子とした。会津藩9代藩主となる。京都守護職になった、これ以降幕末で活躍する。

 4. 松平定敬(さだあき)
 桑名藩主松平 定猷(まつだいら さだみち)の娘の婿養子となる。1863年京都所司代になった。禁門の変では兄容保と協力して京都を守る。鳥羽伏見の戦い後は謹慎した。藩論が恭順になり、桑名への帰国がかなわず、飛び地の柏崎にうつる。その後、会津で兄容保と再会し仙台より榎本の艦隊で函館へ渡った。函館戦争終結後上海に渡るが、逃亡を断念して明治2年に降伏して5年に赦される。西南戦争では元藩士を率いて遠征した。

          2017-1-22

  追記

  我が竜馬の暗殺に関与した犯人として七男:容保 会津藩会津松平家養子と 八男:定敬 桑名藩久松松平家養子が今では語られています。

 

 

 

 

    折敷畑合戦(おしきばた)

 

 

  折敷畑古戦場に3日間かかり行きました。 初めは自転車で、東側の速谷神社の方へ行ったようです、見つからずに断念。 翌日に観光課に聞きに行き、下図のような地図をもらいました。バスでの行き方を訪ねましたが、担当者は行ったことがないとのことで、教えてもらえませんでした。
 3日目も自転車でめざしました。専念寺までたどりつきましたが、徐々に坂道の登りになってきたので、 しばらく行ってJR宮内串戸駅まで戻り、そこからタクシ-に乗る。折敷畑山のふもとで、3人ほどの住人に尋ねて、やっと登山道入り口につきました。しめて3300円也です。 まだここまでは良かった。


 JR宮内串戸駅よりの地図

 登山道入り口

  登山道入り口 プレ-ト

   案内プレ-ト

  いよいよ白いプレ-トの案内板の矢印の方向へ登山開始です。 徒歩1時間とのことですが、まあ、大変、ほとんど訪れる人がいないのか、登山道はまったくメンテナンスがされておりません。倒木があちこち道を塞いでいますし、草が自由に茂って邪魔します。山刀でジャングルのように斬り刻んで進みたいほどです。案内板の方向表示に間違いがあれば迷ってしまいますが、これは幸いにも正しかった。それでもこちらが見間違えたことがあり、行けども、行けどもおかしいと感じ引き帰したことがあった。途中で枝を拾い杖にして、登り下りに支えとしました(これは非常に役立つ)。 途中で鎖が道に沿って50mほど敷設してあるところがあります、急な所なのでこれを掴んでなければ上り降り出来ないところもあった。 目的地(8合目)近くになると、日ごろ使っていない骨が痛み筋肉がツリそうになる、息が切れるので10m行っては深呼吸で休息する、この繰り返しでやっと到着しました。桜尾城を望むところへの案内板があり、そこに行ったみたが、 木が生い茂って視界をさえぎりはっきりと城跡(桂公園)を見ることができませんでした。

  倒木が道を塞ぐ
 

   8合目にある 宮川甲斐守陣地跡

  はるか厳島を望む



  折敷畑の戦いとは、 1551年に大内義隆が重臣・陶晴賢らによる謀反により討たれた時に、毛利氏は大内氏に従属していた。その時に、石見国津和野の吉見正頼(源範頼の子孫)は陶氏に挙兵した。毛利氏は大内氏を離れ離反・独立を図った。 陶氏の家臣・宮川房長は毛利氏と戦うべき桜尾城を見下ろせる折敷畑山に布陣した。桜尾城から出陣した毛利軍は3方向に分かれて急襲して倍近い敵兵を撃破した。 厳島の戦いの1年前でその前哨戦ともいわれる。


 2枚の地図 歴史群像より


  急峻になっている尾根道を歩くところから、風の強いことが予想されるときには、飛ばされないように注意が必要です。行きに2時間帰りは1時間ですが、帰りとて楽ではありません。帰りは4季の丘団地へ下る道を選びました。幅50cmで急な崖路を下るところがあり、滑落したら命の危険があります。携帯を持たなかったり、通じなかったり、単独であるなら、月に1人くらいしか通行する人がいないようなところなので、助けを求めることは絶望です。数年前に広島で大雨後の土石流の事故があったのを憶えていますが、その土石流が流れた水路のような急な下り道を降りてくるには、1歩1歩杖で支えて降りるほかなく、落ち葉の貯まった道を滑べらないように降りる必要があります。

 落ち葉で滑りやすい下り道

 無事に四季が丘小学校の横に下ることができました。そこから15分ほどでバス停があり、帰ることができました。 わかりにくいが、ここからの往復する登山路を選択すると、四紀が丘行バスが使えます。でもあの50cmの崖道を2度通る気にはなりませんが。

 四季小学校近くの登山道標識


 老婆心からの 登山注意点
1. 雨天の日または翌日は避ける。 すべりやすいので。
2. 7-8m以上の風の吹く日は避ける。
3. スパイク靴、登山靴など滑りにくい靴を用意する。
4. 杖と軍手を用意する。 ロ-プやピッケルを用意できればさらに良い。



    2017-2-24


 

 

 

 

 

        厳島の合戦場 を訪ねて  
 

   日本三大奇襲のひとつと言われる厳島・宮島に行ってきました。他は桶狭間と川越夜戦とのことです。

 ヨットで行く予定でしたが、おまけに係留地の近くにも拘わらず、病み上がりなので、今回は観光客と同じく広電とフェリ-で行くことになりました。

 前年に折敷畑の合戦で毛利氏は陶氏に前哨戦で勝利した。毛利元就は厳島の合戦に陶晴賢を破り、これを契機に中国地方の大大名になる。陶晴賢の墓は廿日市の洞雲寺にあります。

 両軍の動き  歴史群像より

 毛利軍の厳島への行軍進路 歴史群像より

 さて、広電阿名東で下車して広島方向に戻ると2-3分で火立岩跡・毛利軍出発の地・乗船地の標識がある。天気が悪化している雨の夜にここから毛利軍は乗船して、陶軍の背後の地・包ヶ浦に向かった。

 

 火立岩跡  それらしい岩は見当たらない

 

 宮島口で広電を下車、すぐフェリ-に乗って厳島で下船。目の前に岡・要害山がある。そこに毛利が設けた宮尾城で籠城して陶軍を迎え撃った。

 

 

要害山は小高い丘のように見えるが崖が際立つ宮尾城跡

 

 陶軍はすぐ近くの塔の丘に大軍で本陣を構えて対陣した。 宮尾城から塔の丘を望むと、今では五重塔が立っている。

豊臣秀吉が建造して未完の千畳閣もある。

 

 

 塔の丘にある五重の塔 豊国神社

 

 千畳閣 秀吉未完の建物・重要文化財


 その内部 秀吉死去で未完ゆえ壁がない。

 要害山を登り、すぐのフェリ-乗り場前広場からタクシ-で上陸地の包ヶ浦へ向かう。ここで毛利元就は乗ってきた船を返した。背水の陣で陶軍に立ち向かう。  

 今はキャンプなどを楽しむ自然公園になっていた。

 帰りのバス便が少ないので、時間があり、予定外で毛利軍の山越えのル-トを歩くことになった。遊歩道が出来ており、 整備が今までに経験したものより比較的良い状態であったので、老人でも1時間半で登ることができた。

 

 毛利軍上陸地・包ヶ浦

 包ヶ浦自然遊歩道入り口  ロ-プウエイのもみじ谷に向かう

 比較的整備されている遊歩道

 頂上の博奕尾(ばくちお)案内板

 

 毛利軍の急襲で油断していた陶軍は総崩れになった。陶晴賢は打ち取られる。

 お約束どおりの雨天の日、散策することになった。

 

 厳島神社  干潮時

 

   2017-6-4 

 

 

 

 

 

 

 

     四境の役  芸州口の合戦 

        和木を訪ねて    

 

  第2次長州征伐の戦いで、四境の役のひとつ大島口の戦いはここで書きました。この戦いで大島より撤退した幕府歩兵2個大隊は芸備口の戦いに参戦した。4つの方面の戦いでこの芸州口の戦いが主戦場であった。

 1. 大島口の戦い 1866年6月7日-6月17日  幕府軍2万vs長州軍千人  世良修蔵の指揮

 2. 芸州口の戦い 同年 6月13日-6月19日 幕府軍5万vs長州軍2千人  引き分け

 3. 石州口の戦い 同年 6月15日-6月17日  幕府軍3万vs長州軍千人  大村益次郎指揮

 4. 小倉口の戦い 同年 6月17日-8月1日  幕府軍5万vs長州軍千人  高杉晋作指揮

 広島城に集結した幕府軍は、彦根藩、高田藩、紀伊藩、与板藩など3万の軍勢に達していました。赤揃えの彦根藩が先鋒として小瀬川の大和橋付近に布陣した。

 JR和木駅から徒歩10分くらいで小瀬川にかかる大和橋に行ける。この小瀬川は安芸の国と周防の国との国境をなすものである。ここで彦根藩の使者・竹原七朗平が川を渡っているところを長州に銃撃され戦死した。その渡河地点に石碑がある。

 

 竹原七朗平の石碑と渡河場所

 

現在の大和橋  大竹側から和木の長州川を望む

 

 その銃撃とともに戦闘が開始された。川辺にある小高い山に瀬田八幡宮があり、絶好の砲撃ポイントであり、ここから大砲が打たれました。

 この神社は平清盛のころには海岸が迫り柏崎といわれ彼の歌碑がある。

 

 大和橋を望む、砲撃には良い拠点

 

 

 

 彦根藩兵は長州兵の少数ながらも最新のミニエ-銃で攻撃され敗走した。 この小瀬川より幕府軍の侵入を妨げたことにより、ここに封境の地の石碑が建つ。

 

 ミニエ-銃 命中率や射程が優れていた。

 

 封境之地の石碑  対岸は現在の大竹市

 長州軍は玖波まで進軍してそこで戦線は膠着して、9月2日に勝海舟を派遣して宮島の大願寺で停戦した。

 

   厳島神社の隣にある大願寺

 

  蜂が峰総合公園には四境の役・芸州口の戦いが展示されていた。 お約束のように今回もまた、そこへ行くまでの山登りとなった。

午前中はバス1便しかなく、時間をよく調べていくことが必要です。

 

   和木町歴史資料館 2階展示室

 

   2017-6-6







   毛利元就の調略  厳島の合戦における

 

 折敷畑の合戦後の毛利氏周辺図

 


 毛利元就の厳島の合戦における勝利は、奇襲といえども天運が味方したものではない。厳島に陶氏の本軍を誘引して、元就はそこでしか勝てない状況に持ち込んだことで、軍勢の劣る毛利は勝利できました。

 毛利の調略


1. 尼子氏へ
 
尼子氏の柱石ともいわれた新宮党の国久と誠久親子を誅殺させて取り除く。陶氏と尼子氏は折敷畑の合戦に連携して毛利を討つ計画があった。毛利は尼子に敵対する三村氏を支援して尼子への牽制に成功する。


2. 少弐氏へ
 少弐氏へ肥前から豊前と筑前への攻撃を促す。


3.来島水軍へ
 村上通康と婚姻関係を結び来島村上氏の水軍勢力を力にすることができた。

 

 

4.陶氏へ内通工作
  陶氏家臣の江良房栄へ内応工作しそれを発覚させることにより討たせた。

5. 偽装内通
 桜尾城主の桂元澄の内通の文書を陶氏に送る。

 以上のような様々な調略で、元就は南北西方と周りの領国に手を打ちましたが、それだけでは陶氏に勝てるわけではありません。兵力が少ない毛利氏にとって敵の兵力を分散させ、その虚ををついてこちらの兵力を集中して勝つしか手段がないわけです。 それゆえに、「厳島を取られたら毛利には勝ち目はない」という虚報をわざと知らせます。見事に陶軍の厳島への誘引が成功して、本土側を侵攻する部隊と厳島に押し寄せた主力に分断させた。


 また少数の軍が大軍に勝ためには敵の大将を討ち取るしかありません。暴風雨を押して夜陰に厳島に上陸した毛利軍は山越えの奇襲作戦で陶軍を混乱させ、島ゆえに逃げ場のない大将陶晴賢を討ち取りました。 宮尾城で足止めしていた陶軍を後詰め決戦の戦術となり打ち破りました。

 元就は味方を鼓舞するために、この戦いでも包ヶ浦に上陸した時に、獣道から下りてきた鹿を見つけて、「天命が幸運の鹿でわが軍を導く」とか博奕尾の山頂に来た時は「もう博奕に勝ったようなものだ」とか細やかに発言した逸話が伝わっています。吉田郡山の山間部の地方豪族から中国の大大名になった元就ですので、知略にはすごいものがあります。子供たちにはそれは受け継がれなくて関ケ原に敗れて2か国の大名になってしまいます。

    2017-6-15

 



 
   司馬遼太郎で学ぶ日本史  磯田道史


 

 司馬遼太郎さんを偲ぶ「菜の花を題した会合」が奥さんの主催で年に1回行われています。その会合に参加した時に、友人を会場の入り口で長い時間待っていて、小生は訪れる人々を眺めていました。ここに参加する人は、老人ばかりで若い人や中年の人も驚くほど少数です。ああ時代は終わったのだと感慨を持ちました。司馬さんの本はほとんど読んだとは言わずに目をとおしたのですが、亡くなられた今では新作が出るわけでは無いのでまとめ的な本になってしまいます。出版社の糊口をしのぐ香りさえ感じます。 BSNHKで英雄の選択という、好きな番組でおなじみの磯田さんが「司馬さんで学ぶ日本史」という本を出された。新しい視点で掘り下げてくれればありがたいことです。

  磯田さんのこの本をだしたねらいとは  ハフポストによる

僕は『司馬遼太郎に学ぶ日本史』ではなくて、司馬遼太郎を入り口に日本史を学ぶということで、『司馬遼太郎で学ぶ日本史』を書いたわけです。

   2017-8-24

 

 

 

 

     革命の3段階など  磯田道史さんによる

 

  名古屋で青年期まで育ったので、秋に行われる「名古屋まつり」を見に栄町によく行ったものです。そのお祭りには郷土の3英傑ということで信長・秀吉・家康(尾張でなく三河の出)のパレ-ドがあります。誰それが今年は信長役をやったのだと話題にのぼります。 残念なことにそれは、歴史のある街の重厚なパレ-ドとは違い、戦後生まれのモダン住宅のような印象の祭りです。最近は見ていないの変わったかもしれませんが。

 さて、革命の三段階ですが....日本史のなかの重要な変革期・戦国と幕末は似たような段階を踏みます。 信長は「天下布武」、すなわち武力で天下を治める政権を打ち立て、中央政権によって日本をくまなく従属させるという思想を生み出しますが、これが幕末の松陰の段階に対応します。それを柔軟な思考でもって実行するのが秀吉で、高杉の第2段階にあたる。最後に現実家の家康がそれを治めていくという形で、山県の最終段階に至ります。
 

  段階            戦国       幕末
1. 新しい価値の創造者     信長  /     吉田松陰
  予言者・思想家
2.実行者 ・戦略家  
 技術者          秀吉 /  西郷隆盛、高杉晋作、大村益次郎

3.その果実を受け取る権力者   家康  /     山県有朋
  そして腐敗が始まる

  変革の指導者のこと


 塩野七生さんが「ギリシャ人の物語 Ⅱ」で「政体がどうかわろうと、王政、貴族政、民主政,共産政と変わろうと、今日に至るまで人類は、指導者を必要としない政体を発明していない」と述べています。
信長・秀吉・家康は大きな違いを持っていましたが、それぞれの個性が後の日本、今日につながる日本人の精神性に影響を及ぼした。
 信長ですが、
 指導者のリーダ-シップに欠かせない要素が、「無私の精神」つまり自分を勘定に入れない客観性です。しかしこれは共感性や情緒の欠如をもたらす。それがないのは「いびつ」な人間と言えますが、そのような人物でなくして、合理性を失った日本社会を変革できないのです。残酷な信長でなければ、戦国期の日本を変えられなかった。比叡山の焼き討ち、本願寺門徒のせん滅無くしては、宗教勢力からの影響を現在に至るまで断つことにならなかったでしょう。

  主君への忠義


 日本人のあり方の二つの側面がある。ひとつは、合理的で明るいリアリズムを持った、何事にもとらわれない正の一面。もう一つは、権力が過度の忠誠心を下の者に要求し、上意下達で動くという負の一面。
 江戸幕府の「頭」の部分が、よく似た権力構造である「天皇」にかわり、明治政府が発足した。日本軍は天皇への責任、上の方向への責任は非常に強かった。日本は特攻攻撃を国家が組織的に行うけれど、しかしながら、下の方向への責任、住民や部下に対する責任をとった大将は少ない。

    2017-8-26


 

 

   関ケ原合戦 通説打破

 

司馬遼太郎原作、監督・脚本:原田真人

 映画・関ケ原を見てきました。お金をかけた映画とは思えど、特段の感動を得ませんでしたのでスル-するつもりでした。 しかし、歴史群像の10月号でこれを取り上げています。新しい解釈があるようですので、書いています。

 その雑誌による、白峰旬さんによる通説打破ということで、紹介します。 明治になりドイツのメッケルが参謀演習を行い、関ヶ原の布陣図を見て即座に西軍勝利を述べたということを司馬さんの本で読みました。

 通説の布陣図

 関ケ原合戦の説話や名場面は後世の江戸時代の2次資料によっているもので、同時代の1次資料では確認できない。白峰さんは良質な1次資料から新しい関ケ原を構築された。(歴史群像10月号より)あらましを紹介します。


 岐阜城と大垣城の石田方と清州城の家康方が対陣する。三法師が成長して織田信秀となり13万石の岐阜城主となった。その岐阜城は1日で落城した。それで家康方は7万で大垣城を包囲した。劣勢2万の石田方は毛利氏に後詰めを要求する。江戸に居た家康は3万2千を率いて西上する。伊勢にいた毛利勢1万5千が大垣西方の南宮山に後詰めとして布陣した。石田方はこれで3万5千になったが、劣勢であった。
 家康は清州城から美濃赤坂に着陣する。

上図は歴史群像より

 毛利勢は家康の大軍の出現に危機感を抱く、かねてより内応していた吉川広家が南宮山の毛利勢への攻撃中止の工作(命乞い)を行う。
 石田方の大垣籠城衆は南宮山攻撃した徳川勢を横から挟撃する意図があったと思われる。結果的には関ケ原・山中への転進となる。小早川勢の家康内応を知り後方遮断を恐れたからともいう。
 南宮山への攻撃を回避した家康勢は石田方本隊への攻撃に作戦を変更。

  両軍布陣図  歴史群像より

 今まで言われていた布陣より松尾山近くの山中での対戦となった。 小早川は初戦から寝返って参戦しており、大谷吉継は孤立していた。 開戦まもなく家康と小早川に挟撃され大谷隊は壊滅した。 石田方は早朝に山中に到着、すぐさま追撃戦の様相で家康方より攻撃を受けて、午前10時ごろには崩れて潰走した。

 通説の布陣を見て、家康の本陣が南宮山の麓前方に本陣を置くのを奇妙に思っていました。 毛利勢が降伏に近い方で動かないのなら納得がいきます。 石田方は清州を落とせなかったことにより劣勢になりそのまま関ケ原で立て直せずに敗戦したのが実情でしょう。20万ともいわれた石田方も戦力の集中ができなかったのが敗戦の原因ともいえます。

    2017-9-11

 

 

 

 

   マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令


マリア・ルス号

 この年になっても、小学生の時に見たテレビのニュ-スを覚えているものである。それはその年齢の子供には何を意味したのか分からない赤線廃止を伝える報道でした。映像で写っていた子供がなぜか塀ごしに中をのぞき見しているものでした。           
 人間の最古の職業といわれるお仕事ですので、今もその遊郭の雰囲気を残して自由恋愛と称して営業している店が関西にあるという。
 面白いことに、芸娼妓解放令は、明治5年(1872年)に日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして、大江卓を裁判長とする特設裁判所は解放を命じた事件を契機としていた。
 ペル-政府はこの事件に関して謝罪と賠償を要求した。この紛争解決のために仲裁契約が結ばれて、ロシアにおいて国際仲裁裁判が行われた。全権公使として榎本武揚が選ばれ、その法廷で、明治8年(1875年)日本側の措置は国際法にも条約にも違反せずとの判決が下された。
 明治の体制がまだ整わない中で、よくできた維新政府の英断である。しかしその中で日本の芸娼妓の問題はどうなのか?と追及された。政府は明治5年(1872年)太政官布告・芸娼妓解放令を発した。それは人身売買は禁止だが、売春そのものは禁止でなかったため、昭和32年の売春防止法・赤線廃止まで続くことになる。

吉原遊郭

 最近では児童買春の報道がやたらと多いように思います。オランダやドイツでは飾り窓で堂々と営業しているところもあります。国が変われば価値観が違うようです。


 話が前後するが、第1次大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会で、日本は人種差別撤廃を明記すべきと提案した。マリア・ルス号事件ともども日本は国際的に主張して発展させることができなかったのは、その後に大きな災いを避けられたかもと思います。後付けの言い方ですね。残念なことではあるが。

   2017-10-11

 

 

 

 

 

    広沢真臣   ひろさわさねおみ

 

 1834-1871

 章典禄は、明治維新の功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。
主な大名と公家以外の受禄者を下記にあげる。


西郷隆盛  2000石
大久保利通、木戸孝允、広沢真臣   1800石
大村益次郎   1500石
板垣退助、小松帯刀、吉井友実、伊地知正治、岩下方平、後藤象二郎  1000石
大山綱良、由利公正      800石
黒田清隆    700石
山県有朋、前原一誠、山田顕義     600石
木梨精一郎、寺島秋介、河田佐久馬、渡辺清、前山精一郎   450石
福岡孝弟     400石
西園寺公望(公卿)、西郷従道、北郷久信    300石
桂太郎      250石
桐野利秋、岩村高俊、船越衛       200石
中牟田倉之助、曾我祐準、山地元治    150石
土方久元、江藤新平、島義勇    100石
谷干城 、前田正之      80石
青山朗      35石
村口村吉    10石
別府晋介、池上四郎、篠原国幹、高城七之丞   8石

  上のリストの中で上位に広沢真臣がいることです。大村益次郎よりも禄が多い。浅学な小生には,大河ドラマや歴史小説でも彼を見たり読んだりしたなじみがありません。彼に興味を持ちました。


 広沢真臣は明治4年に暗殺された。犯人は不明である。1864年禁門の変後には野山獄に投じられます。高杉晋作の功山寺挙兵の後で獄から出された。四境戦争では勝海舟と藩を代表して休戦講和を結ぶ。 100石どりの上級武士なので藩政の中心にいたのでしょう。明治維新後には参議に任じられて新政府の中心になる。長州の藩を代表する人物としてその地位になったのか? 薩摩の西郷や大久保にあたる長州の木戸と広沢だが、世に知られていない。記録も少ないので調べてみても、よくわからず。 性格は温厚で亡き後に、病がちな木戸が後を託す広沢を失い大いに悲しんだという。 前原一誠と仲が良かったというが、前原も暗殺事件のときに銃撃を受けた。彼が生きていれば前原の乱も無かったかもしれない。

  2017-10-15



 

 

    広沢真臣暗殺裁判と陪審制度

 

横浜陪審法廷 桐蔭学園に移築, 他に現存するのは京都地裁から立命館大に移されたもの2つのみという。

 

 1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)までの間、刑事事件で陪審制が行われた。

 明治初期には例外もあり、広沢真臣暗殺事件で愛人福井カネと家令の起田正一を拷問により自白に追い込み犯人として起訴した。この事件は日本史上初となる陪審員裁判が行われ、その判決は証拠の無い自白のみであったので無罪となった。
 明治憲法発布前の明治の初期であったので陪審裁判がおこなわれたのであろう。

 犯行時に広沢とカネは同衾中であったとのに、証言がアイマイで疑われることになった。カネは愛情豊か?であったのか邸内の数人とも交わしたという。 現在でも自白中心の証拠で起訴され裁判が行われている。明治初期からの伝統であるのか?是正が必要ですね。起訴されたら99パ-セントの有罪率もおかしい。

 

 

  法務省の陪審裁判の説明

   http://www.moj.go.jp/keiji1/saibanin_koho_gallery02.html


     2017-10-27
 






        辻将曹・維岳 

   芸州藩の大政奉還建白書提出、植田乙次郎

 1823-94

 

 ヨットを広島に置くようになってから1年余になります。その間にカ-プが2度も優勝する。そのおかげで、なじみのスパが感謝セ-ルをして、露天風呂が無料になり、ささやかな恩恵を被っています。広島は小生の数ある第2の故郷の一つとなりつつあります。
 龍馬暗殺に関する雑誌の記事に、大政奉還後に会津・桑名藩が元に戻すべき行動を起こしたと有ります。両藩が作った暗殺者リストの中に龍馬があり、それは残念・不幸にも実行された。薩摩の西郷、大久保、小松はそのことを知り急遽帰国して難をまぬがれた。また、芸州藩のリストに辻将曹と植田乙次郎があげられている。両者とも知らない人物だったので興味を持ちました。芸州藩の大政奉還建議があったのも驚きです。

 辻将曹は明治2年に永世禄400石を賜った。新政府の参与となったが明治3年に政府の職を辞任した後は政府の中枢にすえられることはなかった。そのせいか、彼は世に余り知られていない。
 辻将曹の祖先は、田中吉政に仕えた辻重勝が関ケ原戦いで東軍に属し、石田三成配下の杉江勘兵衛を討ち取っている。田中家が断絶のあとに浅野家に仕えた。 辻将曹は一二〇〇石の家督を継承する。上級武士である。彼は藩内の改革派であったが失敗続きであった。藩主が浅野長訓になった時に、家老・執政として抜擢され藩政改革を行う。

 芸州は関ケ原の後に福島正則が入封する。ほどなく転封されて浅野氏が入った。豊臣政権で五奉行の要職を務めた浅野長政の続きで、外様であるが将軍家とは婚儀を結んでいる。徳川家から信頼されて要所をまかされた芸州藩であるが、長州攻めの先鋒を拒否して、幕府側につくことはなかった。 藩の参政をしていた辻将曹は幕府から目を付けられ謹慎を命じられている。ほどなく許されて彼は第二次長州戦争の和平交渉を勝海舟と行う。後に、辻将曹は勝に周旋の才をほめられている。辻将曹は和議後に起きた討幕の気運に同調して薩長芸の討幕3藩同盟に参加した。

 土佐藩が大政奉還の建白書を提出した翌日には、芸州藩も続いて提出する。土佐藩は幕府を支えるのが目的であるが、芸州のは拒否されれば討幕すればよいとのものだった。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩の独断専行・突出として芸州藩は兵を出さなかった。結果的には日和見行動と見なされて、後に参加した土佐や佐賀の後塵をあびることになる。薩長芸の藩閥政治が維新後に起きてもおかしくないほどの芸州藩の位置であった。

 明治23年にもなると明治は落ち着いて見直す気分になったのでしょう。辻将曹は元老院議員に任じられ男爵に叙され華族となる。 彼は薩摩と土佐の意見が対立したときに、土佐の後藤象二郎らをなだめて討幕の方向にまとめた功績があったが、彼は維新後にはきらびやかな役職につくこともなく、困窮する士族の授産事業をすすめた。

   植田乙次郎  1825-1893

 幕末の安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により文久3(1863)年武具奉行,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,元治1(1864)年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。慶応2(1866)年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。翌3年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,山陽道の旧幕領の接収に当たった。

2017-11-19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

       

 

 

 

   

   御手洗(みたらい)

 

  


 

江戸時代の高灯篭


 帆船の時代に来島海峡や鼻栗瀬戸などの潮待、諸風を防ぐ地理的条件を備えたところから天然の良港として栄えた。
 地名の由来は神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗った伝説や菅原道真が太宰府に左遷されたときに手を洗ったという伝承から名がついたといわれています。
文政二年・一八一九年には中国第一の港と自負するほど発展した。

菅公手洗いの井戸


 帆船から蒸気船の時代になり繁栄していた御手洗は衰えて江戸時代の街並みが残った。

町並み保存地区


 船乗りが集まれば芸州藩お墨付きの施設も繁栄する。4軒の茶屋があり、「おちょろ船」といって沖待ちしている船に出向いて営業することもあった。

若胡子屋 広島藩から免許をもらったお茶屋 100人の遊女がいたという




一夜の契りでも遊女にお歯黒をつけさせて女房気取りで結ぶのは男の甲斐性であった。これには莫大なお金がかかりました。
 ある日花魁がお歯黒をつけにくくて癇癪をおこして、そばにいた禿(カムロ)の口に投げつけて殺してしまいました。その亡霊が毎夜現をれて花魁を苦しめた。花魁は四国の遍路をしてつぐなったという。

お歯黒事件の壁 お歯黒の手形がにじんでうかびあがるという

 


船宿 大洲藩

乙女座 これは昭和初期の復元

 

 

満舟寺の石垣 戦国時代の石垣で海賊の施設跡ではないかと言われている
加藤清正の四国攻めの前線基地ともいわれる



船宿 薩摩藩

 1863年に芸州藩は薩摩と密貿易をしていてその拠点港となる。幕末には七卿落ちで滞在した家が残っています。 吉田松陰が長崎にいくときに立ち寄り、薩長芸の討幕同盟がむすばれると大阪での討幕行動の密約といわれる「御手洗条約」がここで交わされる。 


七卿落遺跡

金子邸  ここで密約したという


   2017-12-24

 

 

 

 

 

   中村春吉  世界一周自転車無銭旅行


 御手洗の町を見ている際に中村春吉のことを知ることになりました。

 チベット旅行記の川口慧海や<ins><a href="http://hayame.net/custom32.html#spb-bookmark-20" target="_blank">石光真貴清</a></ins>の自伝は感動して読みました。彼は自伝でも残してくれたら良かったのに。まだまだ知らない偉人がいるものです。

 明治4年御手洗に生まれる。明治26年にハワイに移住し30年帰国。英語塾を開くが閉鎖した。明治35年31歳で自転車により世界1周無銭旅行にでる。横浜-シンガポ-ル-ビルマ-インド-イタリア-仏-英-米を旅して翌年帰国する。そのご霊動法という精神的医術の普及に努める。昭和3年に御手洗に帰る。昭和20年74歳永眠。

 





中村春吉の碑


   2017-12-24

 

 

 

 

      岩城島

 

  


高速艇 今治-岩城-弓削-因島・土生など島々を結ぶ

 弓削から320円で高速船に乗り岩城島に着きました。現在はフェリ-で行く孤島ですが平成30年代前半には「ゆめしま海道」とつながる架橋工事がおこなわれている。

 さっそく自転車を借りて島を回りました。レモンの島とも云われ青いレモンが有名です、春には桜の名所でもある。村上海賊の砦・亀山城や甘崎城の支城と言われる岩城新城といわれる城跡も見た。

温泉ホテルと造船所の宿泊施設

 

わき海の駅  冬の季節風を防ぐには良い係留場


 江戸時代には伊予松山藩の島本陣が置かれていた。現在は岩城郷土館として見ることができます。

 

岩城郷士館

 

邸内1


邸内2




岩城造船 他にも3社があり


 今回は冬で見られませんでしたが、桜の季節には積善山に3千本の桜が見られるという名所がある。




    2018-1-2

 

 

     佐島と生名島   

 

   弓削島よりレンタサイクルで佐島と生名島を廻ってみました。ゆめしま海道が弓削大橋と生名橋で弓削・佐島・生名の3島をつないでいます。岩城島への架橋工事も始まっています。この3島と岩城島は愛媛県上島町の行政区域になります。



弓削大橋

佐島港と生名橋

岩城島への架橋工事現場


 佐島は30分もすれば1周できます。港近くでの売店でパンの日の看板を目にしました。週に何日かパンが販売されるようです。隣の弓削に行けばス-パ-もコンビニもありますから、不便はないでしょう。

 生名橋を渡れば生名島です。車の人はこの島よりフェリ-で因島に渡るのが順路です。因島には大手の造船所がありお勤め人はそちらへ向かっているようです。

麻生イト

 生名島には郷土の偉人が2人います。一人は女傑で麻生イトです。造船関連で財を成して、地元に幼稚園や公共のために還元しました。映画「悪名」で実名で描かれているそうです。晩年は生名に家を建てて過ごし、そこが三秀園として公園になっています。





三秀園

 もう一人は海員組合を作った浜田国太郎です。海父と呼ばれて銅像が建てられて、
それは戦時中に撤去供出されたが昨年再建されました。



山頂に浜田国太郎の彫像が見える。

    2018-1-4

 

 

 

 

     人名政 (にんみょうせい)



 ヨットで与島を再訪した。そこは今では瀬戸大橋で架橋され本四がつながっています。その橋げたのような小さな与島です。徒歩で一周する。「人名(にんみょう)」の石碑を見つけました。それを説明するものはありません。「人名」とは何でしょう。

 


与島人名の碑

 

塩飽列島  赤点は「人名政」のあった浦々

塩飽勤番所


 塩飽諸島は本島、広島、与島、手島、佐柳島、高見島、牛島、櫃石島 、沙耶島、瀬居島などからなる。現在は埋め立てられて坂出の一部になっている島もある。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

年寄の墓

 耕地面積は狭く米作は少数で麦作であった。 また、付近の漁業権も許されたが、漁業に従事するものは少なかった。 川村瑞賢の西回り航路(1672年)の開拓により塩飽衆は一手にその輸送を担い繁盛したが、「菜の花沖」の高田屋嘉平のような廻船問屋に押されて廻船業は衰退していった。しかし船大工の技術が優秀であったのでその後は大工業・船乗り渡世になっていく。優れた操船能力は維持されて、幕末には咸臨丸の船員の大半を占める。「人名政」は明治まで続いた。塩飽の島々は次第に忘れられて過疎の島になる。

 テレビの鑑定番組で、旧家の倉庫に退蔵されていたものが、「若冲」の鶏の絵であったのが注目された。往時の繁栄がしのばれる。


    2018-1-10


 

 

  野山獄と岩倉獄  高須久子

 

野山獄跡

  吉田松陰が長州で投獄されたのが野山獄です。野山獄は士分の者を収容する。松陰と一緒に黒船への密航で投獄された金子重輔が収容されたのが、庶民の入る岩倉獄です。両所の待遇には雲泥の差があり、野山獄では3畳余りの独房で生活用品も置け、親族からの差し入れ自由であった。岩倉獄では大部屋の収容で着物も食物も満足に支給されず劣悪な環境に金子は獄死している。


野山獄

 野山獄には12室の独居坊があり11人が捕らわれていた。
1. 吉田松陰
2. 大深寅之允  獄中47年
3. 弘中勝之進 獄中17年 殺人の罪
4. 岡田一迪 獄中14年
5. 吉村善作 獄中5年 俳句を松陰に学ぶ
6. 富永有隣 冤罪で入獄、 松下村塾の講師、私塾・定基塾開く
  鋭武隊を率いて第二次長州戦争に参加、脱退騒動で逃亡生活
  逮捕されて明治17年まで入獄、明治33年八〇歳で死去
7. 河野数馬 獄中八年 三田尻士族 俳諧を好む
8. 志道又三郎
9. 井上喜佐衛
10. 栗屋与七
11. 高須久子 在獄2年
 大河ドラマで高須久子に関しては美人女優さんが演じていたので興味を覚える。
 久子は三三〇石の高禄の跡取り娘である。婿養子の夫が若くして亡くなったので、歌や浄瑠璃に没頭して、芸人と交流するようになり、親族に不義密通を疑われて入獄した。
「借牢」という制度があり松陰が入ったときは二人だけが罪による入獄であとの九人は私的な入獄の「借牢」であった。松陰も形式上は父からの「借牢」である。「借牢」といえども刑期は無期限であった。

 松陰の出獄に際しての久子の一句 「鴨立って あと淋しさの 夜明けかな」
再び松陰が入獄して彼女と再会する。半年後に江戸に松陰は送られて処刑されるのだが、送られるときに手縫いの布を久子は松陰に送る。 お返しの松陰の句 「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思いて 拭き清めてん」
 出立の当日に久子が 「手のとはぬ 雲の樗(おうち)の 咲く日かな」
松陰は久子に封書を手渡しそのなかに 「一声を いかで忘れん ほととぎす」
 松陰と久子の交情が知られています。

 野山獄では高杉晋作や楫取素彦ばかりでなく、保守派の椋梨藤太などが処刑されている。

    2018-1-15

 

 

 

    薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟

 

  薩長同盟が成立、第2次長州征討に長州が勝利、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城の流れで明治維新が成立したと理解してはいる。
 薩度盟約、薩長芸3藩盟約、御手洗条約などの最近知ったものとの続がりが、小生にはよく分からないので整理してみました。

 幕末年表

1866年 慶応2    1/21     薩長同盟
           6/7     第2次長州征討
          7/20 将軍家茂死去
          8/20 徳川慶喜将軍就任
                    

      徳川慶喜

           8/21    孝明天皇、長州征討停戦命ず
           12/25    孝明天皇崩御

1867年 慶応3  3月  島津久光 藩兵1000人と入京
         5月  四侯会議 島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城
         5/23  徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
         5/25  薩摩武力討幕を指向
         6/12  龍馬の船中八策
         6月  後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
         6/19  島津久光は長州の品川や山県と引見
         6/22  薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、
             寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席
             大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
         6/28  芸州・辻に同意を得る
         8/14  長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
         9/8  薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
         9/9  薩土盟約は解消
         9/28  久光が討幕否定の通達
         10/3  土佐による建白書提出 
         10/4  芸州による大政奉還の建白
         10/8  三藩の討幕再確認   
         10/14  大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
         11月初旬 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。
              長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、
              芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
         11/8  龍馬御手洗を立つ
         11/15  龍馬暗殺 
         11/26  御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定
         12/9  王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
1868 慶応4    1/3  鳥羽伏見の戦い
          4/11 江戸城無血開城
          9/8  明治に改元

 譜代による幕府の専制政治がくずれて、喫緊の課題の解決のために薩摩は四侯会議にる打開を試みた。雄藩連合による政治・薩摩の目論見は慶喜の巻き返しにより失敗した。薩摩は武力討伐を指向する。薩摩は大政奉還が成るとは思わないが、それの拒否が討幕の大義を得ることになるということで、土佐の提言にのり、龍馬や中岡の陪席により1867年6月に薩土盟約を結ぶ。これは議会政治の採用による手段としての大政奉還による王政復古を採択し、武力討幕を原則回避する方針となった。

 約定書の内容は以下の7箇条から成る。
1.大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。
2.議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。
3.上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。
4.将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。
5.諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。
6.律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。
7.皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。

 しかし1867年9月9日盟約は解消される。土佐と薩摩は同床異夢であった。それより前の9月8日に薩長芸による出兵盟約がかわされている。薩長の思惑とは異なり将軍慶喜は大政奉還を受け入れる。

   山内容堂

 土佐の容堂の意向とは異なり11月に薩長芸土による御手洗の討幕密約がなる。(これはつい最近述べられるようになった)その下旬には御手洗条約にて長州軍を芸州が上方に先導する条約が成る。王政復古が宣言され、薩摩の独断専行の先駆けにより鳥羽伏見の戦いに勝利して、明治維新が成る。

 

  御手洗薩長芸土4藩軍事同盟密約は軍事同盟と新政府綱領8策が御手洗で龍馬も参加して結ばれる。この密儀は龍馬が60年間黙っているように皆へ約束をさせた。ゆえに新谷道太郎がその期間を経て世に出す。彼はそのために山陰に隠れて生活する。まだ定説になっていないが本当でしょう。 龍馬はそ後で御手洗から京にのぼりまもなく暗殺された。 龍馬を暗殺した犯人が薩摩黒幕説があるが、御手洗で龍馬ともども4藩同盟成立あるのなら、それほど日数が暗殺まで経ていないのだから、薩摩節は無いと思われる。



   2018-1-28

 

 

 

 

 

   幕末の薩摩藩主

 

   薩摩藩の幕末の藩主をまとめてみました。藩政改革で親子が争い、財政改革にも成功して大きく明治維新に貢献しました。


島津重豪(しげひで) 1745-1833 89歳


宝暦5年(1755年) - 天明7年(1787年)
娘の広大院は11代将軍家斉の正室
次男は中津藩奥平昌高、蘭学好き
13男は福岡藩主黒田長溥(くろだ ながひろ)・蘭学好き
14男は南部信順(なんぶ のぶゆき)は、陸奥八戸藩の第9代の藩主。
500万両の借金を作るが調所広郷を抜擢する。



島津斉宣(なりのぶ) 安永2年・1774-1841・天保12年  69 才


天明7年・1787-1809・文化9年
文化6年 近思録崩れの責任で重豪によって強制隠居

 


島津斉興(なりおき) 寛政3年・1791-1859・安政6年  69歳


文化6年(1809年) - 嘉永4年(1851年)
天保4年・1833年 父重郷の死で実権握る、調所を重用して財政改革に成功
嘉永2年・1849 お由良騒動
次男は池田斉敏(いけだ なりとし)、備前岡山藩の第7代藩主。
嘉永4年・1851年 安部正弘の調停で隠居


島津斉彬(なりあきら)文化6年・1809-安政5年・1858   50歳


嘉永4年・1851-1858・
富国強兵に努め集成館事業を興す
篤姫を将軍家定の正室に嫁がせる
公武合体武備開国を主張



島津忠義・茂久(もちひさ)天保11年・ 1840-1897・明治30年   58歳


安政5年・1858-1871・明治4年廃藩置県
大政奉還後に藩兵3000を率いて上洛、王政復古に貢献

 


  島津久光 文化14年・1817-1887・明治20年


 島津済興の5男で斉彬は異母兄、忠義は長男、藩主ではないが斉彬の死後に藩主の実父として藩政の実験を握った。
 文久2年・1862 公武合体推進のため兵を率いて上洛、寺田屋で尊攘派を粛清。計4回の上洛を経て、武力討伐路線を採る。


   2018-2-6










     長州ファイブ・5傑

 



  長州が下関で外国船に砲撃・攘夷決行をする前に、藩主より3名の洋行が決定した。5名の留学生のなかで伊藤、山尾、井上薫の3名はその前年に英国公使館の焼き討ちを高杉晋作と実行している。伊藤と山尾は塙忠宝の暗殺にも関わっている。バリバリの攘夷志士らである。 彼らは横浜を出港して上海に着くと、すぐにも攘夷の愚行に気がついたようではあるが。


 藩は幕府の海外渡航禁止の政策のなかでの強行ゆえに、責任を持たず、脱藩扱いとした。わずかに、ひとり200両の支給ではとても足りず、江戸在勤の村田蔵六・大村益次郎のお墨付きで5000両の滞在費を商人より借りて持たせた。それでも足りずに山崎小三郎は栄養不足で死に、薩摩の留学組から援助をうけたほどである。

  元治元年・1864年 4月中旬 井上薫と伊藤は「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、直ちに帰国を決意する。実際の4国艦隊の下関砲撃は8月なので、前年7月の薩英戦争の記事ではないかと思われる。7月に両人は帰国する。4か国の下関砲撃計画を知り、止戦の交渉にあたるが攻撃が始まった。9月に晋作と伴に井上は講和条約を締結する。彼らは帰国して幕末や明治の功業に役割を果たした。内閣・外交・造幣・工学・鉄道の父とも言われている。


   関連年表

万延元年・1861年 12月7日 伊藤英国留学を志願
文久2・1862年
    8月21日  生麦事件
    11月2日  攘夷実行の遵守を決定
    12月12日  高杉晋作、伊藤、山尾、井上ら英公使館放火
    12月22日 塙忠宝(はなわただとみ)暗殺される。

文久3・1863年
       4月 高杉晋作上海へ
       4月18日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命
       5月10日 長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限
5月11日 長州ファイブ英国行横浜より出発
       6月6日 6月 奇兵隊結成
       7月2日  薩英戦争
       8月18日 8.18の政変

元治元年・1864年 
          7月13日 井上と伊藤が帰国
          7月19日  禁門の変
          8月2日 第1次長州征討
          8月5日  4国艦隊下関砲撃
          8月14日 井上は高杉に従い講和条約締結
          12月16日  功山寺挙兵

慶応2年・1866年  遠藤帰国
明治元年  11月19日  野村と山尾帰国


井上聞多(ぶんた=馨)・志道聞多 1836-1915

井上光亨(五郎三郎、大組・100石)の次男、志道氏(大組・250石)の養嗣子
御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加、功山寺挙兵、
石州口で戦う、初代外務大臣、外交の父


野村弥吉(井上勝)1843-1910

井上勝行・200石の3男、野村作兵衛の養子、癸亥丸の船長に任命
日本鉄道の父、鉄道の国産化に貢献。


遠藤謹助 1836-1893

1866年帰国 病気の悪化で帰国、造幣局で活躍、お雇い外国人を廃して、国産化に尽くす。
造幣の父


伊藤俊輔(博文)

塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。イギリス公使館焼討ちに参加、
初代内閣総理大臣、内閣の父


山尾庸三 1837-1917

アム-ル川流域調査、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
イギリス公使館焼討ちに参加、
明治元年帰国、工部省設立、工部卿、工学の父、日本ろうあ協会総裁


他の長州留学生
慶応元年・1865年  山崎小三郎、南貞助、武田傭次郎を英国に送る。山崎は英国で死亡、南は1867年帰国。英国人と結婚して最初の国際結婚をした。


   2018-2-21

 


 

    薩摩藩 第一次英国留学生

UCL ユニバ-シテイオブカレッジ・ロンドン大学

 島津成彬の構想のひとつに留学生派遣計画があった。彼の死亡により実現されず。薩英戦争が起こり五代友厚と寺島宗則は英国の捕虜となる。彼らは捕虜になったことから攘夷派から長崎で身を隠していた。そこで英国商人グラバ-と知り合いになる。薩英戦争敗北により西洋の技術をより学ぶ必要を感じ、五代友厚の上申書を契機として、薩摩藩は英国への留学生派遣の密航を企てる。グラバ-商会の船・オースタライエン号で上海を経由して英国に若者を送った。引率係と未成年の長沢を除き14名がUCLの聴講生となる。そこですでに到着していた長州ファイブと出会う。

 約半数が経済的理由で1年後に帰国した。残留した一部はフランスへ留学、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い米国の宗教家トマス・レイク・ハリスのもとへ移る。学資がなくなった留学生には好都合であった。第二回米国留学生も加わり、いわゆる新興宗教の集団生活に加わるようなものであったので森、鮫島、長沢以外の者はほどなくハリスの元を去った。長沢は日本には帰らず、教団ブドウ園を成功させカリフォルニア葡萄王と言われている。

 留学生の中には、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている。偽善の国ともいわれるキリスト教西欧諸国の一端でも感じたのかもしれません。
 
 土佐藩士で土佐勤皇党の一員であった高見弥市は藩政吉田東洋の暗殺に関与して、脱藩して薩摩に逃亡して薩摩藩士として仕えていた。薩摩での人望・能力があったのでしょう、留学生の一員に選ばれているのは異色である。


関連年表

1858 島津成彬急死
1862 9月  生麦事件
1863 5月  長州ファイブを英国へ派遣
   8月  薩英戦争
1864 6月  五代友厚による上申書
   7月  長州井上と伊藤が帰国、禁門の変
1865 4月  羽島出港  ホンコン着
1866 1月  薩長同盟
   2月  五代友厚帰国、
   11月 広沢真臣、五代友厚、坂本龍馬「商社示談箇条書き」を結ぶ
1867     パリ万博

  引率係

五代友厚・水泉蔵・ 関研蔵   1836-1885


長崎で航海術を学ぶ、上海渡航、薩英戦争で捕虜、案内役として参加。1866年春に帰国。帰国後、外務卿、文部卿、参議。大阪で実業家


新納久脩(中三)・にいろひさのぶ 1832-1889  32歳  
一所持、伊佐郡大口領主、家老。引率者。家禄850石、英国から帰国後に家老、パリ万博参加を協議、11歳の息子をフランス留学させる。奄美大島の救世の恩人、


寺島宗則・松木弘安 1832-1893  


 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、英語も独学で習得、幕府の文久遣欧使節団の一員、その帰国後に薩英戦争で捕虜、初代在英国公使、参議兼外務卿、




 第1次英国留学生


【後列】1・朝倉盛明、2・町田申四郎、3・鮫島尚信、4・寺島宗則、5・吉田清成
【前列】6・町田清蔵、7・町田久成、8・長沢鼎


1・田中静洲 朝倉盛明・省吾  -1925  
英国からフランスへ転学。のちに日本初の政府直轄鉱山生野銀山の鉱山長を務める。

2・町田申四郎・実積、小松清緝 
町田久成弟、帰国後に小松帯刀の養子となる。明治5年長男清直に家督を譲る


3・鮫島尚信・清蔵、誠蔵  1845-1880


蘭医研究生として長崎に学ぶ、1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学出後、ハリスの助言により森有礼と共に1868年8月帰国、英仏代理公使。外務次官、駐仏公使として客死、



4・寺島宗則  32歳 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、幕府の遣欧使節団の一員、
       薩英戦争で捕虜


5・吉田清成  1845-1891


1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学後、そこを離れて大学で銀行保険を学ぶ、上野景範に随いて英国へ転出、明治3年帰国後大蔵省少輔として岩倉使節に後発合流、米国大使。米国匿名全権公使として条約改正に専念。


6・町田清蔵
町田久成弟、「財部実行回顧談」著者


7・町田民部・町田久成 1838-1897


大目付、禁門の変に六郷隊隊長、パリ万博参加、帝国博物館初代館長、
明治22年に官を辞し住職になる。


8・磯永彦助 長沢鼎(ながさわかなえ)  1852-1934


最年少13歳であったので、アバデイ-ンの中学に通う。資金に窮し、1867年夏に英国からアメリカ転学、後にカリフォルニアのワイン作りに貢献。生涯ハリスの後継者のひとりとしてアメリカで暮らす



【後列】9・高見弥一、10・村橋久成、11・東郷愛之進、12・名越時成
【前列】13・畠山義成、14・森有礼、15・松村淳蔵、16・中村博愛


9・高見弥一・高見弥市・大石団蔵・松元誠一   1831-1896   
土佐勤皇党、土佐藩吉田東洋暗殺関与、薩摩に仕え高見弥一を名乗る。帰国後明治政府に出仕し明治5年に鹿児島に戻る。


10・村橋直衛 村橋久成  1842-1892


精神的に早く帰国、函館戦争の和平に活躍、サッポロビ-ルの前見に貢献、突然開拓使を辞し雲水の旅に出て行き倒れ死亡


11・東郷愛之進・岩屋虎之助 
帰国後、戊辰戦争で戦死


12・名越平馬・ 時成(なごやときなり)  
戊申戦争経歴不明、奄美の記録残す、
名越左源太の息子。


13・畠山義成・ 杉浦弘蔵   1842-1876


岩倉使節団と帰国、東京開成学校長、一所持格、当番頭。英国に2年間滞在したのち1867年夏にアメリカに転学、岩倉使節団に参加。アメリカに計6年滞在したのち帰国し、開成学校校長、東京書籍館長、博物館長。


14・森金之丞 森有礼 1847-1889


1866年6-8月ロシア視察(『航魯紀行』)。1867年夏に英国からアメリカ転出し1年滞在後、ハリスの助言により鮫島尚信と共に1868年8月帰国、米国代理公使、明六会社長、中国大使、商法講習所を開設、初代文部大臣、明治22年暗殺される。


15・松村淳蔵・和彦  1842-1919 


1866年6-8月ロシア視察。1867年夏に英国からアメリカ転学後、米国海軍士官学校日本人留学生第一号。海軍兵学校長


16・中村宗見・中村博愛  1844-1902
英国で化学を学び、英国からフランスへ転学。明治元年帰国、外務省勤務のちにマルセイユ領事、デンマーク公使、元老院議官、勅選貴族院議員となる。


堀宗次郎・堀孝之・高木征二
長崎のオランダ通詞に生まれる。通訳として参加、五代の事業を助ける。


町田猛彦・山本幾馬  21歳
町田久成の弟。羽島滞在中に自殺したといわれている。


  2018-2-28






   薩摩藩 第2次米国留学生

  
 1865年・慶応元年4月に薩摩藩の英国留学生が出発した。翌年3月に6名の米国留学生が英国を経由してアメリカに渡った。
 今回の派遣された人に精忠組のメンバ-3人がいる。寺田屋事件の鎮圧側と処罰を受けた人間も加わることになる。
 第1次渡英組で、ハリスを頼って渡米した6人(森・鮫島・松村・畠山・吉田・長沢)は、アメリカで仁礼たち、この第2次メンバ-と再会することになります。
 渡米のメンバ-のなかで自殺者も帰国してすぐに亡くなるものがでるが、明治初期の海軍創設メンバ-や北海道牧畜に貢献した人、初代日銀総裁など明治勃興期になって活躍する人物がこの中から出る。



江夏蘇助(1831 - 1870)
変名は久松。名は、栄方、壮助、仲左衛門など。剣士として知られ、鎮撫使として送られた寺田屋事件、精忠組の一員。産物方書役から御供御徒目付役。仁礼と共に慶応4年9月に帰国する。明治3年4月に東京浜町の旅館で死亡。


仁礼景範(1831 - 1900)


精忠組の一員。海軍大臣、軍令部総長、枢密顧問官などを歴任。


湯地定基(1843 - 1928)
明治4年帰国、開拓使に出仕、北海道で農業、牧畜を進めた。根室県令、元老院議官、貴族院勅選議員などを歴任。


吉原重俊(1845 - 1887)


寺田屋事件で年少で謹慎、精忠組の一員。明治6年帰国、税関局長、租税局長、初代日銀総裁などを歴任。


種子島敬助(1844 - )
 吉原重俊と共にモンソンアカデミーを卒業するが、その後1年同校に残る。他の日本人留学生よりもギリシャ、ラテン文学などに興味を持ち、病気のためヨーロッパへ向かい、その後日本へ帰国した。


木藤市助(? - 1867)
変名は芦原周平。上記の5名に先立ってアメリカへ到着し、現地の準備を進める。しかし、現地で首つり自殺しているのが見つかった。


   2018-3-3






 

 

乙丑の獄(いっちゅうのごく)

 

 維新では薩長土肥ばかりが有名になり芸州藩や福岡藩の動きはあまり注目されておりません。

 黒田如水の福岡藩は外様大名であり52万国の雄藩である。幕末には島津重豪の13男黒田長溥(くろだ ながひろ)が藩主となる。実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。
 幕末には尊王攘夷派の筑前勤皇党が主力を占めていて、彼らは第1次長州征討の回避工作に奔走した。その際に長州に居た五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角と言われるようになった。

 黒田長溥が幕府にそのことを責められていた。幕府が第二次長州征討を決定した結果、福岡藩では先の勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾く。長州の俗論派の台頭のようなものである。勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら15名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。
 この150名にも及ぶ大弾圧の結果戊辰戦争の際には兵を率いる人材が全くおらず、失態を重ねて廃藩置県を待たずに廃藩となる。遠島や謹慎の処分にしておけば良かったと言ってみても手遅れです。


切腹 以下7名

加藤司書 1830-65

2800石の中老、プチャ-チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。

斉藤五六郎

建部武彦 1820-65
700石の中級武士、第一次長州征討に際して福岡藩の尊皇攘夷派は、国内戦争を回避するため、長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。

衣非茂記
尾崎惣左衛門
万代十兵衛
森安平

斬首 以下15名
月形洗蔵 1828-65
第一次長州征討において征討中止に貢献した。五卿が太宰府天満宮に移る際、これを下関まで迎えに行き案内した。

梅津幸一
鷹取養巴
森勤作
江上栄之進
伊藤清兵衛
安田喜八郎
今中祐十郎
今中作兵衛
中村哲蔵
瀬口三兵衛
佐座謙三郎
大神壱岐
伊丹信一郎
筑紫衛


流刑 

野村望東尼 1806-67

勤皇歌人、勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。月照や高杉晋作らをかくまう。

野村助作

早川養敬


   2018-3-13


   月形仙蔵と加藤司書


   薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟






     商社示談箇条書

 

 関連年表

1861・万延2 8/11  白石正一郎は薩摩藩の御用達になる 
1863・文久3 8/18   8.18の政変
1864・元治元年 7/19  禁門の変
        12/15  功山寺挙兵
1865・慶応元年 
1866・慶応2年 1/21  薩長同盟
        9/2   勝海舟と広沢真臣が幕長休戦協定を結ぶ
        11/某日   商社示談箇条書

 安政4年・1857 11/12に下関の白石正一郎宅に西郷隆盛が立ち寄り泊まっている。白石正一郎の日記を読むと薩摩との濃密な交流がうかがえる。馬関・下関は地理的に薩摩は参勤交代や上方との往来で利用しなければならない位置にあった。情報報告のための薩摩の藩船をここに係留しており、その扱いの駐在藩士・苫船新役が下関にはいた。
 天保末期には、商品経済の発達に伴い各藩は特産品の扱いを重視するようになり、いままで大阪に送られていた商品が、反権力の手中に握られ、需要先に直送されるために減少する。その商品の取引拠点として下関が注目されていた。村田清風の改革で越荷方を拡大強化した理由であった。それゆえに薩摩と長州の交易は盛んになりつつあった。

白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 8・18の政変で長州は朝廷から遠ざけられて薩摩を薩賊と呼ぶほどに薩長の関係は悪化するが、薩長同盟の締結に伴い、11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き<ins><a href="http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-378" target="_blank">広沢真臣</a></ins>と、商社示談箇条書を結びました。 馬関を中心にして日本中の産物を残らず買い付けて大阪に運ぶことにより大商売を行おうという趣旨です。日本の市場を握ろうというのである。薩長同盟の軍事同盟とすればこの箇条書きは経済の基礎固めであった。

商社示談箇条書
一、商社の盟約はお互いの藩名をあらわさないで商家の名号を唱えること。
 一、同社中の印鑑は互いに取替えておくこと。
 一、商社組合の上は、互いに出入帳をもって公明に計算をし、損益は折半とすること。
 一、荷物船三、四隻を備え、薩藩の名号にして薩藩の旗を立てること。
 一、馬関の通船は、品物によらず上下とも差止め、たとえ通行させなければならない船であっても、
    まだ改めがすまないからといって引止めておく。これはこの商社のもっとも緊要な眼目であること。
 一、馬関通船の場合は、二十五日前に商社に通信すること。


   2018-3-13




   青松葉事件

 

 

石碑と説明版  名古屋城2の丸

 名古屋で育った小生であるが、青松葉事件については聞いたことは無かった。弾圧事件といえば佐幕派に対してのものはあまり耳にしないで、維新の志士たちへのものばかりが有名である。

 ここ尾張で慶応4年(1868年)1月20日-25日に起きた佐幕派弾圧事件を青松葉事件といいます。この年は鳥羽伏見の戦いで幕府が負けて、将軍慶喜が大阪から逃げて江戸に帰った後のことになります。 大政奉還後の政府の要職にあった藩主徳川慶勝は急遽帰国して佐幕派の家臣を粛清した。高禄の家老など14名が斬首にされた。


14代尾張藩主 徳川慶勝 1824-83

 慶勝は第1次長州征討時の総督であり、その時には長州との戦を避けて穏便な和平で対処した。慶喜より不当だと非難を受けたほどの処置であった。彼がこの処置を含めて勤皇についたゆえに、江戸無血開城まで、官軍は東海道を戦わずにして行きつくことができた。尾張藩が各地に向けて出した書状が他藩の恭順の動向を決めたと云われている。もし尾張藩が親藩ゆえに幕府につき、名城名古屋城に数万の兵とともに籠城して官軍と戦えば、やすやすと維新が成り立ったと思われない。慶勝の陰の功績は大である、知らぜらる陰の維新プランナ-と言われる。兄弟である会津・桑名藩主は徹底抗戦であったのは皮肉である。

 渡辺・在綱・新左衛門(1820-68)は2500石の家老である、慶勝が帰国するとすぐに御前会議を開き、「朝命により死を賜るものなり」と告げられて斬首される。その妻「みつ」は、家禄・お屋敷召し上げを言い渡された。彼女は周章狼狽することなく、家財道具をひき渡しのために清掃させた。貴重品は一品も持ち出すだしてはならぬと言い渡し、飾り立て収納した。衣服をあらためて、女性には櫛だけは婦人のたしなみであると許した。引き渡しの際に倉庫には米俵が充満していたのでその潔白さに役人は驚きその状況を具申した。その妻女の処置に感服して、藩政府は新左衛門に限って、家財その他動産は一切賜ると許した。 
 武士には、いつこういうことが起きるかもしれないので、そのときこそ平素から覚悟しておくべきことである…佐幕派の武士の一族とは言え、立派な覚悟である。 この時期に、幕府旗本が戦争に行くのがイヤで、幼少のものに家督を譲って隠居したものが多いと聞けば、幕府は滅亡がまぬがれないものとして小生には思える。


    2018-4-3







林勇蔵 と 吉富簡一


 長州藩は、ペリ-来航以来、外圧に対処するため、その危機をアピールし、それを受けとめた村落支配者=豪農商層が、みずからの危機意識のもとで、その郷土防衛のために農兵隊を積極的に組織し、武装化した。一般農民もまたそれに応じて献金をし、農兵として参加する。

 わずか80人余で挙兵した高杉晋作が巧山寺挙兵に成功したのは長州の庄屋たちの支援があったからです。初めは、奇兵隊すら勝利の見込み無しと日和見をきめていました。
 高杉の“正義”派が、この諸隊や農兵隊を基盤にして、一般農民層の支持をえながら“俗論”派戦に対して勝利を勝ち取ることができた。 挙兵に先立って、吉敷郡矢原村の山口宰判大庄屋吉富藤兵衛のもとにひそかに使を派した高杉は、挙兵を打明け、その軍資金の提供を吉富簡一に求めた。
 林勇蔵や吉富が資金や兵を提供してくれたことにより、初期の困難を克服してク-デタ-を晋作は成功させる。


林勇蔵 1813-1899

 豪農吉富家に生まれて、庄屋林文左衛門の養子となる。天保12年(1841)上中郷庄屋、安政2年(1855)小郡宰判大庄屋となる。巧山寺挙兵のとき金銭的に支援して勤王大庄屋とよばれた。明治になり地元の治水工事や地租改正に活躍した。


 宰判とは長州藩で郡にあたるような広域の村々を代官が治める行政区域である。




吉富簡一 1838-1914


 周防郡の庄屋に生まれ井上門多とは幼なじみである。林勇蔵とは親戚。奇兵隊に資金提供するほかに、諸隊・鴻城軍を組織し井上を総裁にすえる。維新後は山口県政の大立者として、農民運動や自由民権運動には抑えるような行動をとる。

 吉富は興味を惹かれる人物である。苦境の高杉晋作を助けて、弾圧で押しつぶされそうになっていた正義派を勝利に結びつけ藩論を変えさせた。これから薩長の討幕運動が始まり明治となる。 明治2-3年に諸隊の脱退騒動が起きる。長州藩は結果的には諸隊を用無しとして解散させる。切り捨てられた処遇に不満な兵士は反乱を起こす。吉富はその意をくむことなく木戸と鎮圧をする。明治6年の地租改定で現金で納税する制度に変更になった。この際に、吉富は米を相場より安く農民より買受けて、大阪に高く売り差額を手に入れ巨額の利益を得た。 前原一誠はこのような農民や兵士の状況を放置する新政府に対して乱を起こすことになった。

 小生は、庄屋と言えば、村の貧しい成績の良い青年を学資を出して学ばせ、まだ村の篤志家の良いイメ-ジを持つが、地主というと小作から巻き上げる悪い印象しか持たない。 その二つを持つのが吉富ではないかと思う。 幕末から敗戦まで続く歴史を象徴する人物のようで興味深い。吉富は幕末では幕藩体制の矛盾を背負わされた庄屋で、それゆえに支援し変革をさせ、明治となり、地主層と農民層の対立では彼が地主側に立ち、庄屋・地主の置かれた歴史的な位置に順応し生きた人物である。彼の心中には矛盾はないのでしょう。地主・庄屋の歴史的・経済的な位置が維新を起こし明治の治世をささえた。その使命を成り立たせた地主の状況が時代を経て変化したことにより、結果として先の敗戦に至り、農地改革で使命を終えたというべきか。


   2018-4-13


 

 

 

    亀山社中・海援隊





 龍馬の海援隊根拠地である亀山社中跡を見に行く。長崎によくある坂道を登っていかねばなりません。 行ってみると、想像していたより小さな建物でした。 隊員がこの部屋に集まれば、さぞかし狭かったことだろうと思われます。 今と違いバスや車で行くわけにもいかないので、船着き場や倉庫から、ここへ行くには坂道で徒歩30-40分といったところでしょう。

 記念館の展示には龍馬が着た黒紋付、今見ても良い生地・絹でしょうか、仕立てられています。また月琴がありますが妻・お龍さんが使用した楽器なのか不明です。

 年表によると亀山社中が出来て2年、海援隊になって1年で解散ですので、幕末の極めて短い間のことであったと分かります。

 <strong>龍馬・亀山社中・海援隊年表</strong>

元治元年・1864 2/24-4/4 龍馬は勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在
慶応元年・1865 夏頃 亀山社中結成
       7月-10月 薩摩名義でグラバ-から小銃や艦船を購入長州へ輸送 
慶応2年・1866 1/21(22) 薩長同盟締結
        1/23  龍馬は寺田屋で負傷、近藤長次郎は小曾根邸で自刃
        3/8 薩摩船で鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄る
        5/2 ワイル・ウエフ号が五島で遭難、池内蔵太・黒木小太郎ら死亡
        6月上旬 妻・お龍を小曾根家に預ける
        6/17 下関で長幕海戦に参加
慶応3年・1867 1月上旬-2月下旬 後藤象二郎と会談 、脱藩許されてる。     
        2/10 お龍を下関伊藤家に預ける
        2月頃 土佐商会開設
        3月 岩崎弥太郎が長崎に来る
        4月上旬 海援隊発足 
        4/23 いろは丸が紀州藩船と衝突沈没
        5/29 いろは丸賠償決着
        7/6  イカルス号水夫殺害
        9/10 イカルス事件 おかまいなしの裁定
        9/14 オランダ商人から小銃1300挺購入
        10月 大政奉還
        11/15 近江屋にて龍馬死亡
慶応4年・1868 1/14 長崎奉行が脱走、海援隊奉行所西役所を占拠
           沢村惣之丞自刃
        4月 土佐商会閉鎖
      閏4/27  海援隊解散

 

龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html




 

 

 亀山社中 玄関

 龍馬着用紋付

 月琴など展示物


 龍馬のブ-ツ像   このブ-ツを履いて眼下の長崎を眺める

 土佐商会跡  市電西浜町ア-ケ-ド前停留所脇


   2018-7-20




   海援隊士亀山社中





  龍馬の船



 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

  <strong>龍馬関連年表(旧暦)</strong>

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ-から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ-から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ-から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ-タ-ミナルのロビ-展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。


 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 

  龍馬の船

 

1. 「ワイル・エフ号」 スク-ナ-159t プロシア建造 グラバ-から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。

2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造


3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船 画像なし

4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ-キン


5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に  画像なし

 

6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル-ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
 6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。

7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入


 長崎にある 夕顔丸碑

8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ-ミンガム建造アビソ号

 

9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。


10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも  画像なし

12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ-ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


   2018-8-21





   鄭成功  1624-1662

 ヨットで平戸を訪ねた折、誕生日・7月14日に行われる鄭成功祭りのポスタ-を見かける。6月末に航海を終えたので、祭りを見ることができませんでした。 彼のゆかりの地平戸・川内へ路線バスで行き、記念館を見るつもりが、あいにく休館日で見学できなかった。

 平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。日本名を福松という。 7才で単身明へ渡海して、21歳の時に明の隆武帝より「国姓」「朱」を賜ったことから、「国姓爺」と呼ばれた。清が勃興してくる中で彼は戦い、台湾のオランダ人を駆逐して拠点を台湾に拠点を置いた。台湾ではそのことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。病により39歳で没した。 近松門左衛門の「国性爺合戦」は彼を主人公にしたものである。



 

 占領地と影響圏



 鄭成功門

 

 記念館

 平戸 川内の町並み


   2018-7-24







   宇久島


   宇久島は「五島ではない佐世保である」という人がいます。五島列島を形成する北部にある主要な島です。地図をながめれば佐世保という人はいないでしょう。現在の行政区分では佐世保市に属します。




 文化的に他島と違いがあるのでしょうか、中通島や福江島などの島に多々ある教会が宇久島にはない。
 観光案内所でこの島の自然以外の歴史的な見るものを教えてもらい、レンタサイクルで見に行きました。

 平清盛の弟・家盛りが壇ノ浦の戦いに敗れてこの島に拠点をつくり、五島一円に勢力を伸ばし宇久氏(五島氏)の祖になったという。

 平家盛 宇久島上陸像

 平家森の宇久島上陸地


 観光案内所から教えてもらった、半日歴史的見どころコース
   電動自転車利用

1. 宇久平フェリ-タ-ミナル出発
2. 神島神社
3. 東光寺
4. 毘沙門寺
5. 旧神浦中学校
6. 厄神社
7. 家盛上陸地
8. 八幡神社
9. 宇久島神社
10. 若宮神社
11. アコウの巨樹
12. 宇久平タ-ミナル 終

 道は整備されてはいるが山の登りが多く、電動自転車でも難儀である。50ccのカブでも欲しいところです。

 神島神社  五島神楽がおこなわれる


 後藤神楽 神島神社掲示



 支石墓  宇久松原遺跡出土



 東光寺  家盛公以下7代の墓がある



 毘沙門寺



 厄神社 古くから住民の信仰をあつめる、巨岩のパワ-



 八幡神社 家盛の氏神



 宇久島神社 しゃぐま某引き・大名行列を模したものが行われる



 アコウの巨樹  マムシに注意


 大規模な自然エネルギ-の開発計画があるのでしょうか? 風力発電反対の看板を多く目にしました。ゴルフ場も牛の放牧に使われているようにも見受けられ、観光も成功しているようには思えない。 地元の人に太陽光や風力の自然エネルギ-の利用計画にどういった理由で反対しているのかは聞きたいところです。




  2018-7-26





   平戸


 平戸は観光バスでもヨットでも訪れると、徒歩で回れる素敵な観光地です。行政も電柱を地中化するなど景観に配慮をしていて、力を入れているのが感じられます。


 



 平戸は遣唐使や空海渡海の時代から日本の出入り口を担った歴史があります。 フランシスコ・ザビエルが平戸に来て布教をした。 来航記念教会がある。

 ザビエル記念教会

 ポルトガル人との宗教と貿易との諍いで、宮の前事件がおこり、ポルトガル船は横瀬浦に去る。 松浦鎮信が家康より6万3千石が安堵され、松浦藩が確立。 オランダとの国交が1609年にされ、平戸に商館を設置。 1641年に長崎出島に移転まで続く。 オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など遺構が残る。 吉田松陰が平戸を訪れた時に14-5隻の唐船を目にしたと記していることから、平戸において中国との交易は幕末まで続いた模様である。

 宮の前事件がこの先でおきたという 案内板あり

 オランダ商館

 オランダ井戸跡

 オランダ塀

 オランダ商館倉庫跡  平戸川内町 平戸より バス10分

 英国商館跡の碑


 オランダ船リ-フデ号は豊後に漂着した。ウイリアム・アダムスこと三浦按針はその船の航海士で250石の旗本に取り立てられた、家康亡き後は不遇で平戸で死去した。

 三浦按針の館跡  お菓子処 カスド-スで有名

 三浦按針終焉の地

 三浦按針の墓

 松浦資料博物館 500円 陣屋跡


 山鹿流兵学の祖。山鹿素行の孫が平戸藩に仕えた。 吉田松陰は兵学師範の家を継いだために、修行のため平戸へ行く。 山鹿流軍学の家元へ入門する、彼は50日滞在したようであるが、陽明学の葉山左内の蔵書を読んで過ごしたという。松浦博物館には山鹿流陣立ての屏風が展示されていて興味深いものであった。

 吉田松陰宿泊紙屋跡



  2018-8-1



   大浦天主堂 国宝・世界遺産


  ここへは市電で大浦天主堂駅下車してすぐにある。 グラバ-邸も隣です。 前に行っているので、今回は訪れなっかった。

 元治2年・1865にフランス人の礼拝堂として建設される。1か月ほどして隠れキリシタンの信徒が密かに名乗り出る(信徒発見)。 見学者も多いので、教会の説明はちゃっかり、ツア-の案内者の解説を隣で聞いてください。 個人的には、ここが今度のクル-ズにおいて教会見学の最後となったのか、五島での汗して登った僻地の教会のような感銘と比べて薄いものであった気がしています。 今年に世界遺産に登録が決まった。ますます多くの人が押し寄せるでしょう。
 
 隣接して旧羅典神学校が見ることができる。中はキリシタン資料室として公開されています。

 創建時の大浦天主堂

明治8年・1875から明治12年に大改造 国宝指定


 側面

 内部


 羅典神学校(左)


今日は長崎原爆の日です。 ここは被害を受けずよく残ってくれました。合掌。


  2018-8-9



  幕末・明治の殉教 「浦上四番崩れ」

 


 

 

 

 

   

    高杉晋作の終焉の地・下関を訪ねる

 高杉晋作 1839-1867

 ここでは、すでに功山寺挙兵のこと、また、その地を訪ねたことを述べています。

 功山寺にある高杉晋作像

 

 


下関駅より 高杉晋作関連地図

 JR下関駅から徒歩3分位で白石正一郎宅(中国電力ビル)に行ける。そこは奇兵隊結成の地でもある。残念ながら碑のみである。


 奇兵隊結成の地  白石正一郎宅跡

 そこから徒歩5分位で高杉晋作終焉の地へ向かう。これも小さな公園に碑があるのみである。

 高杉晋作の終焉の地

 今までほぼ駅より北に向かって歩いてきたのだが、続いて山陽本線に沿う形で厳島神社に出る。 ここにはかって小倉城内にあったが第2次長州征討での小倉口の戦いの戦利品として晋作が持ち帰り奉納した太鼓が鐘楼にある。


 下関 厳島神社の鐘楼


 萩藩新地会所跡碑 左に晋作療養地220mの案内板


 この神社の脇に萩藩新地御用所跡の木碑がある。すぐ横の細道を歩き山陽本線のガ-ドを抜けて数分で高杉晋作療養の地跡に行ける。ごく普通の民家の塀にその碑があるので、気が付くのに遅れるかもしれません。 ここで芸妓を見受けした「おうの」や野村望東尼に晋作は看病された。正室「雅子」も訪れたという。


 高杉晋作療養の地碑



 長州砲(80斤カノン砲)レプリカ、壇ノ浦砲台



 晋作の墓は東行庵(下関市吉田町1184)にあり長府の先になり、今回は訪れておりません。

 


  高杉晋作療養の墓

 「おうの」は死後に出家して東行庵で弔ったという。彼女の墓もここにある。

 

 

 


    長府の街と藩・人

 

   今度の九州クル-ズで住んでみたいなと思った街は、先に書いた平戸とこの長府の街です。下関は既知であっても長府はボイラーの名でしか知りませんでした。功山寺を訪ねるのに訪れましたが、落ち着いた街並みには魅力を感じます。

 長府地図  下関駅からバス23分

 長府藩は、1600年・関ケ原の役後に、毛利秀元が長府5万石に入府した。 現在は、高杉晋作の功山寺挙兵・回天義挙により「明治維新発祥の地」となったと街の入り口に記念碑を掲げている。 長府藩は長州藩の支藩であり、長府藩の支藩に清末藩・1万石がある。 維新後に豊浦藩,豊浦県を経て山口県に編入された。下関市の一部となっている。

 維新発祥の地記念碑

 成人するまで名古屋に育った小生であるが、尾張藩の支藩に高須藩があるとは最近まで知りませんでした。支藩の大事な使命の一つは親藩の血が絶えた時に養子を出すことで、高須藩も長府藩も何人も差し出しています。

 坂本龍馬の護衛に三吉慎蔵が活躍しますが、彼は長州藩ではなく長府藩の侍であった。彼の墓は功山寺にある。

 功山寺


 忌宮神社


 

 

 長府の町並み 写真3枚


 藩校「敬業館」の他に長府藩の松下村塾というべき藩校「集童場」があった。集童場は15歳以下の少年で、身分の別なく人材を育成しようとした。福田扇馬が自宅で開いていた私塾・「桜柳亭」を母体に熊野則之が福田扇馬や福原和勝らとともに創設した。そこでは乃木神希典などを輩出した。

 集童場設立の地


 私塾 「桜柳亭」跡 福田扇馬による設立



 主な長府藩の人物

三吉慎蔵 1831-1901 小坂家の次男として誕生、三吉家の養子となる。 印藤聿の紹介で龍馬を知る。長府藩報国隊軍監になり第2次長州征討に活躍する。宮内省御用掛として北白川家の家令となる。

 三吉周亮(みよしかねすけ)1842-1903 家老三吉家に誕生、5卿を功山寺にかくまう。功山寺挙兵で切腹を命ぜられるが、加藤司書のとりなしで中止、龍馬の理解者、維新後県参事・権令を歴任。

 熊野直介 1847-1868 熊野家長男として誕生、福田扇馬と集童場を開き場長、報国隊参謀、龍馬と知り合い、小倉口に戦い北越戦争長岡軍の逆襲により戦死。 

 印藤聿(いんどうのぼる)1831-1911 下村家の3男として誕生、印藤家の養子となる、報国隊軍監、龍馬と藩とのパイプ役、
維新後は製塩業を営み、衆議院議員となる。

 乃木希典 1849-18   乃木家3男として誕生、報国隊で小倉口に戦う、西南の役歩兵連隊長、旅団長、台湾総督、第3軍司令、
 妻と殉死。

右・福原和勝、左・山県有朋
福原和勝 1846-1877 村上家の3男として誕生、福原家に養子、報国隊結成を願い出る、初代軍監、小倉口で戦う、戊申戦争参戦、明治2年英国留学、陸軍教導団司令長官心得、西南戦争に別働第3旅団参謀、熊本で戦死。

 福田扇馬 1846-1892 私塾「桜柳亭」を設立、龍馬の協力で若者を長崎に率いて英語を学ぶ。

 瀧川辨三 たきがわべんぞう 1851-1925 集童場に入学、報国隊、北越戦争や会津戦争に参戦、マッチ製造会社を興し日本のマッチ王と呼ばれる。

 服部潜蔵 1850-1886 江本家の次男として誕生、服部家の養子となる、集童場に学び、1867年第2次長州留学生として英国へ。
テムズ航海学校に入学、英国海軍見習士官となる。同郷の福原和勝が英国に留学しており英国から引き抜かれて官費留学生となる。岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤め海軍大佐。

  2018-9-9

 

   神機隊と芸州の諸隊


 
 広島県廿日市に第二次長州征討で焼けた町屋跡の碑があります。 芸州口の戦いで和木を訪ねたことがあり、ここに載せています。

 芸州藩と長州藩の国境は和木近くの小瀬川にある。正確には支藩の岩国藩と芸州藩の境です。ここで四境の役(第2次長州征討)芸州口の戦いの戦端が開かれました。

 芸州藩は第一次長州征討では家老の辻将曹が仲立ちにより、西郷隆盛が岩国藩へ行き藩主と会談し、また長州へ乗り込み長州諸隊の幹部を説得したことにより、まとめたことで実戦が回避された。
 しかし、第二次長州征討では芸州藩は大義の無い戦いであると訴えたが幕府に先鋒を命じられる。老中小笠原長行(おがさわらながみち)はこれに対して家老の辻将曹らを謹慎処分に命じた。それに藩士が激昂し暗殺を計画した。小笠原を呼出し藩主浅野長訓(あさのながみち)が退去と不参戦を通告した。


 廿日市町屋跡  第2次長州征討で炎上

 芸州口の戦いが起こると芸州藩内の戦闘であったので中立を保つが、廿日市町屋の焼失のような被害を受ける。芸州と長州の間では藩外への撤退を長州と交渉をおこなった記録は残っている。2か月に及ぶ戦いで大きな被害を受けた。従来の藩兵だけでは守れないと精鋭部隊が必要だと認識された。

芸州口の戦い・四境の役・第二次長州征討 周防の国の海道・古道一人旅より 詳しい地図があります。
http://www.sakura64.sakura.ne.jp/contents10geishuuguchinotatakai.html

 士庶による神機隊の建白を木原秀三郎は義弟河合三十郎と提出。神機隊が創設された。隊内では身分、地位、格差をもちこまずに学問所などで学ばせる。募兵にあたって高い教養をもった人材を優先した。訓練に英語を取り入れて知識と意欲がなければ適応できなかった。軍律は厳しく違反者には容赦なく切腹を命じた。


 木原秀三郎 檜山村の庄屋出身、勝海舟の海軍塾で学び、芸州藩に登用。


 薩長芸三藩盟約書草稿

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。よく口にする「薩長土肥」には入れてもらえないことになった。

 神機隊は備中・備後の鎮撫に出動した。京都では芸州藩は鳥羽伏見での戦いで笑いものになっていた。神機隊は関東出兵を決めたが、藩は財政赤字を理由に拒否した。神機隊は自費で出陣する。上野戦争と奥州戦争で先鋒として大きく貢献した。

 高間省三は敵陣一番乗りで戦死して有名になる。324名で故郷を出たが仙台では、まともに歩ける隊兵は80名程であったという。


 高間省三 1848-1868   

 藩中きっての文武のエリ-ト、老中小笠原の暗殺を謀る。神機隊の砲隊長、戦前の武勇に優れた軍人の代表として紹介されている。


  芸州藩の諸隊

 

晴雲隊 1863・文久3年編成、柔述の心得200名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、

同仇隊 1863・文久3年学問所詰め藩士子弟で編成、54名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、諸隊の士官として活躍が多い

一心隊 1864・元治元年八月編成、周辺農町民有志100名、広島城下と周辺警備のため、

遊撃隊 1865・慶応元年春編成、38名、北陸道鎮撫総督の先鋒、



1866・慶応3年 6月 芸州口の戦い(第2次長州征討)



捷神隊(しょうしんたい) 1866・慶応2年8月編成、60名、民兵、神機隊と合併、戦歴不詳

神機隊 1866・慶応2年 9月 藩士と農商民で編成、1200名



1867・慶応3年 9月 薩長芸軍事同盟

1867・慶応3年 10月14日 大政奉還



献力隊 1867・慶応3年10月編成、300名、農商子弟300名、一部は戊辰戦争に従軍、大半は予備隊として待機

衆合隊 1867・慶応3年11月徴募編成、藩士を中心に民間を加えた300名、幹部は参戦、残りは後尾として残る

推誠隊 1867・慶応3年11月編成、草莽有志200名、藩軍事奉行の付属、一部は東北遊撃軍の傘下に、瀬戸内当初警備に

応変隊 1867・慶応3年秋編成、220名,士庶混成、鳥羽伏見120名参戦、北陸道100名、日光会津口と東北遊撃隊に分かれて参戦

新隊 1867・慶応3年秋編成、124名、八幡山方面に参戦、以後各地転戦



1867・慶応3年 12月9日  王政復古

1868・慶応4年 1月27日 鳥羽伏見の戦い



輔正隊 1868・慶応4年1月編成、豪商農の指導で組織200名、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦

奏勇隊 1868・慶応4年1月編成、藩士及び農町民の混成150名、領内治安警備

神速隊 1868・慶応4年2月編成、士農混成100名、戦歴不詳

司箭隊(しせんたい)1868・慶応4年2月編成、士農混成の銃隊、250名。装備旧式、戦歴不詳、

1868・慶応4年 4月11日 江戸城無血開城



   2018-9-14



 

   神機隊 本陣を訪ねて
 


 神機隊の駐屯地を訪ねて東広島市の志和にある西連寺に行きました。 広島からJR山陽線で八本松駅で下車、タクシ-にて1800円の距離です。 路線バスは日に5-6便あり,西条駅より1000円弱です。事前に芸備バスの時刻表を確認しておくとよい。西連寺バス停で下車すぐ前です。

 西連寺 神機隊本陣跡の石碑

 境内には隊員の10基ほどの墓地があります。


 隊員墓地

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。

 


 京都で芸州は戦いもせずに笑いものになっていると聞かされて、神機隊は創設されるのである。藩主の積極的な協力も無く、それ以後の戊辰戦争では、自費で神機隊は戦うことになった。上野戦争から仙台入城まで、この度の震災で有名になった浪江や相馬で戦う。先陣を仰せつかって200名の隊員は80名になった厳しい戦いを勝ち抜いた。 

 浄土真宗のお寺でさほど広くは無く、この地特有のあちこちでよく見かける茶色瓦が印象的であった。この地から徒歩で八条原城へ向かう。

    2018-10-30

 




   溝渕広之允

 1824 or 1828-1909


 左から2番目が溝渕でその隣が龍馬


 溝渕広之允は海援隊士と共に写っている写真を見て、隊員でないのが不思議であった。

彼は龍馬と共に江戸に行き、それよりも彼が龍馬を江戸へ引導したとも言われている。 龍馬と同じように佐久間象山と千葉道場で学ぶ。1866・慶応2年に藩命で長崎に行き砲術を学び龍馬と再会する。 それまで余り彼は龍馬の中で登場してきていない、彼は下士の出であったが長崎で龍馬と会うまで、藩士として行動してきた故からかもしれない。 彼はその地で後藤象二郎を介して龍馬の土佐藩復帰を援助した。 そのせいで亀山社中が海援隊になる。海援隊は土佐藩に属するようになった。
 
 龍馬の紹介で桂小五郎と会い交流を深める。 藩の許可を得たかどうか不明ながら第2次長州征討で小倉口の戦いで龍馬と共に参戦して、合作で下関戦図を書いている。これは他に龍馬が手紙に書いた海戦図も存在する。 このことから、幕府との討幕戦いにも土佐藩兵として従軍したと思われるが、その詳細は不明である。

 これまでの経歴により新政府の要職にも就けたであろう、維新後の明治2年10月に隠居すると、その後は新政府に仕えることはありませんでした。





 彼の資料は先の大戦で焼けてしまい、早く引退したことも加わって、我々庶民には知られることも少なかった。


   2018-9-28





  赤松小三郎  惜しまれる暗殺



 1831-1867 上田市立博物館蔵


 磯田道史氏は「今日、政治思想家が、この赤松を斬っちゃったことをすごい惜しむんですよ。ものすごく緻密な日本における議会の作り方を政治思想として知っていたのはこの人だった」と。。 こう述べられる人が赤松小三郎です。彼の言う議会制度が実現するは25年後のことである。


赤松小三郎による「御改正之一二端奏申上候口上書」 明治文献資料刊行会より
  http://kjmn.net/index_qhm.php?akamatsu
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 この「御改正口上書」が、おそらくは福井藩士の手を経由して京都に潜伏中の坂本龍馬に見せられ、「船中八策」および「新政府綱領八策」となった。また、「五箇条の御誓文」の起草した由利公正も、福井藩士であるから、当然、赤松の「口上書」を読んでいたものと思われる。由利公正が御誓文の原案を考える際にも、赤松の文書が影響を与えたのであろう。

 坂本龍馬に影響を与えた先見の明を持った小三郎であったが、勤皇派の志士たちの考えとは違い、その口上書には天皇に対して神聖な絶対的権威を認めていないという。

 近代兵学者には赤松小三郎と長州の大村益次郎がいます。 彼らの違いは何でしょうか。暗殺された時期にも両者は違いがあります。 個人的な考えですが、赤松には「志士」としての活躍が少ないように見えます。 単なる兵学の師範に終わったのではないでしょうか。。アイデアだけでは政治的な実現は望めませんから。
 赤松は請われて、薩摩「藩士」として維新に参加した薩摩藩に軍事調練をします。あくまで「藩士」への教育であった。その中に東郷平八郎や上村彦之亟がいます。

 一方、大村は「藩士」のみならず庶民の諸隊を教育し、奇兵隊を指導して石州口の戦いに浜田城を陥落させ、「志士」として勝利へ導きます。また、明治になり徴兵制を推し進め、武士社会を終焉させた人です。

 赤松は、議会制を創成する前段階として必用な、武士を終えさせる方策には考えが及んでいなかったのかもしれません。歴史的な成り立ちの違う英国の議会制度を頭の中で考えていたのでしょう。暗殺されてしまったので後の事・展開は分かりませんが。

 慶応3年8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固める中、赤松は内戦の危機を回避しようと、慶応3年8月まで「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松清廉、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。 西郷らの武力討伐路線とは違っていました。 龍馬暗殺もその違いから薩摩陰謀説があります。赤松は教え子だった中村半次郎・桐野利秋に暗殺されます。中村にその指示を出せるのは西郷しかいませんので黒幕は西郷だったのでしょう。維新の前に暗殺されました。

 暗殺されることにより、その後の大きな影響を消されたことには間違いありません。 しかし「維新の偉業」を成し遂げた「志士」に、そのプラン・理想が確固として持っていたわけではありません。 後からいろいろ述べるのは容易ですけれども。


 <strong>略歴</strong>

1831・天保2年 上田藩士・芦田勘兵衛の次男として誕生
         赤松弘の養子となり小三郎と改名
1848・嘉英元年  幕臣数学者の内田五観・弥太郎に学ぶ
1852・嘉永5年  西洋兵学者の下曽根信敦に入門
1855・安政5年  勝海舟に入門、従者として長崎海軍伝習所に行き、蘭人より語学、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。
1858・安政5年  蘭兵書「矢ごろのかね、小銃彀率」を翻訳し出版
1860・万延元年  赤松家を相続
1862・文久2年  上田藩で調練調法御用掛、翌年に砲術道具製作御掛になる
1864・元治元年  横浜駐屯英騎兵士官アプリン大尉より騎兵術、英語を学ぶ
1866・慶応2年  「英国歩兵練法」を翻訳、藩主松平忠礼に藩内の身分制撤廃と言論の自由を求める建白書提出、薩摩藩から求められ京都薩摩藩邸で開塾
1867・慶応3年  5月、松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白書を提出。 9/3 中村半次郎らに暗殺される


   2018-10-7



   隠岐正義党


 

 島津久光が上京するときに率いた兵数は1000名程度です。第二次長州征討での長州の兵数は5000名程です。 諸隊の事を調べていて知りました、隠岐正義党に参集した兵数は3000名という、他の諸隊は200-300名、神機隊で1200名、あの伏見の戦いでも薩長の兵数は5000名です。隠岐正義党の数の多さに驚く。

 隠岐の島は上図のように島前と島後の2つの大きな部分より成り、幕府の天領で島根藩の預かりとなっていて、郡代を置いて統治されていました。

鳥羽伏見の戦いの後、1868・慶応4年 隠岐正義党は3月に郡代を退去させ島民自治を実現した。新政府はこれを認めずに、5月に島根・松江藩兵を派遣して弾圧して解体させる。5月に上野戦争が起こり、このあと正義党は鳥取・長州・薩摩藩らの調停を受けて6月には再建された。9月に明治と改元となる。自治政府は1869年2月まで存続し隠岐県となるまで短い間であるが続いた。

 詳しくは 三宅さんのペ-ジをごらんください
  http://www.k-miyake.com/oki.html

 徳川幕府の初めての自治政府であり、パリコンミュ-ンより早いと云う人もいます。 しかし徳川幕府には塩飽諸島に人名政という船乗りによる自治政府が存在しました。
  

  http://endyachts.sblo.jp/article/182094407.html

 長州や他の諸藩は外国からの脅威が高まると、今までの武士だけでは対処ができずに、農民からの自発的に、また強制的に募兵するようになる。松江藩のように利用したり止めたり恣意的な運用をすると反発が強くなり、寝た子を起こしてしまったのかもしれない。
秀吉の「刀狩り」以来、兵農分離が続いていた。武士の存在は武力行使唯一の主体であったことが権力の源であり、それが揺らいで農兵ということになれば、武士の没落・否定となっていく。

 隠岐正義隊は人数が多いが釜や槍程度の武装で奇兵隊のような最新の鉄砲を持つようなものではなかった。奇兵隊のように半日は勉学をして思想的にも強い個人により構成された正義隊ではなかった。 農民の一揆のようなものであったのでしょう。


 愛艇「速魚Ⅱ」に隠岐の島へ訪ねてみたいものです。
 


    2018-10-12

 

 

 

   服部潜蔵
 

 1850-1886 


 海軍の創成期に薩摩第1次留学生・松村淳三、長州第2次留学生・服部潜蔵らが貢献した。わが同姓の潜蔵に興味を持ち調べてみました。

 彼は長州・長府藩江本家の次男として誕生、服部家の養子となる。 長府藩集童場に学び、伊藤博文に勧められて1867年第2次長州留学生として、グラバ-商会に買い戻された第2平寅丸(丙寅丸は第2次長州戦役で活躍、博多-大阪の定期船になる)で下関から英国に渡る。
 グラバ-の故郷の父に預けられて、レストランの皿洗いをしながら英語を学び、テムズ航海学校に学んだ。 英国海軍見習士官となり英国海軍に属する。

 岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤める。日清戦争に備えて演習中に負傷して半身不随になる。明治19年に退官し死去。

階級
• 1873年(明治6年)12月7日 海軍大尉
• 1879年(明治12年)12月27日 海軍少佐
• 1882年(明治15年)12月20日 海軍中佐
• 1886年(明治19年)5月 海軍大佐

 テムズ航海学校では後に東郷平八郎が学んだことから、負傷しなければ大きな活躍が期待された。 薩摩の松村はアナポリス士官学校卒業後帰国して中佐で任官した。当時の留学生に対する期待が分かる。海軍は薩摩が、陸軍は長州がと閥として棲み分けることになるのだが、長州にも海軍人材がいたと分かります。

   2018-12-19




    幕末の国際情勢とペリ-来航

 

  James Biddle 1846年 浦賀来航

 ペリ-は日本への遠征航海の途中にマックファ-レンの日本報国を暗記するほど丹念に読んだという。単に土人の国へ開国の脅しに来たわけではない。この時期に、欧米では日本に関する研究書が広く読まれていた。マクファ-レンは日本に来たことはないけれど、長崎出島にいたオランダ人から話を聞き、資料を集め、驚くほど詳しい正確な報告書を書く。

 ペリ-来航の目的は捕鯨船の補給のためではない。それは名目だけであり、条約が成った後で捕鯨船が来航したことはないといいます。

 ここで「大圏航路と日本海国」でも述べているように、真の開国の目的は当時貿易相手国として最も富を生み続けていた清国の市場をめぐるイギリスとの通商戦争において、先回りして貿易ル-ト確保することだった。

 下記年表でわかるように、ペリ-来航の前後にはアジアへの野望をもつ列強の英国とロシアはクリミア戦争で衝突している。その間隙をぬうようにペリ-の来航である。

 英国の力を借りてロシアの対馬占領を押し返し、南北戦争や普仏戦争で米国やフランスの力がもがれたところ維新が起きたといえよう。 ドイツヤイタリアは統一が成るころで日本への影響は明治になってからである。


1804   ナポレオンがフランス皇帝になる
1806   ナポレオンが弟ルイ・ボナパルトがオランダ国王に任命
1808   フェ-トン号事件
1811   ゴロ-ニン事件
1812   ナポレオンのロシア遠征
1825   外国船打ち払い令
1830   仏7月革命
1837   モリソン号事件
1840-42  アヘン戦争 南京条約
1841-43  天保の改革
1845    米国と清は望厦条約締結
1846    米国ジェ-ムズ・ビドル浦賀来航、開国失敗
1846-48  米墨戦争 米国カリフォルニア獲得
1848    カリフォルニアで金鉱発見
1851-64  太平天国の乱
1852   
1853-56 クリミア戦争
1853   ペリ-浦賀来航、プチャ-チン長崎来航
1854   日米和親条約締結
1855   タイと英ボ-リング条約締結
1856   クリミア戦争講和のためのパリ条約
     ハリス着任 
1856-60 第2次アヘン戦争・アロ-戦争、
1858   天津条約、 井伊大老就任 安政の大獄
     日米修好通商条約
     ムガ-ル帝国滅亡
1857-58 セポイの反乱  インド併合
     ロシア アイグン条約 
1859   ムラヴィヨフが来航    
1860   井伊大老暗殺、 北京条約、 イタリア王国成立
     ロシアが清より沿海州獲得
1861   ロシアの対馬占領
1862   千歳丸上海到着、五代友厚や高杉晋作が乗船, ビスマルクがプロイセン宰相になる
1863,1864 下関戦争
1863   ポ-ランド蜂起 
1864   太平天国の乱
1861-65  南北戦争
1863   薩英戦争
1866   第2次長州征討
1867   大政奉還
     オ-ストリア・ハンガリ-帝国成立
1868  明治維新
    エチオピアは英に敗北
1870  普仏戦争
1871  ドイツ帝国成立、 普仏戦争講和
1875  千島樺太交換条約
1877  西南戦争  


  2018-12-21





     三浦按針・ウイリアム・アダムス


 1564-1620

 ヨットで平戸を訪ねたときに三浦按針のお墓や宅跡があり。どうしてここに足跡があるのか不思議な気がしました。召し抱えられて三浦に領地をもらったことは知っていた。 彼はちょうど関ケ原の戦いの前に「漂着した」といわれるが、そうではなく、豊後を目指してズタズタになりながらも目的地に到着しました。
大阪で豊臣政権の大老をしていた家康と謁見して気に入られ、外交顧問として重用された。英国には妻と子供がいるのだが、日本人女性と結婚して長男と長女がいる。
帰国することもかなわずに平戸で亡くなった。なお按針は水先案内人の意味である。



   三浦按針 年表

1564 三浦按針ことウイリアム・アダムスはエリザベス女王の時代にケント地方の町、ジェリンガムに生まれた。
1576 12歳のころには、船長の資格をもつニコラス・デイギンズの見習いとして12年間過ごした。
1581 オランダ独立宣言
1588 その会社と海軍で働いた後、およし11年から12年の間アフリカの地中海北岸との貿易船で働いた。
1598年 6月 5隻のオランダ船団の1隻の航海士として乗り組み東インドに向かう。
 アフリカのギニア沿岸に停泊する。壊血病が蔓延して指揮官や乗組員の相当数が死んだ。1999年4月初め マゼラン海峡まで達した。(注. 喜望峰周りではなく困難な航路を航海した)冬になっていたので航海が困難で越冬をおこなう。
9月まで釘付けになり食料も尽き多くの仲間が飢えで死んだ。やっと海峡を抜けたが、船団は離れ離れになる。アダムスの乗ったリ-フデ号(エラスムス号)は仲間を待つために南緯38度チリ・モカ(Mocha)島に向かう。強風で錨を下ろすことができずに、サンタマリア島に変更した。そこで原住民の策略にかかり船長や弟のト-マス・アダムスや同僚を失う。錨を上げることさえ難しくなる人数になる。2-3日して僚船・ホープ号と会うことができた。彼らは同様にしてモカ島で20-30人の仲間を失っていた。このような状況であったが、スペイン人と交渉して必要な食糧を得た。アダムスの船では互選された船長のもとで協議し、積み荷の毛織物が売りさばくのがふさわしい地として、日本行が決定された。
1599年  11/29 日本に向けて出帆。数か月にわたって貿易風に恵まれた。北緯16度付近の島で8人が人食い人種の犠牲になる。北緯27度から28度で風向きの一定しない嵐に遭遇した。
1600年 2/24 僚船を見失う。
 3/24 ウナコロナ島が見えた。このころには這いずっても働けるものは9-10人であった。
 4/11日本が見えた。めざした豊後であった。動けるものは24人中5人にすぎない。出港時は110人。
 4/12 小型の船で日本人が乗り込んできた。1軒の家があてがわれて、食事も供せられ休むことができた。ポルトガル人が長崎よりやってきて、我々を海賊であり処刑を主張した。我々の事が家康に報告されて、ヤンヨ-ステンと2人が会見のため大阪に向かう。
 5/12に大阪に着く。家康に質問攻めにあい、交易目的で布教のためでないと理解を得る。カソリックとプロテスタントの対立も家康に述べる。
       41日間牢に入り釈放され船に戻る。 その間にリ-フデ号は大阪に曳航さ。積荷・備品などすべてはすべて持ち去られたが、家康が 戻すよう命令した。
      5万レアル相当の食糧や必需品を支給される。 江戸に行くよう命令される。
      これから2年間船に戻ること禁止された。お米と生活費を支給される。
      江戸湾に係留されたリ-フデ号が沈没する。
1602    オランダ、東インド会社設立
1603    江戸幕府
1604    伊東で80トンの帆船を完成させる
1605    オランダ、ポルトガルよりモルッカ諸島を奪う
1607    120トンの帆船を完成させる。この船はアカプルコにスペイン人遭難者を送り日本へ戻る。
1609    オランダが平戸に商館設立
1611頃  250石の旗本となる。横須賀逸見に領地を得る。オランダ船ブラック号平戸に入港。オランダが日本と交易するのに貢献した。
1613    イギリス船クロ-ブ号が通商を求めて来航した際に、家康への謁見と朱印状の交付を助けた。
      家康、全国に禁教令
      9/1 イギリスとの通商許可がおりた。 オランダ商館の手伝いを辞めてイギリス商館に勤める。
1614 クロ-ブ号での帰国許可が日英より出たが、司令官と折り合わずに見送る。
1616 4月 家康死去、 秀忠が鎖国体制を敷いたため、不遇となる。
1619  オランダ、ジャワ島にバタヴィア市建設
1620  平戸で死亡


 貿易風の風向     赤線は三浦按針の想定日本への航路

 

      2019-1-25

 

  平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」 長崎新聞

  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190402-00000002-nagasaki-l42

   2019-4-2

 



   初期徳川幕府の通商条約


 平戸 英国商館跡

三浦按針・ウイリアム・アダムスの東インド商会宛の手紙に刺激されて、ジェ-ムス1世の親書を携えて、1613年 5/11 英船クロ-ブ号が平戸到着した。平戸藩主・松浦鎮信が一行を歓迎する。8月になるとアダムスがジョン・セーリス以下の11名の一行を江戸に案内することになった。アダムスの見事な交渉のおかげで、イギリス・東インド会社総督ト-マス卿に対して、ポルトガルもオランダもうらやましく思うような通商特権を幕府と結ぶ。

1. 日本の全ての港での交易を許可する
2. 他国で行われるやり方で商売をし、滞在も出港も自由である
3. イギリス商品は無関税である
4. どこでも商館をたてることができ、それを自由に売却もできる
5. 日本で死亡した英国人の財産は船長あるいは商館員によって管理される
6. 英国人の犯罪は日本の法が適用されない。 
これらは1847年の英国議会中国関連貿易委員会報告にあるとのことである。幕末に結ばれた航海通商条約は維新後に不平等条約として、明治の外交の最大の懸案事項となり、その解消に多大の努力と時間を費やした。家康と結んだ英国との通商特権はその後余り知られていない。

1615年 8/31 商館設置以来初めてホゼアンダ-号を迎える。

 家康の死去に伴い1616年に日本に到着した船はすべて平戸に廻航するように変更になった。交易も平戸に限定された。 江戸・駿府・京都・大阪・長崎に派遣して商取引を行っていたが、1618年に平戸・長崎に制限された。 1623年英国は撤退を決めた。 商品の選択がいい加減で利益をだせないでいたのもその理由のひとつである。
 

    2019-1-31

 

 

 

 


 

 

   三島通庸・彌太郎・弥彦


 大河ドラマの「西郷どん」や放映中の「韋駄天」ではブログにアップするために個人的に調べてみようとする人物が少ないように思っている。

 ここで「精忠組」を取り上げています。その後の彼らのたどった人生には興味があります。資料の見つからない人も多い。 三島通庸は「韋駄天」で登場している三島弥彦の父親です。弥彦は3歳で父親を亡くしている。 

 三島通庸は薩摩藩の50石取りで精忠組に属し、寺田屋事件では謹慎の処置を受けた。
幕末にどのような活躍をしたかはわからない。鳥羽伏見の戦いでは小荷駄隊を率いた。賞典禄にも名前がないので維新には大きな活躍が見えません。明治になり県令になり最後は警視総監になる。薩摩閥の内務官僚であった。

 実際はどうであったか分かりませんが、大河では三島家は多くの雇い人に囲まれた富豪の家として描かれている。弥彦と金栗四三との対比で強調されているのかもしれません。

 県令あがりの家で、あんなに豪勢な暮らしができるとは思えません。明治21年に通庸が死亡しているので、長男の彌太郎がそれからさらに大きく育てたのでしょう。

 ドラマを見ていてその生活ぶりに興味を持ち調べてみました。



 三島通庸・みしまみちつね

1835-1888


三島彌太郎

1867-1919


三島弥彦


1886-1954


三島通庸・彌太郎・弥彦の年表

1835    三島通庸は薩摩藩士(50石)三島通純の長男として誕生
1862    寺田屋事件で謹慎
1867    彌太郎は長男として誕生、母和歌子
1868    鳥羽伏見の戦いで小荷駄隊を率いる
1871 明治5 東京府参事 銀座レンガ街建設に関与
1874 明治7 酒田県令 ワッハ騒動を終息させる
1876 明治9 山形県令 土木県令といわれる この後東北のインフラ整備を行う
1882 明治15 福島県令 福島事件で河野広中を逮捕
1884 明治17 栃木県令 加波山事件
1885 明治18 警視総監として武術を振興
        彌太郎マサチュ-セッツ農科大学入学、
1886 明治19 弥彦は誕生
1887 明治20 警視総監として保安条例を推進施行、子爵
1888 明治21 通庸死去
1897 明治30 彌太郎は貴族院議員になる
1911 明治44 彌太郎は横浜正金銀行頭取に就任
        弥彦は金栗四三と共に羽田運動場のオリンピック選考予選に参加
1912 明治45 弥彦はストックホルムオリンピックに参加
1913 大正2  彌太郎は日本銀行総裁就任
        弥彦は帝大卒業、横浜正金銀行入社
1919 大正8  彌太郎死去
1954 昭和29 弥彦死去

 プレバト俳句の「夏井いつき」さんではありませんが、 三島通庸氏は「維新の英傑」のなかにははいりません。 キッパリ。




     2019-2-20

  精忠組
 http://hayame.net/custom8.html#spb-bookmark-427

  維新英傑まとめ

 

 

 

   菅野覚兵衛・千屋寅之助


1842-1893

 司馬遼太郎「竜馬がゆく」を100回余を愛読したという武田鉄矢さんは、菅野覚兵衛が留学から帰国して一般水兵として海軍に入ったと話していました。 奇妙に思えたので、調べてみても、そのことは分からず。入隊後に、2年ほどで少佐になる。そのことは修正されて相応な待遇になり、不思議なことではありません。
 菅野覚兵衛は第2次長州征討時に、高杉晋作と伴にユニオン号艦長として小倉攻撃に参戦している維新の功有る海援隊士です。

 龍馬の妻お龍の妹・君江と結婚する。お龍は出刃包丁を持つて、騙されて遊郭に行きそうになった妹2人を救出した妹のひとりが君江です。 土佐人であり神戸海軍操練所で学び亀山社中を龍馬と作った菅野であるから海援隊の主力の人材となります。

お龍と君江像

 西南戦争での弾薬庫襲撃事件で、彼は弾薬を水没させて使用できなくする処置をしていますので、その責を負うことはないと思いますが、政府には不興をかったようです。

 龍馬が持っていた北海道開発の夢をついて福島の原野の開拓をする。 52歳で往生を遂げた。


  年表
1842 天保13 10/21  土佐藩の庄屋・千屋民五郎の3男として誕生
             土佐勤皇党に入る
1862 文久2 山内容堂を警護で上京
1864     龍馬とともに神戸操練所に参加
1865     龍馬や陸奥峰光と共に亀山社中に結成参加
1866     四境戦争で龍馬と共に社中の船ユニオン号艦長として参戦
1868 慶応4 お龍の妹・起美と結婚、 戊辰戦争で奥州に参戦
1869 明治2 いろは丸賠償分配金を持ち、海援隊士の白峰駿馬と共に米国ラドガ-ス大学に留学
1877 明治7 帰国して海軍省に入る
       西南戦争直前に鹿児島の造船所次長に赴任して、弾薬強奪事件を処理する
1884 明治17 海軍省辞職、 福島県郡山氏安積原野開拓に従事
1893 明治26 52歳で死去 


 菅野覚兵衛夫妻


   2019-3-8

 

 

 

  ラドガ-ス大学  日本人留学生
 

ラドガ-ス大学  
 

 長州や薩摩の幕末留学生は最初は英国をめざしました。薩摩の第2次留学は米国になりました。最初の留学生でも費用に困り米国に行くことになる者もでます。 新島襄や漂流民も米国で手厚い教育を受けることがあった。当時の東海岸の米国人は古き良き時代の気質を持っていて、東洋人でも気に入られれば生活や学資のめんどうをみてくれた。人種差別の国の印象が強いが敬虔なキリスト教徒の良き伝統に満ちた人々がいたと言えよう。

 ラドガ-ス大学・Rutgers Universityは州立大学で東部の名門校である。海外留学生の学費は年に300万円程で給付特待学生にでもならない限り庶民には進学できるものではない。
    
 明治の初期に海外へ留学した人は300-500人とも記録されているという。ラドガ-ス大学には多くの人員がそこで学んだ。 1867年、福井藩で最初の海外留学生、日下部太郎は時の越前福井藩主松平春嶽の命を受けて渡米し、ラトガース大学に入学した。日下部は学業では、素晴らしい成果を修めたものの肺結核に倒れ1870年26歳で没した。日下部の墓は今もラトガーズ大学のあるNew Brunswickにある。これが縁となり日下部の出身地である福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市関係にある。その後も幕末からの10年間で少なくとも300人以上の日本人がラトガーズ大学に留学したという。その中には松方コレクションで有名な松方幸次郎、海援隊隊士として活動した菅野覚兵衛白峰駿馬、さらに勝海舟の嫡男・勝小鹿や岩倉具視の息子(岩倉具定・具経兄弟)、最初に渡米した横井佐平太・横井太平兄弟がいた。

 以下、詳しく留学生を見て見よう。

最初の留学生である横井左平太・大平兄弟:横井小南の甥、1864 年坂本竜馬の手引きで勝海舟の神戸海軍 伝習所に入るが、翌年閉鎖された後、1865 年長崎済美館に移りフルベッキから英語 を学んだ。1866 年フルベッキの斡旋でラトガースのグラマースクールに留学するが、 幕府の渡航・留学解禁前だったため変名での密航留学だった。留学資金は横井小楠 の弟子徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)が実家から調達提供した。初めての日本人留学 生の受入実現についてはオランダ改革派外国伝道局総主事フェリスが不足資金の募 金も含めて懇切に面倒を見た。これを皮切りに、以後続々とラトガースに留学生が 送り込まれ、その総数は幕末・明治初期の海外留学生の半数に上った。左平太は 1869 年に薩摩藩英国留学生だった松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校 に転校する。日本人の入学が禁じられていた米国の兵学校に入学できたのは、フェ リスが動いて米国上下両院の個別決議を取得出来たからだった。 大平は結核のため 1869 年帰国、熊本洋学校の設立に尽力し、フルベッキに外人教 師斡旋を依頼する。しかし、キャプテン・ジェーン着任した 1871 年に大平は病没し た。なお、小楠はフルベッキを長崎の自宅に訪ね西洋事情等を聞いていた。横井兄 弟を嚆矢に、ラトガースに留学するものが相次いだ。

 日下部太郎:福井藩士、横井兄弟同様済美館でフルベッキから英語を学んでいたが、 1866 年海外渡航が解禁されたのを受けて、藩主松平春嶽の命で 1862 年ラトガースに 留学する。グラマー・スクールで当時学生だったグリフィスから英語・ラテン語 を学んだ後、大学 2 年に編入されるが、成績極めて優秀で首席を通した。1780 年卒 業目前で病死したが、大学は卒業と認め、名誉あるファイ・ベータ・カッパ会員に も推挙された。グリフィスがその後福井藩の洋学校教師として来日するきっかけは、 この日下部との出会いだった。

岩倉具定・具経兄弟:岩倉具視の次・三男、長崎致遠館を経てラトガースに留学。

服部十三:岩倉兄弟に随行、ラトガース大学を卒業。帰国後岩手、広島、長崎、兵庫 県知事。

折田彦一:岩倉兄弟に随行、プリンストン大学卒業。帰国後三校校長。

山本重輔:岩倉兄弟に随行、ラトガースを経て、ニューヨークのレンセラー工業学校 卒業。帰国後工部省高山寮、日本鉄道会社技師長。

勝小鹿:勝海舟長男。ラトガースから松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校に転校

高木三郎:勝小鹿に随行、ラトガース留学、米公使館書記官、養蚕業振興。

富田鉄之助:勝小鹿に随行、後日本銀行総裁、東京府知事。

高橋是清:勝小鹿に同行、米国到着早々奴隷扱いされて翌年帰国、フルベッキが大学 南校時代に森有礼に託され高橋是清を自宅に預かる。後大蔵大臣、総理大臣)、

鈴木知雄:勝小鹿に同行、高橋是清と共に奴隷扱いされて翌年帰国、後日本銀行出納 局長

畠山義成:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプ40を経て、ラトガー ス大学に入学、その後岩倉使節団に現地参加。帰国後東京開成学校(現東京大 学)初代校長。

松村淳蔵:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプを経て、ラトガース 大学に入学。その後勝小鹿と共にアナポリス海軍兵学校に転校。帰国後海軍兵 学校長、海軍中将。

吉田清成:薩摩藩英国留学生、アメリカのハリスのキャンプを経て、ラトガース大学 に入学。アナポリス海軍兵学校を目指すが断念。帰国後大蔵小輔、米国公使、 農商務大輔など。米国公使の時、寺島外務卿の下で条約改正交渉に従事。

菅野覚兵衛:土佐勤皇党、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国して海軍省、郡山で原野開拓。

白峰駿馬:長岡にうまれる、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国、明治11 白峰造船所を経営。



 ラトガース留学生が並外れて多いのは、フルベッキ以外にもオランダ改革派・ラトガース大学人脈が多数来日していたこと(初に来日した三人に続いて、バラ、スタウト、クラーク等の宣教師、福井藩校教授に招聘され、後大学南校に転じたグリフィス、文部省顧問として招聘されたモルレー、2代目米国特命全権公使のブルイン等)と、受入側のオランダ改革派外国伝道本部総主事フェリス父子の積極協力に負う所が大きい。

 安政 5 年(1858 年)に日米修好通商条約調印されると、米国プロテスタント教会三派が一斉に日本に宣教師を派遣した。 安政 6 年(1859 年)に米国の聖公会がリギンスと C.W.ウィリアムズを長崎に、長老教会がヘボンを横浜に、オランダ改革派がブラウンとシモンズを横浜に、フルベッキを長崎に派遣した。 蘭学から英学 への転換が急務だった幕府や諸藩は、競って宣教師を英語教師に雇った。このような 情勢下長崎に着任した米オランダ改革派の宣教師フルベッキは、幕府洋学校の英語教 師に、そして佐賀藩洋学校には校長として雇われた。
フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck,1830-1898):1859.11 長崎に着任。オランダ生まれで、 22 歳の時アメリカに移住しエンジニアとして就労。26 歳で長老派のオーバン神学校に入学。在学 中にブラウンの教会でドイツ人向け説教を手伝っていた。この年 29 歳で卒業と同時に、「3 人目 はアメリカナイズされたオランダ人」の選考基準に叶いオランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれた。オランダ系フルベッキのフルベッキは人材のあつまった長崎に派遣されたことにより、大隈重信など有用な人材を育成し、初期の明治政府の顧問として大きな活躍をした。

 以上 岩崎洋三さんによる


    2019-3-10


  明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信 大幡さんによる

  http://oflag.sblo.jp/article/182250790.html?1552181229 



  龍馬の蝦夷地視察
 

 神戸海軍操練所


 坂本龍馬は蝦夷地に並々ならぬ関心を持っていました。妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。

 神戸海軍塾の同志4人を蝦夷地視察に送り出している。


安岡斧太郎・金馬
1839-1864 土佐勤皇党 天誅組挙兵で処刑  

小松小太郎
1844-1863 蝦夷地に渡る船中で発病し函館で病死

能勢成章・達太郎
1842-64 禁門の変で自刃

北添桔磨・きたぞえきつま・本山七朗
1835-64 高知高岡郡岩目地村の庄屋の5男、16歳で庄屋色を継ぎ、19歳で大庄屋となる。文久3・1863 本山七郎を名乗り江戸にでる。 池田屋事件で自刃
映画「蒲田行進曲」の階段落ちの彼を描いたシ-ンが有名であるがこれは創作である。


 龍馬のこの視察は、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。
龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている]。

 池田屋事件と禁門の変で操練所の仲間が加わったことにより操練所が閉鎖になり混乱したことにより蝦夷地の件は実行されなかった。暗殺されてしまいましたが、龍馬の祖尾後の活躍で維新の功業がなったわけで、蝦夷地移住が行われていれば、日本の歴史も違ったものになっていたでしょう。

北海道坂本龍馬記念館

 明治になり親族が北海道に移住している。海援隊同士の菅野覚兵衛も夢を引き継ぎ福島の原野開発に投じている。


   2019-3-17

 

 

   大村藩と渡邉昇

 大村藩は2万8千石(幕末5万9千石)の小藩である。横瀬浦や長崎にポルトガルを受け入れキリシタン大名であった。秀吉と家康に従ったことにより伝来の領地を明治まで維持した珍しい藩である。長崎を領した藩であるため、佐賀藩と同様に海外事情に敏感な藩であり事後にまでその影響を受けた。 幕末には藩論を勤皇討幕にまとめて、鳥羽伏見の戦いでは50人の兵であったが大津方面に進出して貢献した。賞典禄では薩長土に次ぐ4番目の3万石を 受給した。


1838-1913

渡邉昇は上士の家に2男として誕生。江戸剣術修行で桂小五郎、近藤勇と親交する。帰藩後に勤皇・三十七士同盟を結成。長崎で坂本龍馬に薩調同盟の必要を説かれ、長州への働きかけを頼まれる。 兄の清と共に大村勤皇党を率いて西郷・大久保・高杉・桂と交流、尊王攘夷運動に傾倒した。 大村騒動で佐幕派を粛清して藩論を尊皇にまとめあげる。 明治になり知事や元老院審議官に就任。子爵。近代剣道の発展に尽くした。

 鞍馬天狗のモデルではないかといわれ、剣術にすぐれ幕末には梅沢武平とともに富永快左衛門を暗殺した。品川弥二郎の命令で盛んに人を切ったといわれる。晩年には斬った亡霊に悩まされたという。維新の功労者すべて交わった人であり、おまけに近藤勇からわざわざ危険の知らせが入るような人物だが、世に余り知られていないのは人斬りの印象が強いせいでしょうか。


   2019-3-20

 

 

   坂本龍馬と近江商人  武田鉄也氏による

 

 龍馬家紋


 元坂本家の家紋


 明智光秀、加藤清正、太田道灌らの家紋



 坂本龍馬の家紋「桔梗の紋所」ル-ツは近江で明智光秀という。以前の姓は大浜のときの紋は丸に田であったというから明智とは関係がないのでしょう。大浜氏が才谷屋という稼業で成功して郷士の坂本家から株を買ったときに家紋を変えて郷士になった。龍馬の先祖は坂本家ではない。しかし近江から流れて来たのでしょう。

 没落した武士は造り酒屋や醸造業・商家に子孫が転進しているのは良くあることだ。 龍馬の家は近江商人に続がりのある家と思われる。 それゆえに、龍馬を「そっと見つめる人」が土佐にはいた。

 近江商人は金融ネットワ-ク、流通ネット 廻船問屋に取り組んでいる集団です。龍馬が船を使った交易に携わるよう行動しているのは不思議なことではない。継母の伊與が三度結婚していて2度目の家が廻船問屋の川島家であったので影響・支援があったかもしれません。

 金銭的には裕福であったが土佐の郷士の脱藩浪人にすぎない龍馬が福井藩主に謁見できたり、幕府要人・勝海舟への松平春嶽の紹介状を得られることは普通ではありえません。何らかの近江商人のネットワ-ク支援があったと思われます。

 「龍馬が行く」を百回も読破した武田鉄矢氏が、新しい視点・近江商人ネットワ-クを述べられています。 YouTubeで彼のTBSラジオ番組がおもしろい。「今朝の3枚におろし」という番組で彼の読んだ本を紹介しています。 最近にこれを知るまで「単なる少しエッチな芸能人」であると誤解をしておりました。講談のような上手い語り口は知られていましたが、本物の読書家インテリ芸能人であったと今では思います。


 武田鉄也・司馬遼太郎「竜馬が行く」 TBSラジオ
 https://www.youtube.com/watch?v=eVE8q1BNVso 89分

   2019-3-23


 

 

  忠勇隊


 8.18 の政変で長州が京の政治の中心から追われたころ。全国から集結して京都でうごめいていた尊皇攘夷の志士は長州への下った。七卿落ちでで随従したものもいる。禁門の変が起こるとそれらの勤皇攘夷の志士は忠勇隊に参加した。敗戦とともに生き延びたものは再び長州へ参集した。禁門の変後には忠勇隊を再編することになる。 薩長同盟や高杉晋作の功山寺挙兵に貢献する。坂本龍馬の海援隊に加入したものもいる。 天誅組挙兵、高野山挙兵、英彦山義挙などにも参加した隊員も多く、エネルギ-だけで先走った人が禁門の変で自決や藩の佐幕派による斬死に追い込まれた。しかし草莽崛起の人であるのは間違いない。幕末の歴史の本流を担った人々により成った忠勇隊である。郷土史家がもっと注目してくれればもっと多くのことが分かるのにと思うばかりだ。


禁門の変の忠勇隊

総督  真木和泉
隊長  真木外記
    松山深藏
副隊長  上岡胆治(兼任)
伍長   黒岩治部之助
     那須俊平
     上岡胆治(兼任)

禁門の変後の忠勇隊

隊長    中岡慎太郎(のち総督)
       真木外記(のち総督)
  軍司    長谷川鉄之進
  伍長    三瀬深造
        黒瀬一郎助
        池内蔵太
        藤四郎
        息吹周吉
        北畠四郎


 忠勇隊士 (出身別)


土佐

 

中岡慎太郎  1838-1867  龍馬と共に暗殺される。 陸援隊隊長
松山深蔵  1737-1864 庄屋の次男として誕生、医学を大阪で学ぶ。江戸へ自費で行く。禁門の変で敗退して自刃27歳
黒岩治部之助(黒岩直方)  1834-1900 三条実美と共に下関に、黒岩涙香は甥にあたる。 明治以降は司法で活躍 
楠本文吉郎   五卿が赤間へ移る際に随従する
南部興夫    五卿随従者
伊藤甲之助  1844-1864 七卿と西下、禁門の変で重傷を負い自刃21歳
利岡玄兵衛  七卿と西下 中岡慎太郎より依頼で資金を白石正一郎から受け取る


那須俊平 1807-1864   天誅組の那須信吾の養父、禁門の変で銃撃で倒れる58歳
窪田真吉(真田四朗)  魚の行商人だった
尾崎幸之進   禁門の変で戦死25歳
中平龍之助 1842~1864 梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として産まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。文久3年脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い自決した。22歳
安東真之助  禁門の変で敗退し天王山で自刃22歳
上岡胆治  禁門の変で負傷して自刃42歳
柳井健次  禁門の変で負傷し自決
玉川壮吉  なし
上田宗児   天誅組には家財を持って応援

息吹(伊吹)周吉(石田栄吉)  1839-1901    医師の家に誕生、適塾で学ぶ、天誅組で山と挙兵に参加、長州へ、禁門の変で負傷、七卿落ちで再び長州へ、海援隊士、下関戦争でユニオン号指揮、維新後県令を歴任、陸奥宗光が農商務大臣のときの次官。
池内蔵太  海援隊員、ワイルウエフ号遭難で死亡
島並間  天誅組に参加、作州で盗賊と間違えられ最後
安岡金馬  海援隊員
能勢達太郎  禁門の変で敗退し天王山で自刃23歳
大利鼎吉   伊東甲之助の切腹を介錯
井原応輔   なし

浜田辰弥(田中光顕) 1843-1939 中岡慎太郎死亡の後陸援隊率いる。宮内大臣などを歴任
那須盛馬(片岡源馬)   なし
橋本鉄猪   なし
池大六(山中敬三)  なし
三瀬深蔵  なし
清岡半四郎(公張) 1841-1901  七卿落ちに随従、禁門の変に参加、新政府に出仕
千屋菊次郎  禁門の変で敗退し天王山で自刃28歳
田所壮輔(谷島次郎)  土佐の砲術家
柳井健次  禁門の変で負傷し自刃23歳
細木核太郎   なし


久留米

 

真木和泉・保臣 1813-1864  神職に生まれ、水戸の金沢正志斎に学ぶ、藩政改革を建白して10年の蟄居、島津久光の上洛で上京、寺田屋事件で幽閉、七卿落ちで長州へ、禁門の変で敗走して自害。
真木外記・鏡五郎  和泉の実弟、
真木菊四郎  和泉の実弟 池内蔵太により暗殺された、
井上善三郎  なし
佐田剛之助  明治15年に三条実美家文書に建白書「政党者の浮説矯正」を提出
淵上謙蔵  池田屋事件で負傷、 西郷に長州に寛大の処置を依頼
宮田半四郎 禁門の変敗退で長州へ、鳥羽伏見の戦いで重傷
松浦八郎 久留米勤皇党、七卿落ちで長州へ


筑前

藤四郎  野村望東尼と共に監護された。玄海島に流罪、野村望東尼を姫島より救出
川辺又四郎  なし
堀六郎・岡小六 1834-1862  生野挙兵に参加、禁門の変で敗退して長州へ、福岡に戻り玄海島で処刑。
斎藤要七  1842-1862  七卿落ちに従動、禁門の変で敗退して周防に帰る。福岡に戻り玄海島で処刑。
大神壹岐  乙丑の獄で斬罪
小芝三郎兵衛  なし
小山田三郎  なし
中村恒次郎  福岡藩士、福岡舛木屋牢獄から兄・中村円太を救出し長州へ、禁門の変で戦死24歳


彦山

鬼谷嗔  なし
柏木民部 1838-1871 英彦山の僧徒、7卿落ちで長州へ、維新後司法省に勤める、
安達昇    英彦山僧、 英彦山義挙
安部豪逸 1834-1883  英彦修験僧  英彦山義挙から長州に逃れ、禁門の変に参加、


肥後


黒瀬一郎助  1836-1868  熊本藩足軽、横井小楠暗殺事件の吉田平之助死亡の仇討ちとされて殺される。 禁門の変参加
萱野嘉右衛門・藤村紫郎 1845-1909  7卿落ちで長州へ、禁門の変で敗走、高野山挙兵に参加、北越戦争参加、県令や知事を務める。兄は黒瀬一郎助。
国友常吉  なし


対州

青木与一郎  元治元年対馬藩を脱藩して長州へ、禁門の変で戦死29歳
津田愛之助  対馬藩士、禁門の変で戦死18歳
岩谷藤四郎  なし


阿波

中山八郎  なし
中山竹次郎  なし
中山多加二郎  なし


伊予

飯塚亀太郎  なし
深尾源次  なし


沢田震太郎  なし
沢田真蔵  なし


大和

林芳太郎  なし
北畑四郎  なし


越後

長谷川鉄之進


江戸


中川児二郎  なし


讃岐

南長次郎  なし


丹波

今枝恭蔵  なし


豊後


菊地三郎  なし


出身地不明


三輪繁之助  なし

   2019-4-9

 


 

   庄屋と志士 準備中


 土佐
吉村虎太郎 1837-1863  梼原で番人大庄屋 天誅組
中岡慎太郎 1838-1867 北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男
前田繁馬 1835-1863   松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。 天誅組
北添佶磨 1833-1864  岩目地村庄屋・北添与五郎の五男 土佐勤皇党 蝦夷地探査 池田屋死亡
細木核太郎  天保9-明治37 新居村庄屋・細木繁蔵の長男として誕生。土佐勤皇党、遊撃隊員として功山寺挙兵に参加。彰義隊の戦いで負傷、新規隊士として会津で戦い病で離れる。中央政界とは無縁で高地にすみ地方自治に勤める。
上岡胆治  高岡郡津野山村庄屋、禁門の変で負傷して自刃42歳
松山深蔵  1737-1864  高岡郡津野山郷北川村庄屋 高知城城下にて医術を学ぶ。一時は半山郷で開業するが、千屋菊次郎とともに大坂へ医学を学びにいく。禁門の変で敗退して自刃27歳




 佐賀
古賀利渉・祇園太郎  -1868 小城郡西郷庄屋 


長州
吉富簡一・藤兵衛 1838-1914  功山寺挙兵支援
林勇蔵 1813-1899 勤皇大庄屋



立石孫一郎・大橋敬之助  備前美作庄屋 第2奇兵隊


 福岡
徳重正雄  宗像郡徳重村庄屋  西郷と交流 独留学



中島太郎兵衛  、和田山の高田村 の大庄屋  生野挙兵


北垣晋太郎  能座村(養父市)の庄 屋  生野挙兵 鳥取に逃れ士官 京都府知事や県令

 京都
山口薫次郎 1815-1873  塾を開き志士と交わる。長州のために交易、息子・信太郎と長州にわたる。

 高須藩
松尾多勢子 1811-1894  伊那郡(飯田市)の庄屋竹村(北原)常盈の娘として誕生、18歳松尾元珍に嫁ぎました。7人の子を育て、50歳で平田派国学を学ぶ。52歳で京都に向かう。久坂玄瑞や品川弥二郎、あるいは岩倉具視などとも親交を持つ。足利将軍の木像から引き抜いた首を賀茂川に晒すに関係する。長州藩邸に逃げ込み帰郷。1867再び上京、岩倉具視で家政を取り仕切る。2人の息子を戊辰戦争に従軍させる。1869に郷里へ戻る。稼業の立て直しに従事。


 長岡藩
長谷川鉄之進 1822-1871 越後長岡藩栗生津村庄屋に生まれる。26歳で江戸に遊学し浅川善庵に師事。尊皇攘夷の志士として非柳燕石と親交。攘夷実行で上京。七卿落ちで長州へ。禁門の変を戦う。功山寺挙兵に参加。相楽総三らと江戸薩摩浪士隊。北越戦争参戦。

 武州入間
竹内敬(ひらく)・小川嘉助 1828-  名主を務める小川家長男として誕生。江戸で浅川善庵に儒学を平田鉄胤に国学を学ぶ。

 上総
野城廣助 天保14 誕生

 美作
安藤鉄馬 美作国英田郡庄屋、生野銀山事件に関与、池田屋の事件で難を逃れる、禁門の変に長州に与して死亡22歳。







 

   野崎家旧宅・児島



 岡山県倉敷市児島にある野崎家旧宅・旧野崎家住宅を見てきました。 児島市がいつのまにか合併して倉敷市になっている。 児島は瀬戸大橋の本土側ですが、架橋熱のほとぼりも覚めたので、今では児島ボ-ト位しか認知されていませんのでしょうか? ここをさほど期待していなかったのですが、500円の入場料以上のものがあります。近くに行った方は是非ご覧になるのをオススメいたします。

 児島半島(かっては名のとうり島であった)の南側を中心とした広大な塩田開発を野崎武佐衛門が行い塩田王となり大きな資産を築いた。瀬戸内の塩田はどこもそうだが、おもかげはない。ここ跡地を埋め立てて広大な敷地が生じたせいか、今は広々としたJR児島駅になったり、ス-パ-マ-ケットが量販店やたらと多く、さぞかし激戦区になっていることでしょう。

 明治になり納税額の多さによ貴族院の議員に選ばれている。 その彼が3000坪に及ぶ敷地に長屋門や蔵、枯山水庭園、茶室、42mの奥行のある居宅などがみられます。 台所も、浴室、便所なども当時のままに残っております。 また調度品や豪華な漆器など貴重なものも見られます。

 

 

 

 

 

  野崎武佐衛門 1789-1864





  国指定重要文化財 



  豪華な調度品




 庭  珍しい石がある 




 茶室 


  2019-7-7



 




   西郷陣屋


 

 延岡の北に西郷隆盛宿陣跡資料館があります。延岡の観光案内所にそれをを尋ねると、電車やバスで行くには不便なところであった。それでタクシ-で訪れることになる。 帰りのために、タクシ-を30分待ってもらい、取り急ぎ資料館を見ました。

 大河ドラマ「西郷どん」で妻イトがここを訪ねる場面がある。それはドラマを盛るためのフィクションであるという。 ここで西郷は軍の解散をして、少数の従う人間と伴に鹿児島をめざした。 大将服をこの近くで焼いたというが、その地には碑がある、今回はそこを訪ねていない。

 資料館は2つの建物に渡って展示されている。最後の軍議の場面を人形を使って再現している。無料の割には充実している展示である。

 西郷を見る人の器量次第で、彼のことが大きくも小さくも見えるというが。 今だに、小生は彼のことが分からない、納得がいかない。 大人情の人であるが、目的を遂げるためには大非情の人でもあった。 小人には考えが及ばずと言ったところでしょう。

 


 資料館




 軍議の場面




 陸軍大将服




 展示物



    2019-7-13







    高梁散歩


 




  山田方谷家塾跡  牛甍舎跡




 




 




 



 



 




  花屋宿 案内板



 武家宿 花屋跡 現在郵便局



 頼久寺



  薬師院・松連寺



  藩校 有終館跡 現在保育園



  高梁基督教会堂



 



 



 



 





 

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