郷土史・歴史 3


 


 三角

出水麓 武家屋敷

コレジョ

入来麓 武家屋敷

加治屋町

崎津教会  世界遺産

磯庭園と反射炉

上甑 里武家屋敷と亀城

西郷南洲顕彰館と西郷洞窟

喜入城と麓武家屋敷

龍馬の温泉

坊津歴史館と鑑真記念館

霧島神宮

串木野城と串木野麓武家屋敷

下甑 手打麓武家屋敷

知覧城と知覧麓武家屋敷

蒲生麓武家屋

垂水城と垂水麓武家屋敷

加世田麓武家屋敷別府城

調所広郷邸跡

今和泉島津家

水俣病資料館

伊集院散歩 徳重神社、妙円寺、小松帯刀墓所、有馬新七邸跡

高屋神社 内之浦

徳富蘇峰生家

田子島台場

 

 

 

 

 

 

 













       三角

  宇土マリ-ナ最寄りのJR赤瀬駅よりあまくさみすみ線に乗り三角へ行く。 三角は終点の三角港と明治に開港した三角西港地区に分かれる。

 

  三角西港

 三角駅よりタクシーにて西港地区に向かう。 レトロな雰囲気を残す風景が見える。 現在の港の中心は三角の新港に移っており、ここは観光地としてある。

 熊本県には良港がなく、それゆえに、明治の近代港として国家的事業として、三角西港は明治20年に開港された。 オランダの築港技術が使われ当時の石済み埠頭、水路や橋などが残っている。国の重要文化財であると共に世界文化遺産となっている。。

 

 浦島屋 ホテルの復元建物




 旧三角海運倉庫

 


  旧高田屋回漕店 

 

 

 石済み埠頭

 

  



   三角(東港)


 明治32年に九州鉄道の終点として発展。 西港は土地が手狭のため急速に廃れ、東港が物流の中心となった。 天草への玄関口としての利用も天草諸島に架橋が進み、今ではっこはフェリ-としての機能も縮小した。


  フェリ-タ-ミナル




   三角ヨット泊地


  三角西港  青丸ポンツ-ン

 西港東寄りにポンツ-ンが整備されている。



  三角東港  青丸は候補地




      2023-7-5






            出水麓 武家屋敷


  肥後との国境近くの重要拠点に出水麓はある。 亀ヶ城(出水城)の麓の武家屋敷であるが、肝心のお城は案内板も見当たらず見ていない。 立ち入り禁止になっているとも云う。  ここには150軒があったと言い、薩摩藩最大の武家屋敷群であった。

 

 

  亀ヶ城 模型

 

 現在の出水小学校に役所に当たる仮小屋があった。 出水は島津の直轄領であったため、地頭が派遣されていた。

 


  出水御仮屋門  現出水小学校



  竹添邸



  竹添邸 馬小屋



  税所篤の家かと思っていたが、西郷らと豪中仲間であったとされるので、ここ出水麓で育ったのではないようである。 150石とか200石程度の薩摩上級承久武士の家である。 彼は縁続きの一族になるのであろう。



  税所邸



  税所邸  内部



       2023-7-6






      コレジョ ・セミナリオ


 コレジョは英語でカレッジですので大学にあたります。キリスト教布教のための教育機関にセミナリオは中学、コレジョは大学に相当します。

口之津と天草の大江をヨットで訪れ、これらを見て来ました。 これらの施設は他に大分や安土にもあった。

 

  島原のコレジョ

 

 

  天草コレジョ

 

 

  1. 加津佐 コレジョ・セミナリオ

 1590年・天正18年 加津佐にコレジョ・セミナリオが建設された。天正少年使節が持ち帰った印刷機で印刷が行われた。この地が我が国活版印刷

の発祥の地である。 案内板があるのみである。

 

  加津佐コレジョ・セミナリオ跡

 


 




  2. 有馬 セミナリオ

 1580年に建てられた。天正(少年)遣欧使節はここの第1期生であった。 日野江城付近にあったのですが、どこにあったのかは諸説ある。

 ここも石碑と案内板があるのみで、確定した位置ではない。



  有馬セミナリオ跡





  3. 天草  コレジョ (1591-1597)

 

 大江からタクシーにて天草コレジョ館に行って来ました。後で知ったので訪れていませんが、コレジョ跡は近くの別の地である。天草市河浦支所(コレジョ公園)あたりにあったという。

 コレジョ館は島原にあるコレジョとセミナリオ跡とは違い、充実した展示が見られる。 キリスト教の教育には音楽は重要で、ここには当時の楽器のレプリカが見られる、印刷機も展示されている。


  古楽器



  活版印刷機



 天草コレジョは加津佐より移転してきたものであるが、その場所は河浦説と本渡説がある。激しい論争があったようだが、今のところは河浦説が有力であるという。 ここから長崎にコレジョは移る。








          2023-7-9






            加治屋町   英傑の町内


 司馬遼太郎さんの小説でこの加治屋町のことを知った。行ってみれば確かに今住んでいる自分の町内の広さである。 この狭い区域の人々で司馬さんが云うように「明治維新から日露戦争までこの町内の人でやったようなもの」であるので、小生にはすごいことだと思う。 松下村塾生も小さい集団だが、なにか優れたものがあるのなら、ここのように歴史が動かせるということでしょう。 どちらも教育のなせる結果だったのである。  薩摩の郷中教育は維新後には生かされていない。薩摩や長州の教育の良さを維新後に制度に組み込まれることはなかった。それらの遺産の上に、それが機能する期間だけ日本は恩恵を受けたというべきでしょう。 継続発展させることができなかった。 

 

 

  加治屋町にある偉人の誕生地等は

 1. 西郷隆盛・従道 誕生地

 

 2. 大久保利通 生い立ちの地

  

 3. 東郷平八郎 誕生地

 

 4. 大山巌 誕生地

 

 5. 吉井友実  1828-1891

 

 6. 村田新八 誕生地

 

 7. 篠原国幹 誕生地

 

  8. 黒木為楨 誕生地

 

 9. 田代安定 1857-1928

 熱帯植物研究の第一人者

 10. 井上良聲 いのうえよしか 1845-1929

 海軍元帥

 

 

     2023-7-11






           入来麓   武家屋敷


 JR川内駅よりバスに乗り小1時間で清色城と入来麓武家屋敷に着く。 こじんまりまとまっているのでお城を含めて徒歩で雰囲気を楽しむことが出来た。 清色城の空堀は難攻不落のお城を思わせる。 見ものだ。




  案内板 



  茅葺武家屋敷門



  玉石垣とその上の生垣で区割りされている



  旧増田家 



 


     2023-7-13









       崎津教会   世界遺産


  崎津教会の見学を終えてコロナ前の2018年春巡航以来の念願の世界遺産の教会巡礼を完結した。

 

  崎津教会



  内部   畳がひかれていて珍しい内装である



 天草のひなびた湾に見える天主堂と言えば、旅情をそそる絵である。 ヨットでそこに訪れることが出来て喜びである。 しかし、ここは安心して係留できる場所が手狭である。 係留場所を探していて湾奥で軽い底すりを経験した。 入り口近くの漁協ポンツ-ンに教会を見に行く短時間の許可を得てもやいを取ることになった。 停泊は隣の大江に行き一夜を過ごした。



  赤丸は臨時係留地



        2023-7-12




       磯庭園(仙巌園)と反射炉


 島津斉彬の幕末の殖産興業策には興味を持っていた。 その集成館事業の地磯庭園を訪れた。 磯庭園は仙厳園ともいい、島津藩の桜島を借景とした別邸である。 そこには紡績工場、溶鉱炉、機械工場や反射炉などがある。


  桜島を望む磯庭園



  磯御殿  300円増しで内部がみられる




  曲水の庭




    集成館

 

 薩英戦争で消失したというが、その後に再建された。 水力で動力を動かしたので水路の跡もある。 炭で火力を得たところから、寺山炭窯跡という巨大な炭焼き窯を作った。



  集成館周辺案内板




  日本初の近代工場群 古写真




  反射炉跡



 造船所跡

 

 

  紡績所跡碑

 


   技師館(異人館)


 異人館のボランテイア婦人ガイドさんと、なぜ明治以降にこれだけの先駆的な工場があったのに、鹿児島はその後先進県になれなかったのを話した。



 

        2023-7-15

 

 

      上甑 里武家屋敷と亀城

 

 里港の北部漁港に停泊した。 意外と潮汐があり2-3m、赤丸にある階段位置につけるのがふさわしい。  すぐス-パ-がある。

 

  上甑 里 赤丸停泊地、青丸は候補地

 

 

 

 

 

 

      亀城

 

  亀城は里小学校の裏手の小山にある。 小学校は仮屋(代官所)の跡になる。  承久の乱(1221)で戦功をたてた小川氏が築城したといわれる。 13代370年間ここを本拠として治めた。 この南方200mに鶴城があり2つ合わせて鶴亀城といった。

 

  亀城 案内板



 





  本丸らしき高台に展望台がある




    里麓 武家屋敷


  亀城の麓に武家屋敷がある。 玉石垣と生垣でできた通りがある。 大きな規模のものではない。





  案内板 




 



  武家屋敷入口



     2023-7-17






        西郷南洲顕彰館と西郷洞窟



  西郷隆盛の関連地図


  鹿児島城を訪ねたときに西郷洞窟、終焉の地、銃弾跡,私学校跡を見た。 西南戦争は私学校から城山で激戦があったのが分かる。最後は西郷洞窟から終焉の地に行き、そこで西郷隆盛は亡くなられたのである。

 ほどなく、西郷南洲顕彰顕彰館を訪ねた。 南洲神社・公園の一角に顕彰館は位置する。 西郷の思想・生涯・功績などが紹介されている。

 凡な小生には今もって西郷さんのことは分からない。それゆえ凡なのであろう。 西南戦争においても維新の時にはあれほど謀議をつくしたのに、戦闘を指揮したわけでもなく、策謀をつくしたわけでもない。 やりようによっては勝てたかもしれないのに、明治以降の西郷による違った世界を見てみたいように思えます。




  私学校の案内板 「おはんら何たることをしでかしたか」



  私学校跡



  西南戦争の銃弾跡 




  西郷隆盛の終焉の地



  西郷洞窟





      西郷隆盛  磯田道史サンによる

      西郷陣屋




        2023-7-19

 

 

 

     喜入城(給黎城)と喜入旧麓武家屋敷



  喜入は石油タンクが多くあり、沖にはそれに石油を運んで来た大きな大きなタンカ-が見られる地である。 給黎城は肝付氏の居城で会ったが、1411年に伊集院氏の所領となり、さらに1414年には島津久豊がここを攻略した。 この時に喜入と地名を改めた。1595年に肝付氏が入場し1653年に廃城となる。

 給黎城は東へ伸びた3つの尾根にそれぞれ曲輪を設け、北之城、本丸、南ヶ城(下図参照)と呼ばれる。 現地を訪れたが明確な確認はとれなかった。


 城下町には水路があり、今でも麓武家屋敷として見ることが出来る。 



  給黎(きいれ)城



  麓から給黎城を望む




 



 



  堀切、土塁



      2023-7-21

 

 

       龍馬の温泉 塩浸温泉

 

 司馬さんの小説でしっかり有名になった。 日本初の新婚旅行で坂本龍馬夫妻が立ち寄った塩浸温泉に行ってきました。 有名になるまでは村の温泉場であったようです。 その雰囲気を残しています。 近くに宿泊施設も見当たらないので、立ち寄り湯なのでしょう。 当時は川沿いに旅館があったというけれど名残は感じられない。 入浴料380円。 霧島温泉からタクシーで3000円余りなので鹿児島空港からの本数の少ないバスか車が便利でしょう。 泉質は茶色の炭酸水素塩泉とのこと。温泉には詳しくないですが、良い温泉だとカミさんが述べていました。

 

 

 



  龍馬とお龍の碑




  川沿いにある





       2023-7-21





        坊津歴史館と鑑真記念館


 串木野からわざわざNさんが枕崎に来てくれました。 彼の車で坊津歴史資料館と鑑真記念館に連れて行ってもらいました。



  枕崎から野間池 地図



  坊津は日本の三津と言われる博多津、安濃津、坊津の一つである。飛鳥時代から遣唐使船の寄港地であった。 鑑真は近くの秋目(秋妻浦)に上陸した。 明や琉球との貿易が盛んでした。 ザビエルが最初に上陸した地でもある。r度時代になると薩摩藩の密貿易の知となる。

 この地を訪ねたいとの気持ちがあったが、適当な泊地が見つけられずに諦めて枕崎に行くことになった。



    坊津 ヨット泊地



  青丸は停泊候補地

  槍着けだと置けそうな気が現地でした。 ウネリが入りそうな時は枕崎に行った方が良さそうだ。



   坊津歴史資料センター輝津館


 坊津の交易資料、仏教資料、漁具などの民俗資料を所蔵・展示している。



  坊津歴史資料館




  展示物






    鑑真記念館


 苦難の道を乗り越えて日本に上陸した地に鑑真記念館は立てられている。 休館日(月曜)であったが、管理をしているご夫妻は入館を許可して中をみせてくださった。

 記念の日には唐招提寺の高僧が来てその行事に参加するのだそうです。



  館内から望む秋目浦





  鑑真像



         2023-7-24






      霧島神宮




  霧島神宮 


  天孫降臨神話の主人公であるニニギノミコトを祀った霧島神宮は、創建が6世紀頃と伝わり、数少ない「神宮号」を名乗る神社です。 熱田神宮近くで小生は育ったけれど、神社というのは多いが神宮というのは確かに少ない。 本殿にお参りするのにも行列をしています。 確かに厳かな雰囲気に包まれた神宮でありました。

  今回の巡航では乗上たり入院したりと大事が起きましたが、大した徳を積んでいない小生にしては最悪の事態に陥らずに済みました。 お礼を申し上げて参りました。



  案内板




 

 


   本殿 国宝





  さざれ石

 

     2023-8-4

 

 

 

             串木野城と串木野麓武家屋敷

 

       串木野城・亀ヶ城

 

 串木野城は「関ヶ原の戦い」において「島津の退き口」で奮戦して討死した島津豊久の生誕地とされています。もともとは薩摩郡司・薩摩六郎忠直の三男で串木野氏を称した串木野忠道によって築かれた城で、以後は串木野氏代々の居城となりました。南北朝時代、串木野忠秋が城主のとき、島津氏に攻められると忠秋は城を捨てて知覧へ逃れ、串木野氏は滅亡しました。島津氏の所領となったあとは川上氏が城主となり、戦国時代には山田有信や、島津貴久の四男で島津義弘の弟である島津家久がこの地の地頭に任じられています。1570年(元亀元年)に家久の嫡男・豊久が誕生しています。 

 案内板があり見ることができるが、私有地であり制限されてどこでも入れるわけではない。 代将で6つの曲輪があるという。

 

  串木野城跡 

 

  土塁と空堀

 

 

  曲輪へ

 

 

 

 

        串木野麓 武家屋敷

 

  旧入来邸ぐらいしか武家屋敷は見当たらない、

 

  地頭仮屋跡

 

 

  南方神社    室町時代に信濃国諏訪神社を勧請創建したという。

 

 

   旧入来邸 武家屋敷  郷士年寄格屋敷跡  長い塀でかこまれた広い敷地である。

 

 

 

  串木野氏の墓

 

 

      2023-8-5

 

 

 

 

     下甑 手打麓武家屋敷

 

 下甑島 地図

 

  上甑島の里より下甑島の長浜へヨットで航く。 この島の南端にある手打にバスに乗り訪れる。 麓武家屋敷を見てきました。 麓というからには城跡があるはずであるが、その案内は無かった。  玉石垣とその上の垣根で構成される武家屋敷は武家門や建物は残っていないけれど、風情がある落ち着いた雰囲気は良いように思う。

 バスの時間は良く確認のこと、タクシーを呼ぼうとしたが、ここ下甑はタクシー会社が無いので呼べないとのことであった。 クルージングで島など不便なところに多く行ったつもりであるが、このような事態は一度もありません。 それほど鄙びたところであるということでしょう。上甑では呼べるとのことです。

 

  郷土館   休みで中は見られなかった

 

 

  武家屋敷の入り口のたたずまい

 

 

 

  武家屋敷通り

 

 

  津口番所

 

               2023-8-8

 

 

 

     知覧城と知覧麓武家屋敷

 

  知覧の見たいところ特攻平和会館、麓武家屋敷、知覧城へバスで行くには終点まで乗らずに、行く場所のバス停留所で降りたほうがよい。ちなみに知覧行きバスは鹿児島中央、指宿、枕崎などからの便がある。

 

 

 

  1.  知覧城

 

築城年代は不明ですが,記録によれば文和2年(1353)足利尊氏によって島津忠宗の三男,佐多忠光に知覧の領地が与えられています。以後佐多氏の居城として知られています。

城の構造は,本丸・蔵之城などを中心とした曲輪群(平坦地)とそれを取巻く東ノ栫・式部殿城など周辺の曲輪群から形成されています。城と城の間には深い空堀がめぐり,それぞれが独立しているのが特徴です。 案内板は充実していて比較的整備されている。 しかし、他の2つの施設に比べてここを訪れる人は少ないようだ。

 

 

 

  本丸   虎口付近が崩れて青ビニール

 

 

  蔵之城へ

 

 

   建物跡  蔵之城

 

 

  今城へ   

 

 

 

     2.  亀甲城

  知覧城の出城である。 記録が無いので詳細不明。 

 

   縄張り図

 

 

  復元された虎口、   麓川の左岸に築かれていた

 

 

   矢櫃橋を渡って左の大手口へ

 

 

 主郭にある知覧忠世顕彰碑  南朝側に属し守護の島津貞久と戦う。

 

   らせん状の道を昇る

 

 

 

 

 

 

       知覧麓武家屋敷

 

 石垣とその上の生垣が並び武家門と庭園が見られる

 

  知覧ふもと武家屋敷案合図

 

 

  知覧麓 武家屋敷通リ

 

 

  西郷恵一邸 武家門

 

 

   西郷庭園

 

  平山克己庭園

 

  知覧型二つ屋

 

 

  森重堅庭園

 

           2023-8-11





        蒲生 麓武家屋敷


 鹿児島中央駅よりバスにて姶良市役所蒲生支所のバス停で下りて蒲生麓武家屋敷へ行って来た。 麓武家屋敷に必ずあるというよりお城があってこその家臣の武家屋敷であるのですが、武家屋敷散策後に蒲生城を訪ねたが、登城口が見つからず、断念してしまった。  指宿からはるばるの鹿児島南から北への渡来であったので意気が上がらなかったのでしょう。 いつもの小生の追及の甘さの欠点がでてしまった。反省。

 ここは蒲生川と別府川の2本に挟まれて、9本の馬場と3本の小路にて区切られた町割りです。



 



  町割りと馬場通り




  仮屋門




   西馬場





   武家門




     蒲生城 (竜ヶ城)


  後で分かったのであるが公園として良く整備されているようで、お城ファンとしては残念な思いである。

 蒲生氏が代々居城としていた。島津義久がここを落として領した。 本丸、2の丸、3の丸の他に曲輪群で構成されたお城である。



   蒲生城




  お城登山口    藪こきを予想され断念した


 

   今後ここを訪れたい人のために   蒲生城 城郭放浪記

  https://www.hb.pei.jp/shiro/ohsumi/kamou-jyo/thumb/




          2033-8-16

 

 

 

 

 

      垂水麓武家屋敷林之城

 

 鴨池からのフェリー(500円)にて垂水麓武家屋敷に行って来ました。 徒歩20分位でフェリー乗り場から林之城・麓武家屋敷に行くことが出来る。

 

  垂水城と林之城      

 

     林之城 

 ここ(現・垂水小学校)は、江戸時代に垂水島津家の居城・林之城があったところです。垂水島津家領主四代久信は林之城を築き、慶長16年(1611)、垂水城(荒崎)から家臣団と共に移ってきました。




   石碑とお長屋



  お長屋  道路側側面




     麓武家屋敷


 街並みが近代的な感じで武家屋敷が立ち並ぶイメージではない。町割りの雰囲気はあるように思う。


 麓武家屋敷地図




  宮迫邸 武家門 





  垂水島津家の墓地    

 垂水島津家は島津宗家15代・貴久(たかひさ)の次弟・忠将(ただまさ)を元祖とする家柄です。慶長4年(1599)、垂水島津家2代・以久(ゆきひさ)が垂水領主となって以降、以来明治維新まで16代・約300年にわたり垂水を統治しました。

 夫婦の墓碑が並立しています。

 

   2023-8-19

 

 

 

 

       調所広郷邸跡

 

  鹿児島城と調所広郷邸跡

 

 幕末の斉昭公の活躍や維新の志士のそれも調所の財政改革なしでは成立しなかったであろう。それほどの歴史的功労者である。しかし、江戸に出仕した調所広郷は幕府に密貿易の件を糾問される。嘉永元年(1848年)12月18日、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死。密貿易の責任を取り自殺と言われている。

 

    調所広郷と村田清風

     http://hayame.net/custom32.html#spb-bookmark-423

 

 

 

 

  マンションの一角にひっそりと立つ石碑と案内板

 すぐ近くの公園に平田靱負の銅像があり、彼の方が顕彰されているようだ。 大河ドラマの「西郷どん」に搭乗した平田何某の先祖はこの人になるのであろうか? 上級家臣の設定であったので。

 

 平田靱負(ひらたゆきえ)1704-1755、 533石の家老、  

 高校の時に木曽三川の治水工事の現場をバスで見学した覚えがある。地元の人々には彼のした宝暦の治水事業には今に至るまで、大変な感謝をされているようだ。

    2023-8-26



 

        水俣病資料館

 

 ヨットで水俣ビジターバ-スに停泊した。 徒歩で行ける距離に水俣病資料館がある。 この病気の重さを考えると足を運ぶのも気が重かった。

 ここらの周辺は、やたらと近代的で広く大きな公園となっている。 今を眺めると過去のことなど想像が及ばない雰囲気である。 下の仕切り設置図によると随分と埋め立てをしたことが分かる。 百閒排水口からチッソは汚染水を排出したのであろう。 ビジターバースは最も汚染された地域であったと思われる。 近代的な岸壁や公園を埋め立てて造ったとおもわれる。 お役所の人は随分と苦労されたのであろう。 ビジターバースの横に自分たちで建てた記念碑があった。

 

 

 現 水俣湾

 

 

 

 

 ビジターバ-ス

 

 

  水俣港建設顕彰碑

 

 

 

        2023-9-4

 

 

 

 

       高屋神社  内之浦


  内之浦から肝付城へ行くつもりであったがバス便の都合が悪く、タクシーが5000円余もかかるというので諦めた。 それで近場を散策することにした。 由緒ある高屋神社と幕末の砲台跡を見てきました。




  内之浦地図


 熊襲征伐に来た景行天皇は天子山に行宮を築いて6年滞在したとされる。




  高屋神社

  高屋神社は景行天皇が国見山上陵(国見山)からヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)を勧請し、高屋神社を創建した。


 

  内之浦砲台は、海岸近くの砂浜に設置されていました。『薩藩海軍史』には、12ポンドカノン1門、 20ドイム臼砲1門、700目野戦砲1門、500目野戦砲門の計4門の大砲が配備されていたと記されています。



  砲台跡 案内板




  内之浦砲台跡からの展望



      2023-8-28



 

 



       加世田麓武家屋敷別府城


 枕崎よりバスにて万世特攻平和祈念館と加世田麓武家屋敷へ行って来た。 南さつま観光協会で自転車を借りてそれらを廻った。



 南さつま市 加世田地区地図



      別府市城(加世田城)


  別府氏がこの城を築き1420年に島津氏が支配する。島津実久が謀反を起し、宗家の島津忠良・日新公がここを落とし、以後は直轄となる。明治になりここを崩して小学校になった。移転して現在は公園になっている。



  別府城入り口  、  小学校の校門が上に残る



  別府城跡石碑



   大手口



   船待口



 






       加世田麓武家屋敷


 加世田麓には益山用水路沿いに武家門や武家屋敷が残ります。



  加世田麓武家屋敷地図




  地頭仮屋跡




  武家門




  旧鰺坂邸




  益山用水路と武家門のある街並み



      2023-9-2









         今和泉島津家


  JR薩摩今泉益を降りて海岸方向へ歩くと、篤姫の幼少期を過ごしたゆかりの地に行くことができる。


 薩摩今和泉地図 

 島津家の一門で1万5千石を領した。忠剛の娘・篤姫が将軍の正室となり天璋院となる。 この地に別邸があり篤姫はここで過ごしたことが有るという。

 

   駐車場にある案内板




  篤姫像





  今和泉別邸跡、  今和泉小学校に井戸跡などがある、 立入りはできない          



  JR指宿線の車内から薩摩今和泉を眺めると、水産技術センターのある漁港が見える、調査船が係留していて少し大きめの町があるのかと思えました。 実際に降りて行ってみると、いつもの小さな漁港の佇まいであった。



  水産技術センターの調査船岸壁




     2023-9-3








        伊集院散歩  徳重神社、妙円寺、小松帯刀墓所、有馬新七墓



  伊集院近郊図

  JR伊集院駅からは一宇治城、妙円寺、徳重神社、有馬新七墓などが徒歩で見に行くことができる。 枕崎へ行くには鹿児島中央からJRを使っていくのにも本数が極めて少なく便利ではない。 ここ伊集院から枕崎行きのバス便があり時間的にも早いのではないかと思う。 ここから伊作城と小松帯刀墓所にはバスで行ってきた。

 駅前には島津義弘公騎馬像と観光案内所がある。



  島津義弘公騎馬像



    徳重神社 妙円寺

  JR伊集院駅北口からすぐです。島津義弘公の菩提寺であった妙円寺が明治2年の廃仏毀釈で廃寺になり、義弘公を祭神とする徳重神社となりました。ここは、現在も続く鹿児島の代表的な伝統行事「妙円寺詣り」の舞台となっている神社です。関ヶ原の合戦に出陣した島津義弘公が西軍の敗北により、徳川本陣の真っ只中を敵中突破した退却戦を偲んでこの詣りが行われています。大河ドラマでも何度か描かれていると思います。



  徳重神社




   現在の妙円寺

  由緒ある妙円寺は鹿児島で行われたすさまじいという程の廃仏毀釈が行われた結果とり壊わされた。 ちなみに鹿児島県では寺跡の案内がやたら多い、他県には見られないほど。 近くに妙円寺中央公園などの大きな敷地があるので、大きな寺院であったと思われる。 現在のものはこじんまりとした昭和の寺院風である。

 

    小松帯刀墓所

 

 小松家の菩提寺でもある園林寺跡には、小松家歴代の墓があり、そのなかに29代帯刀も眠っている。墓地へと続く道の入口には、廃仏毀釈の被害にあった仁王像もある。

 帯刀は明治の初めに亡くなったので、忘れられかけましたが、薩長同盟や大政奉還などに貢献しました。

 

  小松帯刀墓

 

 

 明治2年 廃仏毀釈により壊された仁王像

 

 

     有馬新七墓

 

 写真中央は有馬家代々の墓、 右端にあるのが新七のお墓

 

 ここ伊集院の郷士の子として生まれる。見られなかったが城近くに誕生の地の石碑があるという。 父が有馬家の養子になり城下士として加治屋町に住む。 尊王攘夷活動を続け寺田屋事件で島津久光の命により粛清される。その後許されて息子は海軍技術習得のため米国留学した。

 

  2023-8-29






           徳富蘇峰・蘆花生家


 

 水俣から八代に向かう途中で徳富蘇峰・蘆花生家を訪ねる。 まだ開館前の時間であったので中を見ることが出来ませんでした。新水俣へ向かいオレンジ鉄道で八代へ行く。

 水俣出身の徳富蘇峰(猪一郎)(1863-1957)は、明治から昭和にわたり、日本の言論界に大きな影響を与え、また、弟の蘆花(健次郎)は、明治、大正期の文豪として活躍。熊本を代表する偉大な2人の文豪が幼少期を過ごした生家。偉業を物語る著書や遺品などが展示されています。

  浅学ゆえに小生は詳しくないけれど、同志社で新島襄に学んだ明治の人・蘇峰が戦犯に当たるといわれた昭和の時代の人であり、昭和32年に亡くなった人であったとは小生には驚きである。 日清戦争より太平洋戦争まで維新後の時代を生き抜いた人であった。

 

  徳富蘇峰・蘆花生家地図




 

 






      2023-9-6








               田子島台場  長崎福田


 田子島台場はサンセットマリーナの境界部分にある。 そこは海岸でマリ-ナ部分は埋め立てにより造成された。 ペリー来航、プチャーチン来長崎以降に大村藩が4つの台場を築いた。

 一の台場  18ポンド砲1門、12ポンド砲1門、1貫目砲1挺  計3門
 二の台場  12ポンド砲2門、1貫目砲1挺  計3門
 三の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、5百目砲1挺  計3門
 四の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、7百目砲1挺  計3門
 硝煙蔵1棟、武具蔵2棟、番手小屋1棟、硝煙小出蔵4ヶ所

 

  田子島台場、 1の台場から4の台場 ①から④の台場




   台場由来碑


 福田小中学校南道路沿いの石垣があるところに1-4までの台場が築かれた。



  1の台場



 



  2の台場


  3の台場、  異人井戸跡




  4の台場





    2023-9-9