塩野七生



旧 塩野七生


 

項目

 
塩野七生

ヴェネツイア ノブレスオブリージュ と 公 と 民主主義と開発独裁

ロ-マ亡き後の地中海世界

皇帝フリードリッヒ2世の生涯

皇帝フリ-ドリッヒ2世の嫡子と庶子

皇帝フリードリッヒ2世の教育

皇帝フリードリッヒ2世と宗教・異端

十字軍物語・宗教戦争として

十字軍物語1・聖戦

十字軍物語2 
イスラム

十字軍物語3   始まりとその後

陽の下に新しきものなし 


ジョブ・空洞化・本国投資

衆愚政治

新トライアヌス法

特別復興立法

  
朝日新聞と慰安婦報道 オランダ人慰安婦

追補 1
  
追補2

テミストクレス

アテネ民主制の歴史

アテネ指導者の栄光と落日

ペリクレス   アテネの黄金時代

ペリクレス 戦没者追悼演説

アルキビアデス

ソクラテス と アルキビアデス

追記 プラトン「饗宴」を読んで

危機の克服

民主政と衆愚政

スパルタ

ソクラテスの死

アレキサンドロス


                


   

 

 



 塩野七生さんの最新刊ギリシャ人の物語 1 を買いました。 彼女曰く、もうあと2-3作でしょうと。 ローマ人の物語は世に出すのに1年1作で12年間かかりました。

 貧しい老人としてはそれをハードカバーを買うのをガマンして文庫本がそろう、それも中古を混ぜてのことですが、一気に買い読みました。 
 最近はこちらの人生も残りすくなくなったので、どちらが早いか駆け比べの状況です、もう、そんな余裕はありませんのでハードカバーの新作を買っています。

  ローマ人の大作を読んでいたころには、まだ、ブログをやっていなかったので、書くことがいっぱいあっただろうと思います。残念です、今となって読み返してブログにあげるには難しいです。

  塩野七生さんのページを新しく作成しました。


       2015-12-27


  ご注意

 七生さんを七海と記しているところ多数ですが、彼女は若いころにエーゲ海などをヨット周航したこと、爺爺が船乗り稼業でヨット乗りであったところから意図的に変えていると言いたい。 だがこれは転換ミスで大雑把な性格で気が付くのが遅れた言い訳です。








       ノブレスオブリージュと責務


 下記はウインドウズ95の時代に、今は老人ですが、暇こいてるおじさん時代に、RPG作成ソフトを購入しました。そのメーカーが賞金1000万円のゲームコンテストを主催したので、半年もかかってヴェネツイアのノブレスオブリージュをメインテーマにしてゲームを作り応募しました。内容もそうですが、それ以前の問題でしょう、見事に落選でした。人生を無駄に過ごした良い例です。
 以下はそのあとがきと称してゲームにはめこんだものです。最近は歴史ものが盛んですが、歴女もこのヴェネツイアやローマをもっと知ってほしいですね。 今でしょ! 人口20万そこそこの小国が、情報を重視する政策を採り、当時の欧州の大国として1000年も栄えた交易国家でした。もっともっと学ぶことがありますね。

     

     


     ヴェネツイア ノブレスオブリージュ と 公と 民主主義と 開発独裁


 最近の報道です.日本人が欧州で車が故障して立ち往生しているところに,さっそうと王族のひとりが現れて,車を修理してくれて立ち去った....こんな記事がありました.
ヴェネツイア人の”ノブレス・オブリ-ジュ”(尊き責務)はしばしば登場します.(注;13世紀末のグラデニ-コによる)政治改革以降の(ヴェネツイア)貴族をノブレスと云っています.車の件はさしずめ現代版王族の”責務”といった趣ですね.塩野七生さんによればそれは「体を張って他者を守ること」だと述べられています.ノブレス(ノ-ヴィレ)は持っている資産や地位や優れた個人の資質によって尊敬されているのではなく,それを利用して持っていない人を守るから敬意を払われているのだと述べています.

 振り返って我が国でありますが,江戸時代にはサムライが存在しました.日本では城下町というものがあります.これは欧州のぐるりと町を城壁で取り囲んだ城中町とでもいう形とは明らかに違っています.
戦争の時にサムライが庶民を守る伝統がなかったから生じた違いでしょう.先の戦争で戦車連隊の小隊長をされていた司馬遼太郎さんが書かれていることですが、軍の参謀よりアメリカ軍が上陸してきた折りには避難民をひき殺してでも,駐屯地の佐倉から南下して進軍セヨといわれたと書かれています.つい最近までその国民を守る伝統がなかった、ということでしょう.
 また一方では同じく司馬さんによれば「公」という観念が江戸時代には存在しました.そのことで本に書いておられますが,吉田松陰はおじの玉木文之進から教育を受けました.松陰が孔子や孟子の朗読をしていて顔にとまったハエを追い払って、おじからひどく叱られます.サムライの子供でも聖賢の本を読んでいるときは公務である,その時にカユイという私情を差し挟むなということで、崖から突き落とされ、さらに殴られます.それを見ていた母親が、心の中でそんなつらい目にあうなら、いっそ死んでしまいなさい、と思うような厳しい「公」教育があったようです.今ではサムライはテレビの時代劇の悪代官の影響が強いようですが,武士は清貧で汚職をしなかったようです,だから尊敬されていました.ノ-ブルと「公」は共通するところがありますね.

 ヴェネツイアのノ-ヴィレとサムライの違いは何でしょうか?ノ-ヴィレは政治に携わる栄誉のみを持ち,他のいかなる特権を持ちませんでした.”切り捨て後免”などの特権を持ったサムライとは違いがありました.

またヴェネツイアでは13世紀の半ばより「ム-ダ」という国有船団による定期船方式を始め,輸送料を払えば誰でも荷が積めました.勝手に値をつりあげて独占を許さない制度です.交易に参入したい商人には自由に参入機会を保証する制度です.この制度を政府を握った大商人(ノ-ヴィレ)によって国是としてやった国です.こんな例は歴史上で余りないと思います.特権を握った支配層はそれを手放しませんね。私が考えるノブレスの最もえらいところです.ヴェネツイアが1000年続いたのも分かるような気がします.サムライにも,もちろんこんな例はありません.

 日本の「公」ですがその伝統は日露戦争までは続きました.列強の圧迫を敏感に感じ取った;いしんの志士;たちにより、明治という変革を成し遂げました。志士の世代が死んで指導層が”秀才官僚”に変わると次第に「公」は忘れ去られたようです.先の敗戦で軍事官僚は消えましたが,戦後も明治以来の官僚支配は続いています.「公」という問題、日本のノブレスの問題は、キャリア官僚ではなくて,世界的には汚職の少ないノンキャリア役人のほうに,今でも遺伝子が少しはあるのかもしれません.農地解放までの一部の庄屋・名主クラスの人にもありましたね.

関連して民主主義のついてですが,これは日本では敗戦後”戦後民主主義”として与えられ定着したものですが,これには土台というものがあるように思います.自給自足で生活している社会とか農業が中心の国では定着しにくいようです.敗戦までの日本もそうでした.民主政体は人のよって立つ”生活基盤の中に合理性”が基礎を成している社会の上にしか定着しないものです.
歴史上はギリシャのポリスとかヴェネツイアとかの小さくて交易で成り立つ国で生じ繁栄しました.
間違いを恐れずに云うと,商業や製造業などで,読み書きそろばん,商売上の信用などが要求されないところでは民主主義が育たないのではないのでしょうか.また隣国の例をだして申しわけないのですが,韓国でもこのレベルに達して民主化が起きました.韓国は財閥制度を利用して発展する限界を超えたので、今は経済的には変革のときです。政治的には,韓国は今では日本より先を行ってるのではと感じるほどです.でも、韓国と中国はけ口に、今は無い過去日本のことを持ち出すことはやめましょう。

ここで誤解を招かないようにしたいのですが,自給自足から高度な情報社会にならねばならない必然はないということです.それはおいしい食材をひとつの調理法でだけで食べるようなものですね.塩野さんが云うように「善政必ずしも民主政の独占物にあらず」でしょう.
戦後の植民地独立諸国が現実的には開発独裁の制度を採用してきました,日本も明治から敗戦まではそのようでした.共産主義の問題も、開発独裁のひとつの民族の歴史的な地域表現と、思えばいいのではないでしょうか.そこには効率がいいという必然があるからです.問題は役割を終えたときの転換でしょう.我が国は大きな犠牲を払った戦争でしか解決できませんでした.ソ連はえらかったですね,85年のピ-クの軍事力を使わずしまいでしたから.

日本の問題に戻ります,戦後の日本のノブレスの人達まあキャリアの官僚ですが,食うや食わずの時代から再出発をしたせいで,緊張感が持続したのでしょう、85年位までは中流意識を皆が持った、ということで善政を敷いたといってもいいのではないでしょうか.必ずしも個人への分配が公平公正であったわけではありませんが,それ以降の状態はもう申すまでもございません.結果がでていれば,どこかの大統領のように,自分で引いたレ-ルでもないのに快調に走っていれば,少々のことは許されるのでしょう.

そこで小生の”ノブレス・オブリ-ジュ”を踏まえての提案です.占領政策のひとつとして成った戦後の大衆民主政体ですが,50年続いて来たものを今さら後戻りはできないでしょう.いろんな意味での民度が上がるまでの過渡的形態として,参議院の員の選出を,税金を多く納めた法人代表や個人から選んでみたらいかがでしょう.現在の古い基盤の代表が政議治を握っています.グロ-バルな競争に勝ちぬいた産業基盤の代表がノブレスが新しい時代を築くべきではないでしょうか.

本当に最後ですが,ヴェネツイアはその後,ジェノバ,トルコと戦うことになります.ジェノバは同種のものの戦いゆえ100年も戦いますが,より優れたものが勝利をおさめヴェネツイアは勝利しました.トルコに対しては,ヴェネツイアは自分が合理的な判断をするがゆえに他者もそうするという失敗に悩まされ続けます.滅亡のときは同じ過ちでナポレオンに対して”非武装中立”を宣言しますが滅亡してしまいます.
周辺諸国の我が国に対する対処の仕方が、合理的な判断によるのかよらないのかに寄って、安全保障の問題を考えるべきであります.傭兵に頼っている国があれば,それはその国の存亡にかかわります.日本は自国民で守る気概とそれを補完する軍備が必要でしょう.それが相手に思い留まらせるものだといえましょう.先の大戦で中立を保ったスイスとスエ-デンはヒットラ-を思い留まらせる軍備を持っていたことを忘れてはいけないでしょう.これらの国の軍備は侵略的な軍備と別物だというこ
とも知らねばなりません.

;以上ヴェネツイアについて思いついたことを述べてみました

          


            ヴェネツイア              

 映画 ヴェニスの愛 より ベネツイア貴族マルチェルロのオーボエ協奏曲           ;     
   http://www.youtube.com/watch?v=aYnU-CaH0bM  10分

 

            2013-7-12



  







     ロ-マ亡き後の地中海世界


                        

 25年ほど前にスペインのマジョルカ島からイタリアのサルデイニアにヨットで2日間ほどの航海をしたことがありました。その時にその州の旗を知り奇異に感じました。鉢巻をしたムーア人の横顔が描かれているということです。その時に奴隷を描いたとか、囚われた住民だとかの説明を聞いた記憶があります。本当の由来は知りません。塩野さんの”ローマ亡きあとの地中海世界”を読んだ後では、サラセン海賊を防ぐために山の頂上に村があったり、岬岬にトーレ(搭)を眼にするのには納得できます。
 ボストンマラソンでの爆発事件がありましたが、21世紀はイスラムの問題を解決しなければなりません。西欧のエリートには歴史で学んだ十字軍の知識のせいでしょう、十字軍コンプレックスがあると聞きます。塩野さんのこの本を読めばサラセン海賊の問題と十字軍の問題は、どっこいどっこいでどちらかが悪いということではないようです。時間がかりそうですが、イーブンイーブンだとの共通認識に至れば、糸口が見つかるかもしれません。


;
        

                 2013-5-5

    追補

           塩野七海による海賊とは

 海賊という現象は、貧しい者が豊かな他者を襲って奪う、のではなく、職を保証できない国に生まれた人間が、保証できる国に生まれた者を襲う現象である、と。

               2014-6-2











      フリードリッヒ2世の生涯   
      

フリードリッヒ大王
                         
                         
 
フリードリッヒ2世は歴史上2人います。一人は1712-1786年のプロイセン大王です。バッハの息子のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハが彼の宮廷楽団のチェンバロ奏者としていました。父のバッハがそこに行き王様から音楽のテーマをもらい、即興で弾いたのが音楽の捧げものBWV1079として有名です。専制啓蒙君主でボルテールと交際し他国の君主にも尊敬され、国が滅亡しそうになるが、代替わりした後継者の尊敬を集めて講和できて助かったエピソードがあります。現在のプロイセンは先の大戦で負けたことからロシアの飛び地やポーランドの領土となっています。でもそれまでのドイツ統一の盟主となった国です。
   バッハ音楽の捧げもの  演奏レオンハルトやクイケン兄弟   48.11分
    https://www.youtube.com/watch?v=pyUNNA5QK6w

 もう一人は父親のハインリヒがノルマン王朝のコスタンツアと結婚したことから、神聖ローマ皇帝に加えてシチリア王にもなったフリードリッヒ2世・1194-1250没です。当時のシチリアはイスラム・ビザンテイン・ラテン文化が混在して融合していた背景があり、4歳でラテン語を習得しギリシヤ語・アラビア語など6つの言語を習得した。幼児の時は両親がいなくて不遇です。その当時の独特な文明の影響の中で言語の習得ばかりでなく、他のことも独学で自由に学んで育ちます。青年になり神聖ローマ皇帝の継承争いのなか、彼は選挙により皇帝に選ばれる。わずかな人数でドイツに渡り実権を掌握する。この時は法王によってローマで戴冠する。これ以降は生涯にわたって法王と争うことになります。帝国を中央集権化とローマ以来途絶えていた法治国家として運営していくことを彼は目標とし、メルフィ憲章を創設して実施しました。
 法王の意に従うことがないので、破門されます。その中で外交のみで戦うこともなく、無血でエルサレムの返還を実現した・第6次十字軍。法王は血を流さないでエルサレムを返すこと自体が不満であった。まあ今でいう原理主義者ですね。イタリアではロミオとジュリエットの世界で描かれている、皇帝派と法王派の争いが続きます。法王との争いの詳細を情報公開で知らせることにより、破門されても理解を得ていました。法王と国王の争いは叙任権争いと教わりましたが、そうではなく領土も含めた権力闘争です。地上での神の代理人とされている代々のローマ法王を通じて神は皇帝や王という世俗の君主たちに統治を委託してきたと考えているのが中世です。コンスタンチヌスの寄進書が偽書と判明するのは15世紀ですのでまだ200年後です。
 中世にいた早すぎた啓蒙君主が皇帝フリードリッヒ2世です。戦いで勝利した君主ではなく選挙で選ばれた皇帝でした。従い戦争するにも領地よりの軍隊は少なく、せいぜい2万ほどの寄せ集めでしたので完全に制圧することはできませんでした。自身の能力が高かったので統治できたのですが、死んでしまうと徐々に法王が陰謀の限りを尽くして奪っていきます。フランス王の弟にシチリアへ陥入させ、最後はシシリア王国はフランスのものになります。後になって、まとまったフランスが権力を行使できる体制が整うと、法王はアビニョンに幽閉されることになります。自らまいた種ですね。
 コムーネといわれる自治都市がミラノを中心として法王側について皇帝と対立します。自治都市はのちのルネッサンスの中心となる勢力ですが、皇帝の早すぎたルネッサンスを妨げました。政治は賢公によれば効率的なことは確かで、時代を超越してことをなすことができます。皇帝フリードリッヒ2世がいい例ですね。でもはかなくて例外的になる宿命です。悪公の例は現代でも過去でも多く有りすぎです。
 日本の例に例えると、13世紀ですから鎌倉幕府の時代です。頼朝のように軍事で制覇していないで、高知の守護・地頭が選挙により選ばれて将軍になり後醍醐天皇と権力闘争をするようなものです。おまけに両親がいなくて成長した青年です。日本を法治国家にするため、新律令憲章を制定し、足利の学校でリベラルアーツを教える。死ぬまでは成功して、巧みな外交で元寇さえも起きずにパクスジャパンの平和を実現したのが皇帝フリードリッヒ2世です。
 まあ、余計な説明を聞くより塩野さんの本をお読みください。読むつもりの人に害になるかもしれません。

   皇帝フリードリッヒ2世の時代13世紀の音楽   2分
  http://www.youtube.com/watch?v=4nI-9ildOus&list=PL32B037BF0813B95E


 








     皇帝フリードリッヒ2世の嫡子と庶子  

 

               

 ローマ人の寛容ではないですが、塩野七生さんの寛容は出来るいい男に対しては、女たらしでも寛容なことですね。カエサルにしても皇帝フリードリッヒ2世に対しても彼らを惚れて書いているせいか、同性の立場に立ってキリリと糾弾するようなことはありません。
老生のような凡人が彼らののマネもデキルワケモナク、ヨダレをたらしてうらやむばかりです。
 
 正妻1      コスタンツア アラゴン家       嫡男1 ハインリッヒ
 正妻2      ヨランダ  エルサレム王国     嫡男2  コンラッド ドイツ王となる
 正妻3      イザベル  ヘンリー3世妹    男女幼くして死亡
 愛人4から正妻4  ビアンカ   ランテイア候娘    庶子嫡男 マンフレデイ
 
 愛人1  アデライデ     庶子 エンツオ  サルデイニーア王 戦闘で捕まり幽閉
 愛人2  マリア アンテイオキア   庶子 フェデリーコ  アンテイオキア公となる
 愛人3  アナイス
 愛人5  マンナ    大司教ベラルド姪   庶子 リカルド キエーテイ伯となる
 愛人他


 以上のように11人もの女性から7人の男子と8人の女子を持つことになります。この女性たちや子供たちよりから誰ひとりとしていろんな問題が起きたことはなかった。法王などの敵と通じたり不祥事を起こした女性はいません。フリドリッヒは隠さず周知の事実なので他者がスキャンダルと問題にするまでもなかった。元愛人ではなく現愛人なのです。凡人にはできないことですが、愛人たちに不自由な思いもさせなかった。実家が得になることもなかった。
 中世のこの時代に領国を継ぐには嫡子でないと、法王は認めなかった。これ以外は庶子の差別はない。嫡子と違って任地いくことのない庶子は若いうちから父親と過ごすことになった。庶子は部屋住みになることもなく。嫡子と同等の教育を受けた。中世としては稀で父親殺しも兄弟殺しも存在しませんでした。


                            2014-1-6










       皇帝フリードリッヒ2世の教育

 



                              
 
塩野七生さんの最近の著作を暮れから新年にかけて読んだところです。
そこで理数は得意でないのでよく分らないのですが、
フィボナッチの定理(予測)が先だって証明されたことは知っていました。
フィボナッチはその定理で現代では有名ですが、
ヨーロッパに初めてアラビア数字を紹介した人です。
フリードリッヒは交易商人であった彼を年金を与えて研究に専念させました。
他にも皇帝は初めて獣医学・防疫学を研究したブルーノを後援する。
翻訳工房を作ってそこでギリシャ語やヘブライ語を中世の学術公用語である
ラテン語に訳しました。
彼は宗教や民族の別なく交友して霊魂の不滅とは・神学の目的とはとイスラム
学者に質問していました。こだわりのない当時としては異例の為政者です。
 皇帝はまた欧州で初めての世俗人のための国立ナポリ大学を創設した。
キリスト教のフィルターを廃してすべてのリベラルアーツ・一般教養を教える
大学でした。どう生かすかは学ぶ側の自由でありました。希望すれば彼の
官僚にも就職できます。
フリードリッヒ2世の中央集権化をめざす官僚の養成に結果的に役立つことに
なります。続けて中世としては異例の奨学金制度と低利子での貸し付け制度
で学生の支援をしました。
学生が集まって借家料が上がるのを防ぐために上限を決める細かい配慮
までします。大学の自治を認め学生の処分は教授が決めました。
おまけに勧誘パンフレットまで作って宣伝した。欧州での最初の例ばか
りです。ルネッサンスの200年前の13世紀に偉大な君主がいたものです。

 フリードリッヒ2世の生涯
                     2014-1-5


 









      皇帝フリードリッヒ2世の幹部候補生教育  

 
 権力基盤の小さかった皇帝フリードリッヒ2世は中央集権的な法治国家を
めざしました。当時は実力で築いた封建諸侯の時代で、彼が目指しているもの
とは反する現実です。
政権の高官には封建領主や聖職者を使いました。彼らの権力基盤を自ら否定
し壊す地位に使ったのです。
 そして区別することのなかった皇帝の嫡子や庶子の教育と同じに、
有力封建諸侯の10-11歳くらいからの子供たちを一緒に寄宿舎で教育した。
その教育の内容は偏見のないリベラルアーツなものでした。
 この皇帝の宮廷独特のユダヤ人・ギリシャ人・サラセン人などのあらゆる種類
の人が集まる異文化を体験して子供たちは育ちます。
成人になると皇帝と行動を伴に統治を実地に学んでいきます、その生徒たちは
長じて親と代替わりして地位につき皇帝の政策を支える人々になったのです。
 彼が創設した国立ナポリ大学の卒業生も同じく政府を支える人材の供給源と
なります。

 日本の維新の時も、武士により変革をなしえて、明治の世になり版籍奉還なり
秩禄処分で武士の身分はなくなりました。
 他でも変革が起きるときは既得権層からの協力が得られないと改革は難しい
ものになりますね。
 日本の今の官僚キャリア組の幹部候補生教育は少数の受験秀才を採用して、
バカ殿教育でエリート意識だけ持たせるシステムです。
採用時の成績・ハンモックナンバーが定年まで大きな影響で昇進していくシス
テムです。それゆえ維新の志が消えてしまえば、破滅へのエリートになり
ました。
 志は時代が作る要素でもあるので、それを持てといっても難しいものが
あります。それで幅広く採用して競わせて少数の幹部を選考していくシステムを
作ることがこれからのリーダーにとって必要でしょう。

     
   
                2014-1-9












     皇帝フリードリッヒ2世と宗教・異端 

  


   
   
 フリードリヒ2世は生涯に2回も破門され、その状態で死ぬことになります。キリストが述べたと言う、法王は法王のものに国王は国王のものにということを彼は実践しようとします。世俗のものと宗教的なものに分けて彼は考えたということです。でも彼は異端者のように誤解されました。
 異端審問所は皇帝に対抗するものとして彼の時代に出来ました。スペインのレコンキスタのように対イスラムに対してできたものであると老生はカン違いをしていました。異教徒は当時の人にとっては、自分が信じる宗教と異なるものを信じている存在で真の教えに目覚めていない哀れな人々の意味でした。 異端者は身内の問題でその信じ方が、キリスト教会の定めた信じ方と異なると断じられた人々です、ゆえに近親憎悪で許せなくて、異端者は殲滅させるべきのになりました。それ以降に魔女裁判だ異端者撲滅だと欧州は何千万人が近代までに殺されることになります。
 現代ではユダヤ教とイスラム教がいまだに怨念の戦いが続いていますが、そのどちらも多大な犠牲の血のうえに洗練化したキリスト教のような宗教ではないからだという人がいます。
 フリードリッヒはシチリアでイスラム人との紛争が起こったときに、イタリア国内にイスラム教の人々を住ませる都市をつくり解決をはかりました。そのせいかイスラムの人々の信頼を得て、戦争の際には何千人ものイスラム兵が参戦してきました。だから法王にイチャモンつけられるはめにもなったのでしょうが。彼は宗教が違っても共存できる稀有な例をつくった人物です。
 現代に問題になっているイスラム問題もイスラムが洗練されるまで、100年以上がかかりそうですが、過去の歴史にはそれを解決できる種はあったということです。また現在までイスラムの問題を引きずったのは過去の植民地を持った国とそこでの政策によりますね。反植民地の感情をイスラム精神で現地の人は対抗するしかなかった。他に部族・民族の意識のままの現地の人々を、教育するようなこともなく、単なる旧植民地の区割りだけで独立させてしまいました。独立した植民地では国内に民族・部族・宗教対立を抱えたものになっています。紛争が続く分けです。 
 シチリアの独特の歴史背景でなったフリードリッヒですが、学ぶべきものが多いように思います。
 


             2014-1-8











      十字軍物語 宗教戦争として
  
       塩野七生さんによる  
                         

第1回十字軍 エルサレム攻略
                         
                         

 塩野七生さんの十字軍物語3巻を読み終えました。書きたいのがあと1作と述べておられますので、今まで文庫本で読んできましたが、この前のフリードリッヒ2世と今回とでハードカバーに手をだしました。どちらが早いかの歳でこれだけは塩野さんに勝って小生がおさらばするのかもしれません。司馬遼太郎さんの亡くなられたのも突然で、今でもあともう少し書いてほしかった気持ちがいっぱいです。

 さてネストリウス教でもゾロアスター教でもコプト教にしろ、今の若者に正社員になれるご利益があるとワイドショーでそのことが放映されれば、たちどころにその教会にお参りする若人が行列するのが、日本のこだわりのない宗教事情ですね。
 老生にとってはポリフォニーのキリスト教の宗教音楽は好きですが、一信教どうしの聖地奪還の戦争にはあまり関心がありません。ルネッサンスの時代は大好きですが、中世の何とか家の領地争いとか親兄弟殺しの相続紛争に興味はないのです。でも困ったことに十字軍はよく受験で出題されます。キリスト教サイドのフィルターがかかった西欧中心の歴史を学ぶゆえでしょう。

 キリスト教とイスラム教は歴史では長く戦います。現代では宗教的な面を表に出さない歴史的な成熟があります。これは十字軍についての西欧側での負い目や反省点を現代の指導者レベルでは共有しているからでしょう。戦いは今でもやっています。
 でも宗教を前面に立てて多くが信じて戦った戦争は下記のものです。
貧民十字軍 1096年 貧者ピエールのよびかけ、
第1回十字軍 1096年から1099年 諸侯による十字軍、エルサレム攻略成功
第2回十字軍
  1147年から1148年 ルイ7世他 ダマスカスをねらうが大した戦闘もせず撤退

1187年   エルサレム失う
第3回十字軍  1189年から1192年 サラデインが88年ぶりにエルサレム占領    リチャード1世獅子心王は休戦協定で巡礼の自由は確保1/4世紀続く
第4回十字軍 1202年より1204年  ヴェネツイアに支配され東ローマ帝国の
コンスタンチノポリスの占領 
第5回十字軍  1218年より1221年  ハンガリー王ヤオーストラリア公がダミエッタ
攻略、ナイル氾濫で撤退
第6回十字軍 1228年から1229年 破門されたフリードリッヒ2世戦闘せず外交で
エルサレムを得る
第7回十字軍 1248年から1249年 聖王ルイ9世が大敗北して捕虜になる完全失敗
第8回十字軍 1270年 再度 ルイ9世がチュニスをめざすが死亡

1291年 アッコン攻防戦で陥落、十字軍国家消滅 

 これ以降にはロードス島攻防戦・ウイーン攻防戦・クレタ島攻防戦・・マルタ島攻防戦などがありますが、領土や利権をめぐる抗争を宗教で色つけしただけです。


    El Cant de La Sibilla グレゴリオ聖歌 演奏 Jordi  Savall  54.45分 いいね
    http://www.youtube.com/watch?v=uiBiEcxLqsY

    2014-2-2 













       十字軍物語1 聖戦とは  
 
             塩野七生さんによる


         

ジハード・聖戦と言えば今なお現況の世界の問題として存在しています。
 十字軍の時代に聖戦でイスラム側がカソリックに対して対処してきたのだとばかり思っておりましたが、十字軍の時代ではサラデインとマメルーク朝(奴隷王朝)の時だけでした。サラデインにしろマメルーク朝にしろ自分の基盤を強化するときにジハード(聖戦)を唱えました。カソリック側も法王が十字軍を唱えた背景には皇帝との権力闘争が背景にありました。同じです。
 法王はエルサレムの奪回は血を流した戦いでなければ意味がないと考え、フリドリッヒ2世の外交による奪回は認めませんでした。イスラム側にエルサレムがあったときでも実質的には巡礼は行えました。イスラムにとってもいい収入になったのです。
 モスールを支配しイスラム世界の両派の戦いに終止符を打ちサラデインはバクダット・スンニ派とカイロ・シーア派に分かれていた統一者となる。1187年サラデインがジハード・聖戦のはじめての宣言をする。それはサラデインは当時はトルコとアラビア民族が支配的な中での立場の弱い少数民族クルド族の出でした。面白いことにサラデインは30歳までは学問と教養を深めていまし。彼は叔父さんが将軍であったのでエジプト占領に就いて行き、兵士に慕われ叔父さんの死後にその地位を簒奪した人です。サラデインは八ッテインの戦闘に大勝利しエルサレムを奪還した。彼も各地の太守や領主を束ねていく立場でジハードを唱えなければエルサレムの占領はできなかった。
 蒙古によるバクダット壊滅でイスラム圏の半分が占領されたました。マメルーク朝はそれを破り勢いを食い止めて成立します。奴隷からのしあがったスルタンですので、宗教的権威を必要とした。同じく聖戦を唱える必要があったのです。
 教条的な題目や冒すことのできない絶対的な文言を言い出す背景にはそれを言い出す側に弱いものがあるという現実・本質は今でも過去でもあるということですね。


  パレステイナの歌  演奏 デービッド・マンロー  3.19分  いいね
   http://www.youtube.com/watch?v=nCwnm38ULZc#t=148
                                
    2014-2-4












      十字軍物語2  イスラムのこと

           塩野七生さんによ


 
        ; 


  キリスト側 イスラム側 日本
宗教的 法王 カリフ 世襲制 天皇
  司教 123
 
世俗的 皇帝・国王 スルタン、ヴィジル・宰相 将軍
  封建貴族 アタペグ・太守 エミル 大名



 十字軍により影響を受けたイスラムのお話です。
 第1次十字軍の時代のイスラムは西欧や日本と同じく領土・相続争いを繰り返す中世の時代です。バクダットを支配するスルタン・アッバース朝スンニ派とヴィジル・カイロを支配するファテイマ朝シーア派が対立して競って分裂していました。この両派の争いは現代まで続いている問題ですが。最初の十字軍もイスラム側は宗教的な問題とは感じることなく、領土を獲りにきた外国勢力の気分でいました。エジプト側は十字軍に同盟を申込みに行く位でした。それゆえに第一次十字軍ではエルサレムの占領と海辺の十字軍諸国の成立を許しました。
それから徐々に反撃をしてゆきます。ヌラデインは対立していたカイロを占領させファテイマ朝は滅亡してイスラム世界を統一した。クルド族の若きサラデインはそこをを占領した叔父の死でエジプトの宰相になる。ヌラデインが死亡。サラデインはヌラデインの息子から徐々に権力を奪い、ダマスカスとカイロを支配するアユーブ朝のスルタンになる。彼はエルサレムの奪還をします。しかし蒙古が侵入してきて、バクダットが壊滅して半分のイスラム圏が消える状況まで追い込まれます。奴隷あがりのマメルーク朝が蒙古を破りイスラム圏を維持して、アッコンの占領でキリスト教勢力の追い落としが成功します。
 そもそもイスラム教は通商の民による宗教です。ゆえに通商・交易と伴に拡大し中国の沿岸部やインドネシアにまで布教はひろまります。十字軍を海に蹴落とした後でも、それゆえに西欧との交易は再開します。西欧との香辛料の仲介貿易で富を得ていました。しかしバスコダガマが新しい交易ルートを中東抜きで開発したところから、中東イスラム諸国は没落し西欧の植民地になってしまいました。その遺恨が現代まで続いています。
 
 Dimitrie Cantemir   ESTAMBUL サヴァール   48分
   18世紀の曲ですが イスタンブールの雰囲気がよくでています。
   http://www.youtube.com/watch?v=jCq5GiqvMhU

    2014-2-6














     十字軍物語3 始まりとその後 
  
        塩野七生さんによる
 

 


                              
 カノッサの屈辱は1077年に神聖ローマ皇帝ハインリッヒは破門され三日三晩立ち尽くして,その解除を願った事件です。法王の権威を誇示した事件でした。でもそのあとで皇帝の反撃が始まり法王は逃げ回ることになります。 十字軍は法王が権威を打ち立て取り戻すために企画します。十字軍が終わり、美男王フィリップにより法王が70年に渡りアビニョンに捕囚されました。
十字軍は失敗に終わります。フランスは諸侯の国より小さいのですが、それで有力諸侯が十字軍で死んだ後に、その領地を次々と直轄領にしてフランスの王権を強化し中央集権化がすすみました。
 法王は神聖ローマ皇帝フリードリッヒへの敵愾心に燃えるあまりに、結局もうひとつのフランス王を強化させることに役立ち、戦略を誤ることになり、結果的には拉致される立場になるのです。
  アッコン陥落10年が過ぎて、ヴェネツイアとマメルーク朝は通商協定を結ぶ。ジハードでキリスト教徒を追い払ったけれど、通商のイスラム教の民はビジネスのうまみは続けたかったということでしょう。
 ヴェネツイアはリスクの分散と情報収集や資本の集約で経済大国になる。イスラムとの利害の一致で巡礼の再開も行われる。経済力を得た都市国家の市民たちがルネッサンスを作ることになります。
 法王は神の代理人であり、神の意志を伝える人で、神は間違わないのだから法王も誤ることはない。信者の信仰が足りないのが何事もその失敗の原因であると言われる。十字軍の失敗も法王が責任を問われることはありませんでした。ルターがそれに疑問を呈するまでは、そうだとされてきました。

     2014-2-7













    陽の下に新しきものなし  

          十字軍物語・塩野七生による

 
  第1次十字軍でエルサレムを陥落したときには、異教徒と見ればユダヤ教もイスラム教の人々も殺しまくったのでした。市内の街路を流れる血で染めて惨劇は行われた。占領したキリスト諸侯たちは折り重なった屍の間を通って聖墳墓教会に集まり、祭壇の前で泣きながらひざまついて神に感謝の祈りを捧げました。

 一人の人間の中に善・悪が共生している。だからこそ哲学・倫理・宗教によって矯正に努めるが、未だに成果ははかばかしくない。古人はこの現実を陽の下に新しきものなしと言った。

 若い時に柄にもなくソクラテスやプラトンを読んだ時があります。それらの偉人は2500年以上の前のことです。その書籍に書かれていることは、今の問題かしらということが多いです。この年になってもそれをかじっただけで、何も残っていないのが恥ずかしい限りです。

 人間の考えることは2000年経っても進歩しないものです。サイエンスは驚くほどの進化をとげましたが、精神的なもの・内面のものは昔と同じ問題で解決できていません。

 アフリカで200人の女学生が誘拐されました。ローマ亡き後地中海世界でもサラセン海賊に誘拐されたキリスト教徒は改宗すれば奴隷にならなくてすみました。また同じようなことが現代でも起こっているのですね。


  13世紀・14世紀の音楽 演奏 独演奏者  8分
  https://www.youtube.com/watch?v=N2Pb_jpSyiE&list=RDsCRAY8WFDRo

     2014-5-16












    ジョブ・空洞化・本国投資
   

 


 
                                  

 アメリカで発表される雇用統計は重要な経済指標で金融緩和
の継続の是非やダウ平均を上げ下げして、翌日には日経平均
に重大な結果をもたらします。
 塩野七生さんによれば、人間は本当に求めているものは、
食でも金でもなく職(ジョブ)なのである。それによって得た報酬
こそが自分で稼いだ金と感じており。自身の人間としての尊厳
を確かなものにしていけると知っている。貧困者たちへの無料
食糧給付や生活保護ではそれはできない。
 為政者は誰にも迷惑をかけないで暮らせるだけの職を与える
のが最大の責務である。

 ローマ史のなかで黄金の世紀の紀元2世紀、トライアヌスは本国
の空洞化対策で元老院議員は少なくとも資産の1/3を本国に投資
する法律を求めた。そして本土の農産品を輸出できるようにまで
なりました。そして増えた投資を雇用の増大つなぐように、今なら
少子化対策に当たる政策を実行する。 塩野さんは日本人へ危機
からの脱出編で述べられています。
 日本では中国への工場移転は失敗に終わると思いますが、他の
国への投資は減るものではないでしょう。本社すら税金の安い国へ
移す動きもあります。けれど日本企業の主要なところはローマに
ならう政策が必要ですね。

                        2013-10-28













       衆愚政治
 

 塩野七生さんが衆愚政治について述べておられます。「 衆愚政治
とは、有権者の1人1人が以前よりは愚かになったがゆえに生じた
現象ではなく、かえって声を高く上げ始めた結果ではなかったか。
その多種多様な民意にどれが最優先事項かを決められない
指導者、説得し実行する勇気ある冷徹な指導者を欠いたことで
はないか」 地中海の最強国アテネがソクラテスの弟子たちや
言論の自由があったにもかかわらず衆愚制に堕し衰退していっ
た原因は分っていないのだと塩野さんは書いておられます。
 民主党の今回の失敗も政権を取ってからの何をやりたいのか
自覚的に持っている政治家が少なく、結果的には議員になるの
が最終目的の政治家ばかり
でした。マニフェストにもない政策を掲げて、
参院の過半数を失い、原発事故も起きて、何も決められないまま、
政権を降りました。
 数は力ではありませんでした。何をするのかを明確にした人々
の集団を集めて、再編成すべきでしょう。連立政権でかまいません。
その政策を実行できればいいのです。
 大衆は常に愚で、小生もその一人です。民主政はそれゆえ必ずし
も善政をもたらしません。少数に賢人による政治は効率的で結果を
出しますが、短期的なものです。すぐに腐敗します。まだまだ2500年
の歴史のある民主政の発展途上であると自覚して続けていかねばな
りませんね。

                            2013-10-31










   新トライアヌス法の制定

      1/3の国内投資義務化


 このHPのジョブのところでもこのことを述べていますが、空洞化
対策の決定打は今のところ見つかりません。欧州でもアメリカでも同
じです。世界史的な問題といえましょう。
 日本の製造業の工場は次のように移動してきました。大都市の中
心-都市の郊外-地方都市-中国・タイ・インド-ビルマ・ベトナム・バン
グラデイシュ-アフリカ?? このように製造業は移っています。現在
の中心は中国・タイですが時間の問題で次に移ることになりますね。
 今ニュースでトヨタが2兆円を超える上方修正と報道しています。
もう忘れかけていますが、アメリカの要求で米国内に工場を各日本
の自動車会社が造りました。経済的合理性を抜きにしたアメリカの
要求に屈したものです。経済活動もひとつのルールの中で行われる
ものです。円安効果が大きいのでしょうが、ちゃんと成果がだせます。
 ローマの時代は農業が主要産業です。パクスロマーナの実現し
たトライアヌスの時代は現在と同じように属州に対する投資が利益が
大きくイタリア本土は空洞化していました。皇帝トライアヌスは投資1/3
を本土に義務とする法律を制定しました。それにより本土の農地の
価格の上昇や農産物の輸出もできるように本土の農業は改善しま
した。ローマの繁栄の絶頂だからできたともいえますが、とかくそん
な時には繁栄を謳歌するのみで何も対策しないものです。工業だか
らとか古い話だとか言わずに新トライアヌス法を制定して、日本の
みならず先進国サミットで論議して共同で制定したらどうでしょう。
その会議にもちろん塩野七生さんに参加してもらうのはもちろんの
ことです。世界の後押しがあると、それに弱い日本ですから、制定
もでき効果も上がるでしょう。

さあ トライ しようぜ。

            2013-11-6










  塩野七生さんの復興特別立

 
 大震災から3年したということで、特別テレビや新聞で特集が報道
されました。相変わらず仮設住宅の不便を強いられている被災者の
方がおおぜいおられます。  復興予算が使われていなかったり、
不法に使用されたり、また建設業者のためだけに、かって作りたい
だけの目的で壮大なハコものを作ってきたやり方が、復興に名を借
りて無駄使いされている印象を得ました。
 3/13の朝日新聞の塩野七海さんインタビュー記事があります。
そこで被災地の市町村の有権者を45歳以上で区切って若い人に
2票の権利を与えて、その意見を反映させようということです。 
縦割り行政の弊害や市町村の補助金があるなら割安感だけ
が先行して全体を考えない復興計画などがどんどん進んでいる
模様です。
 このままだと誰も住んでいない場所や耕作しない農地の周りを
壮大な高さの堤防で囲むものが出来上がりながら、しかもまだ仮設
の住まいの人がいる。
 塩野さんは文面の最後に・これほど能力がありながら、それを
総合的に活用できなかった民族と歴史に書かれそう・と云われて
います。若い世代にもっと機会をということです。 

  2014-3-13












      朝日新聞と慰安婦報道

      塩野七生による・文芸春秋10月号  
 
 
 アメリカで慰安婦像が設置されたり、珍しく撤去されたり動きが活発です。朝日新
聞の慰安婦の誤報で塩野七海さんが文芸春秋で述べておられます。今回の朝日の
告白で慰安婦問題を解決する大きなチャンスであると。問題は強制連行とされた点
です。敵にまわせない欧米が問題視しています。高給タイピスト募集などとうたって
募集したケースは戦後の米軍のための慰安婦募集は日韓でありました。問題は公
的機関がからんだ強制でしょう。そこでオランダ人慰安婦の問題でオランダ人ウイレ
ム・ユーケスさんに接触して証言を得るよう提案しています。関係者全員の国会招
致で中継して、すべて公表する。本当の意味でウミを出し切る必要があります。

 詳しくは春秋をおよみください。他に興味をもった表現として、欧米人は建前と本音
の双方を心から信じる人種である。口に出して言える考えと、口に出しては言えない
が胸の内では持っている想いの二つがある。口に出せないが許せないのは、キリス
ト教徒、それも女子供が迫害されることであり、白人種ならなおさら許せないである。

                  2014-9-15





    追補 1   慰安婦交渉の日韓外相合意

 



昨夜、日韓慰安婦交渉がまとまりました。 北朝鮮との拉致被害者との交渉は今回の韓国と同じように昨年まとまりましたが、その後の結果は失敗でした。 今回もまだまだ継続して見ていかなければなりませんが、良い点は米国がからんでくれたことと、日本の次の世代にいつまでも謝罪をさせるわけにいかないというところでしょう。 爺爺ですら戦後生まれですので、何で言われなければならないのか不満でしたから。
 韓国大統領のテレビ会見のニコニコ顔は印象的で、これは本物ですと思わせます。

  唐突な印象を受ける今回の合意は、韓国はいかに追い詰められている状況ではないかと思われます。そうでなければ交渉はまとまらなかったでしょう。 韓国の経済的な破たんでこのあと、また、援助・支援をもとめられるのではないかと懸念してしまいます。また、外・害務省が本当に詰め切っているのか?と。

 
             2015-12-29


    2015-10-18  韓国問題まとめ 





     追補 2   塩野さんへの公開質問状
                   

 WAM・ウーマンズ・アクテイブ・ミュ-ジアム・女たちの戦争と平和資料館という団体より塩野さんへ文芸春秋2014年10月号の記事について公開質問状がだされています。

   http://wam-peace.org/20141004/

  塩野さんあて 公開質問状
   http://wam-peace.org/wp/wp-content/uploads/2014/10/2014_1004_shiononanami_koukaishitsumon.pdf

  継続して文芸春秋を読んでいないので、その後の経過は知りません。

爺爺は塩野さんの西欧人の思考がおもしろいとしてとりあげました。 欧米人には理想と偽善が一体となって文化が成り立っているように個人的には思っていますので。

 自分が正しいとする一神教的な考えで、有名人の上げ足をとり溜飲を下げたり、それで自分の価値を高めるような行動には賛成できかねます。 表現や行動をとるためには、もっと大きな観点からの選択と集中が必要でしょう。 館長の池田さんはHHKのデイレクターを定年退職された人のようです。WAMの行動自体は優れたことをされているとおもわれますが、偏狭にならないように願いたいものです。


        2016-1-2

 

 

 

 

  
   テミストクレス

前524・520-前459・455

 テミストクレスによる対ペルシャ戦争の戦略とその実現がなければ、その後の歴史は大きな変更をよぎなくされていたでしょう。
 アテネに限らず他のポリスでも市民による重装歩兵による主な軍隊が編成されていました。彼はそれを海軍を主力とした編成に変えることにより、サラミスの海戦に勝利することになる。 大陸軍国のペルシャは制海権を失い、ギリシャへの侵攻ル-トと兵站を無くし攻めてくることを出来なくさせました。

 明治の元勲が海軍を充実させ日本海海戦に勝利して、陸軍国のロシアの膨張を抑えたことと酷似しています。1500年の時間の後でしたが。

 ペルシャとの方針には、外交で処理すればよいという富裕層の穏健派と下層の市民の支持を受けている急進派が対立していました。テミストクレスは陶片追放を利用して巧みに穏健派を排除してギリシャ一の海軍を造成しました。 いざペルシャとの戦争の際には、追放した反対派をアテネに戻すことを許して、戦闘に加える柔軟さを示しました。

 ここが民主制のいやらしさ・嫉妬心ですが、成功に導いた彼を、今度は同じ陶片追放に処してしまいます。亡命生活が続き最後はペルシャの地方を任されることになり、そこで死亡しました。

 テミストクレスは他人の思いつかないことばかりをやり、それでいて実績を挙げた人だったのである。

 

サラミスの海戦 前480年9月


  年表
前490  第1次ペルシャ戦役・マラトンの会戦 ミリテイアデスの作戦奏功
前489  ミリテイアデス対立勢力に告発される。負傷で死亡
前487  テミストクレス、陶片追放でヒッパルコス追放
前486  同様にメガクレス追放
前485  穏健派に軍船の新造を阻まれる
前484  クサンテイッポスを陶片追放
前482  アリステイデスを陶片追放。200隻の軍船新造始める
前480  ストラテゴス・アウトクラテ-ルに就任。 
     第2次ペルシャ戦役始まる。
 8月 テルモピュレ-の戦いでスパルタ兵300名玉砕。
    テミストクレスがアテネの市民を強制疎開
 9月 サラミスの海戦でギリシャ海軍勝利。
前479  プラタイアの会戦で勝利。スパルタのパウサニアスが指揮
    サモス島奪還、セスト奪還、海峡の船橋を切断。
前478 テミストクレス、外港ピレウスとアテネを城壁で続ぐ。 
前477 パウサニアス、ビザンテイオンを奪取するが戒告。
   アテネを中心とするデロス同盟ができる
前471 キモンによりテミストクレスが今度は陶片追放される。
   パウサニアスが冤罪で逮捕され死亡。
   テミストクレスがアリステイデスに召喚されるも、無視して亡命生活。
前466 ペルシア新王からマグネしアの長官になる。
前459 テミストクレス死亡  

    2017-5-5





      アテネ民主制の歴史


     ギリシャ人の物語Ⅱ  塩野七生より
        民社性の成熟と崩壊

 


 

 


  ローマ人の物語でも全作そろえてから読み始めたのですが、こちらの年を考えるとそんなに待ってはおれずに、今作からは年に1回の出版に合わせて購入しています。Ⅱまで読み終えました。
 民主政にはすぐれた指導者があってこそ成り立つもの、それを支える中産階級があってこそのものだと思えます。 民衆の嫉妬心も恐ろしく成功をもたらしたリ-ダ-は今度は疑いだして追い出したり殺してしまいます。
 まずは  「アテネ民主制の歴史」です。
ソロンによる民主制への第1歩、ペイシストラストによる経済発展、クレイステネスによる民主制への完全な移行、テミストクレスによるペルシャの撃退、そしてペリクレスによる民主制の完成を経た。


  年表
紀元前
594年  貴族政から民主政へ、債務による奴隷化の禁止、資力による市民の権利と       義務制度はじまる。ソロンの改革
546年  ペイシストラトスによるク-デタ-起こる。彼による統治と改革が始まる。
508年  クレイステネスが一般市民の国政参加を認める。
480年  テミストクレスサラミスの開戦でペルシャに勝利
477年  デロス同盟が結成
446年  ペリクレスがデロス同盟をアテネ覇権に改革
420年  アルキビアデスが司令官に当選、4国同盟提唱
413年  シラクサでデロス同盟軍大敗北
411年  民主政を廃止、寡頭政制に移行、 410年民主政に復帰
405年  ヘレスポンテス海峡スパルタ軍がアテネ海軍を壊滅させる
404年  デロス同盟崩壊、アテネガスパルタに全面降伏

    2017-7-28

 

 

 

    アテネ指導者の栄光と落日

 

  塩野七生さんが「ギリシャ人の物語 Ⅱ」で「政体がどうかわろうと、王政、貴族政、民主政,共産政と変わろうと、今日に至るまで人類は、指導者を必要としない政体を発明していない」と述べています。その指導者を生み育てるのは難しいものと言えます。

 ロ-マ時代なら時代を変えるような戦闘に勝利した将軍は皇帝になるのですが、アテネでは凱旋帰国したとたんに、アテネの政体を壊すのではという懸念が生じて、濡れ衣でも、いいがかりでも告発されることが多くなります。僭主になるのを防いだつもりがアテネの存在をこわすことになり自業自得の結果となる印象です。 ギリシャ人の固有の特性が民主政体を生み、またそれにより滅亡したのではないでしょうか?
 

紀元前   栄光・業績 地位 落日・追放
6C頃-527
ペイシストラトス
サラミスの英雄
ク-デタ-成功
  北ギリシャ撤退
6C後半 -5C前半 クレイステネス
一般市民の国政参加承認
10の行政区に分ける
市民集会が最高議決機関
アルコン 亡命
550-455 ミリテイアデス
マラトンの戦い勝利 将軍・
ストラテゴス
民衆への欺瞞で告発
高額の罰金刑
?524-455 テミストクレス
海軍の増設
サラミスの海戦勝利

ピレウス港への外壁接続
アルコン 陶片追放される
ペルシャへの亡命
450-404 アルキビアデス
ペロポネソス半島へ進軍
4国同盟提唱
スパルタ海軍に勝利
司令官
陸海総司令官
神像破壊嫌疑告発される
スパルタ亡命
暗殺

 

    2017-8-30

 

 

 

 

  

   ペリクレス

    塩野七生さんによるペリクレス時代・アテネの黄金期  紀元前461年から429年

 

 紀元前495-429年

 

  アテネの黄金期はペリクレスの時代です。繁栄は、努力と苦労を伴うものである。その期の性質は創業者のものとは違う。ペリクレスの30年間もその連続になるのである。

 2代目にあたるペリクレスの課題は

1. アテネの民主政を機能させること。

2. ペルシャ戦役で勝利により獲得したエ-ゲ海の制海権を維持すること。

3. ペルシャ戦役の勝利で得た果実であるデロス同盟を堅持すること。

 歴史家ツキデイデスがこの時代を「形は民主政体だが、実際はペリクレスが支配していた」 ペリクレスは33歳で、年に1度のストラテゴスの選挙に30年間に渡って当選した。アテネでは、市民集会が最高意思決定機関である。 彼が自分の意思を通すためには、名門の地位も資産家も役に立たずに、言葉を駆使しての説得力で30年も勝負しなければならなかった。 言葉を使った彼の説得力は、視点を変えれば事態もこのように見えてくると示したことにあった。我々の役割は国民の要望をくみ上げてそれを実現することにあるとは言わずに、これらの理由でこの政策が最も適切であると自分の考えをはっきり示す、この政策の可否は君たちにあるのだと明言した。そして最後には、市民は常に将来の希望を抱いて彼の演説を聞き終わる。 彼の演説集があれば読みたいものです。 政治家の言葉が空洞化している日本には耳の痛いところです。

 彼は、公職につく市民には日当を払うという法案を提出して、日々働くことで家族を養っていける層にも、抽選で公務員になることになっても、それにより公務員になることを辞退しなくてよくなった。ペリクレスは権力欲しさに票を国のカネを使って買った、と反対されたが。彼の政治哲学はアテネ市民は誰でも、政治・行政・軍事にかかわらず、国の公務を経験すべきであることであり。  また、アテネは海軍によってなり、その戦力は3段層ガレ-船による。その1隻200人の乗り手のうち漕ぎ手は170人を要した。他国はそれに奴隷を当てたが、アテネは市民がになった。それゆえに漕ぎ手は「練達技能集団」になり、海軍の強さの根源であった。その漕ぎ手に対する生活保障の制度化も、公務員にたいするものと同じようにペリクレスが行った。アテネの労働者階級の生活保障をすることで安心させた。これが民主アテネの地盤つくりであった。

 ペリクレスの死の報は、アテネ市民にはさほどの感慨もなく受け取られた。国葬にもならなかった。彼は、何事につけても国民に寄り添うとか要望に耳を傾けることもせず、叱りつけてリ-ドするのみであった。彼は運命は神々が定めるものでなく、人間が切り開くものと言い続けてきた人である。こうも貴族的でこうも非民主的な男によってアテネの民主政は、それ以前にも以後にも実現しなかったほどに機能できた、彼の死がアテネにもギリシャ全体にも終わりの始まりになるのであった。



   2017-9-1




 

 

   ペリクレスの戦没者追悼演説

 

 ペロポネソス戦争第1年目の追悼演説はペリクレスが行った。下記に記したものは、塩野七生の「ギリシャ人の物語Ⅱ」からです。2500年後のヨ-ロッパの高校の教科書に載っているそうです。

 

パルテノン神殿  ペリクレス立案

 「我々のアテネの政体は、我々自身が作り出したものであって、他国を模倣したものではない。名付けるとすれば、民主政(デモクラツイア)と言えるだろう。国の方向を決めるのは、少数の者ではなく多数であるからだ。

 この政体下では、すべての市民は平等の権利を持つ。公的な仕事への参加で得られる名誉も、生まれや育ちに応じて与えられるものではなく、その人の努力と業績に応じて与えられる。貧しく生まれた者も、国に利する業績をあげた者は、出自による不利によって名誉からはずされることはない。

  我々は、公的な生活にかぎらず私的な日常生活でも、完璧な自由を享受して生きている。アテネ市民が享受している、言論を始めてとして各方面にわたって保証されている自由は、政府の政策に対する反対意見はもとよりのこと、政策担当者個人に対する嫉妬や中傷や羨望が渦巻くことさえも自由というほどの、完成度に達している。  とは言っても市民たちの日々の生活が、これら渦巻く嵐に右往左往して落ち着かない、というわけではない。

 アテネでは日々の労苦を忘れさてくれる教養と娯楽を愉しむ機会は多く、1年の決まった日に催される祝祭や競技会や演劇祭は、戦時であろうとも、変わりなく実施されている。  そしてこのことに加えて次に述べることも、我々の競争相手の生き方の違いを示す例でもあるのだ。

 かの国は外国人を排除することによって国内の安定を計るが、アテネでは反対に、外からくる人々に対して門戸を解放している。他国人にも機会を与えることで、われらが国のより以上の繁栄につながると確信しているからだ。

 子弟の教育に関しても、我々の競争相手は、ごく若い時期から子弟にきびしい教育をほどこすことによって勇敢な気質の持ち主の育成を目指しているが、 アテネでは、かの国ほどは厳格な教育を子弟に与えていない。それでいながら、危機に際しては、彼らより劣る勇気を示したことは1度としてなかった。

 我々は、試練に対処するにも、彼らのように非人道的で苛酷な訓練の末に予定された結果として対するのではない。我々の一人一人が持つ能力に基づいての、判断と実行力で対処する。我々が示す勇気は、法によって定められたり、慣習に縛られるがゆえに発揮されるものではない。一人一人が日々の生活をおくることによって築き上げてきた、各自の行動原則によって発揮されるのだ。 現在諸君が目にするアテネの栄光と繁栄は、これら多くの無名な人々による成果であり、これこそがこのアテネにふさわしい、永遠の命を与えることになるのである。

  われわれは美を愛する。だが節度をもって。

  われわれは知を愛する。しかし、溺れることなしに。

  われわれは、富の追及にも無関心ではない。だがそれも、自らの可能性を広げるためであって、他人に見せびらかすためではない。

 

 アテネでは貧しさ自体は恥と見なされない。だが、貧しさから抜け出そうと努力しないことは恥とみなされる。 私的な利益でも尊重するこの生き方は、それが公的な利益への関心を高めることにつながると確信しているからである。私益追及を目的に行われた事業で発揮された能力は、公的な事業でも立派に応用は可能であるのだから。  このアテネでは、市民には誰にでも公的な仕事に就く機会が与えられている。ゆえに、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とは見なされず、都市国家を背負う市民の義務を果たさない者と見なされるのだ。  これが、諸君が日々目にしている、ギリシャ人すべての学校と言ってもよいアテネという国である。 戦没者たちは、このアテネの栄光と繁栄を守るために、その身を捧げたのであった。

 この人々の尊い犠牲に国家が報いることは、その犠牲を心に留め続けることと、彼らが残した遺児たちの青年に達するまでの教育を、経済面で保証することぐらいしかない。  だが、アテネ市民全員に約束出来ることは、まだ一つある。 それは、戦時とて海陸双方の戦力を増強せざるをえないとはいえ、その一方では市民の日常生活が以前と変わりなく続けられるよう、全力をつくす、ということだ。なぜなら、この双方とも成し遂げてこそ、アテネは、アテネの名に恥じないポリス・都市国家であることを明らかにすることになるからである。

 さあ遺族たちはまだしばらくの間、肉親を失った哀しみにひたるがよい、だが、その後は家路につかれよ。 他の人と同じように」

   以上 ギリシャ人の物語Ⅱ 塩野七生さんによる

          2017-9-3

 

 

 

 

     アルキビアデス  紀元前450-404年

        アテナイの没落   塩野七生さんによる

 

 スパルタにあるモザイク画

  ウイキでは衆愚政治を代表するデマゴ-グと記されている。アテナイの滅亡は彼の責のようにも書かれています。また、彼は、たぐいまれなイケメンであったようで、亡命中にスパルタ王妃と・今はやり言葉で・一線を越えたと伝わる。

 指導者は他者より秀でていると自負するからこそ、他者たちをリ-ドしていく気概を持てるのである。だが、 無知を知ることは、重要きわまりない心の持ちようであるのは確かだ。ソクラテスは他者より自分のほうが優れていると思ってはならないと教えた。しかし、そう思ってこそできることもあるのだ。「羊」であると思う人ばかりでは、誰が羊の群れを導いていくのでしょう。 

 アテネの没落は紀元前429年にペリクレスの死去により始まる。民主政に必須な適切な指導者を欠いたのが原因です。衆愚政も民主政もその主体は衆にある。最高決定機関は「民・demo」にあるという点はそのどちらにもある。銀貨の表裏のようなものです。指導者を間違えると、民衆を心の奥底に持っている漠と感じる将来への不安を、煽るのが巧みな扇動者が治める衆愚政治になる。

 彼の登場した時代は,「ニキアスの平和を代表する良識派・穏健派」と「規制の概念から自由であり良識あると自認する人々の偽善を嫌悪するソクラテスの弟子で演説の上手な彼」と2分された政治状況であった。民衆は両派の間を揺れ動いた。彼にとっての不幸は始めたことを続けさせ、終わらせてくれなかったことにある。彼の悲劇に終わった人生はペリクレスのような力量がなかったゆえでしょう。 ドラマのような華麗で変遷にとんだ人生であったのは事実です。 アテネは彼を使えればもッと繁栄は続いた。

 

     アルキビアデスの年表

 紀元前 420年  ストラテゴス・司令官職に当選。アテネ、アルゴリス、エリス、アルカデイアとの4国同盟を提唱

     419年  再選され、ペロポネソス半島西部に進軍

     418年  4国同盟とスパルタ衝突、マンテイネアでスパルタに敗戦

     417年  陶片追放制度廃止、アルキビアデスはオリンピックで戦車競走で1-3位独占。

     416年  シチリア遠征を提唱し可決。

     415年  ヘルメス神像破壊事件が起き嫌疑かかる。捜査中での身で出陣、カタ-ニャで主犯とみなされて逃亡。

     413年  デロス同盟軍大敗で壊滅

     412年  亡命してたスパルタでペルシャの外交使節として行き、そこでペルシャの軍事顧問になる。デロス同盟離反の動き  

          なかで、サモス島に上陸してそこの海軍を支配下におく。

     411年  アテネ民主制を破棄して寡頭政にな移行。 アテネ側に復帰なる。

     410年  アテネ海軍を率いてスパルタ海軍に勝利。 民主政に復帰。

     407年  アテネに帰還して、陸海軍総司令官になる。

     406年  海軍を率いてエ-ゲ海東方に出発、スパルタ海軍と引き分ける。扇動者により解任される。マルマラ島へ亡命

     405年  アイゴスポタモイに現れ戦術を進言するも拒否された。アテネ海軍はh壊滅的敗北を帰す。

     404年  暗殺された。アテネがスパルタに全面降伏

 

        2017-9-5

 

 

 

 

 

 

 

    ソクラテス と アルキビアデス

 

         塩野七生さんのギリシャ人の物語Ⅱより

 

紀元前469頃―399年

 

 ソクラテスは重装歩兵としてアテネ市民の責務である兵役にも充分以上に果たした人である。ソクラテスに体現される「哲学」は、良く生きるには必要な何かを提示し、それを人々に気がつかせることで、役割を終わる。 西洋哲学はギリシャ哲学に始まり、ソクラテスから真に始まる。彼は何も書き残さなかったので、42歳差のあるプラトンの叙述による。

 「ソクラテスの弁明」を読んで半世紀すぎた人生を送ってきた小生は、今だに「無知の知」には至らず「無知の恥」を感じるのみである。

 

 アスパシア

 ペリクレスの愛妻アスパシアのもとに若いソクラテスは入り浸っていた。アルキビアデスは父親代わりのペリクレス宅に繁々と出入りしていた。アスパシアは親切に向かい入れて親代わりになっていたといわれている。ソクラテスはそこで彼を知り、アルキビアデスを将来のアテネの指導者として最初に見抜いた。 少年愛が盛んなこの時代ソクラテスも美青年に執心した逸話もある。アルキビアデスは彼を誘惑して一夜を共にしたが父親のようであったと彼の望むようにはならなかったという。

 アルキビアデスがアテネ市民の不安を払拭させるために、自費で参加したオリンピック競技に優勝した後のころ、アガトン宅で行われたプラトン作の「饗宴」がおこなわれた。ソクラテス54歳アルキビアデス34歳のとき。その作品のなかでのアルキビアデスのソクラテス賛歌が以下のようである。

  アルキビアデスによるソクラテス賛歌

 「親愛なる友人たちよ、ソクラテスという人は、手にした笛の音だけで人間を迷わせる、森の神シレヌスに似ているのだ。いや、ひしゃげた鼻と飛び出した目玉といつも半開きの大きな口から、サルテイス神の一人に似ている、と言ったほうがよいかもしれない。マルシアだって、アポロンに挑戦したくらいに笛の名手であったのだから。

 しかし、彼ら二人は楽器を使って人々を魅了するのだが、ソクラテスが使うのは言葉だけ。笛の妙なる音色に助けられなくても言葉だけで、同じ効果を得てしまう。なぜなら、ソクラテスの話を最後まで聴いた人は、茫然自失して金縛りにでもなった想いになってしまうからだ。

 ペリクレスの演説を聴いていると、その巧妙さには感心させられる。だが、心を乱されることまではない。それがソクラテスの話を聞いた後では、涙があふれてきて止まらなくなる。そして、自分は何をやっているのかと、常に自分に問いかけねば済まない想いになってしまうのだ。

 僕がアテネの国政に没頭するのも、このシレヌスの声を聴くまいと耳をふさぐことで彼から逃げるためで、彼のそばに居続けたままで一生を終えたくないからだ。

 僕は今まで、他の誰に対しても、自分を恥ずかしいと思ったことはなかった。だが、この人の前では、恥ずかしいと思ってしまう。  なぜなら、この人が僕に教え説くことの重要さはわかっているのだが、民衆がわたしに求めるのはそれとは別物であり、そのことの大切さもわかっているので無視できないからなのだ。

 おお、この人が地上から姿を消してくれたらと、何度願ったことだろう、だがそうなれば、最も苦しむのは僕自身なのだが。 君たちだって、ソクラテスとは親しい仲なのだからわかっているはずだ。

 彼が、美しい若者とみれば愛し、その付きまとって離れなくなるのも知っている。その彼自身となると醜男だがね。それでいてソクラテス自身は、地位も金にも無関心ときている。

 だが君たちは、そのッソクラテスの中身を見ようとしたことはあるのか。 僕は一度だけ見たことがある。そこは、神々の棲む世界にも似て黄金色に光り輝き、その世界には、彼と彼の教えに従う者しか入れないのだ」

 

 ソクラテスはアルキビアデスのこともあり若者を堕落させたとか難癖をつけられ、毒を飲んで死ぬことになった。 アテネの凋落とともに。

      2017-9-7

 

   追記


 

 図書館の貸出しカ-ドを作成して、プラトンの「饗宴」森進一訳を借りてきて読みました。それを選んだ理由は、20代の時に岩波文庫本を読んだ覚えがあるので、もう少し現代語訳のものが良かろうかとの判断でした。岩波のものは戦前の原板で旧かな使いのものがものにより販売されています。

 ギリシャ神話に詳しくないので、その神のことを述べられるとエピソ-ドや由来も思い浮かびません。集中が続かず、年のせいにしておきますが、何とか読み終えました。 アルキビアデスのソクラテス賛歌のところは、上記のように塩野さんのものがありましたので、 分かったようなものです。 

   2017-9-9







      危機の克服 


    

  国難が迫っているというスロ-ガン演説を聴かされて、最近に選挙が行われた。自民党が圧倒的な支持を得ることになる。

 また、トランプこそが危機ではないかとも言われています。それは、北朝鮮が米国に届く核ミサイルを完成させるまでの間に(もしその期間が有るのなら?)同盟国が多くの被害を受けることを深く考慮することなく、アメリカファ-ストの政策が実行されるかもしれません。トランプならば、充分に想定できることです。

 危機は危機でも塩野さんが以下に「逆襲される文明」と題して、雑誌の小エッセイを集めた新書本にある危機と今の差し迫った国難は違います。その文中に……
 塩野さんが、50年にもわたる勉強で何を学んだかの一つは、「長期に渡って高い生活水準を保つことに成功した国と、反対に、一時期は繁栄してもすぐに衰退に向かってしまう国があるが、このちがいはどこに原因があるのか、という問題である。
 前者の典型は、古代のローマ帝国と中世・ルネッサンス時代のヴェネツイア共和国。後者の好例は古代ではギリシャ、中世・ルネッサンス時代ではフィレンツエ。
 前者と後者を分けるカギは、上手くいかなかった時期、つまり危機、に表れてくる。危機をどう克服したかが、カギになる。それはそこいらに簡単にあるのだが、その重要性を認識できた人だけが見つけ出せる。
 持てる力や人材を活用する、ということがカギだ。上手くいっていた時期に蓄積した力やその時期に育った人材を、停滞期の今だからこそ徹底的に活用してやろうという心意気である。人材は常におり、どこにもいる、ただ停滞期になると、その人材を駆使するメカニズムが機能しなくなるのだ。前者は危機の克服を、これこそが政治であると実行した、後者はリストラという方法に訴える。歴史的に言えば、国外追放。テミストクレスやダビンチのような頭脳流失の先例を作る。 リストラは短期に範囲を達成できるが、長くは続かない。」 
 
 東芝、神戸製鋼、日産と続々と問題が表面に現れています。 ある企業のリストラ案では退職金プラス5千万円を提供という報道を目にしました。目先の金額はスゴイナと思われますが、果たしてそれで上手くいくのでしょうか?

 ヨットで地方のさびれた寒村を訪れることがあります。そこでは、我が町内くらいの狭い地域で、幕末の維新の功業に加わった青年の生家がいくつもある村を知ることになりました。人材はどこにでもあるのだなと思わされます。時代の要請があれば人材は噴出してくるのだと思います。


         2017-11-11

 

 

 

       衆愚政と民主政

 

 

 爺の時代の学校での近代日本史教育は、個人的な感想でもありますけれど、維新後から原敬の平民宰相と普通選挙法の成立まで習って、時間が無くなり終わったような気がしています。第2次大戦や戦後史まで習うことはありませんでした。それも普選法を頂点としたデモクラシ-進展の流れを描くのを基調としていたと思われます。

敗戦後生まれですので、小学生の低学年の時には、進駐軍を実際に目にして育った。小生は与えられた戦後民主主義をアプリオリに正しいものと認識・刷り込みとして育ってきたわけです。そのせいでしょうか、ヒットラ-のナチス政権が当時の最も進んでいたと云われるワイマ-ル憲法のなかで選挙により選ばれた合法政権であるのが不思議で、長く疑問点でした。

下記の塩野七生さんの「逆襲される文明」という小冊子を読み少し氷解したように思います。

 「衆愚政とは民主政の国にしか生まれない。日本人はデモクラシ-を簡単に口にする。これを叫びさえすれば何事も解決できる感じだ。同様に衆愚政も疑いもせず口にしてきた。ところが、古代ギリシャ語ではデモクラツイアとデマゴジアがそれらに相当する言語になる。そのデマゴジアの日本語訳の衆愚政を、日本の辞書は、多くの愚か者による政治としか説明していない。<ins><a href="http://hayame.net/custom26.html#spb-bookmark-344" target="_blank"> ペリクレス</a></ins>は卓越した政治家であったが、彼が死んだ途端にアテネが衆愚政に突入した事実は、アテネの市民が急にバカになったわけでもない。
 デマゴジアはデモクラツイアの劣化した現象。デモクラシ-も、金貨の表と裏の関係であるので、デマゴジ-に転化する可能性を常に内包している。

 扇動家とは、実現不可能な政策であろうとそのようなことは気にせず、強い口調で繰り返し主張することで強いリ-ダ-という印象を与えるのに成功し、民衆の不安と怒りを煽って一大政治勢力の獲得まで至った人であると、イタリアの辞書にある。 選挙運動中のトランプは生きた標本になってくれた。

 デマゴ-グ・扇動家とポピュリスト・大衆迎合家は日本では同じ意味で使う人が多いが同じではない。ポピュリストは大衆に迎合するが、デマゴ-グはしない。普通の人間ならば多少なりとも誰もが持っている将来への不安に火をつけ、それによって起こった怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操ることが巧みな人々をデマゴ-グという。」

 やたらとナチスのことを引き合いに出す財務大臣、ナチス礼賛をした嫌疑で米美容外科学会から除名宣告を受けた高名な美容クリニック院長などを最近のニュ-スで目にします。
 また、偉大な緑のポピュリストは、そのしっぽが露見して、大衆はそれを気付いてしまい、幸いにもその芽を摘みました。同時に人気に陰りがみえましたが、現に大きな力をもつポピュリスト・デマゴ-グを兼ね備えた政治家は続投しました。これが現実。

 デモクラシ-は賢な市民に支えられて成り立ち、微妙なバランスの上に成り立つ壊れやすいものと理解しなければなるまい。しかし賢な市民が多数を占めることは極めて稀というよりはあり得ないと認識した方が現実的です。それゆえに代議制があるのでしょう。優れた指導者に率いられる民主政こそが必須のものともいえます。
優れたリ-ダ-を生む教育なり文化を意識的に育成しなければばらない。

 25年余り給与が上がらずに、負担ばかりが増えて実質給与は値下がりしています、それなのに欧米先進国は倍に上がっているにもかかわらず。 幸い統計上の失業率は低く納まっていますが、外国人労働者や難民の流入が増加すれば、その人々は怒りの対象として浮上するでしょう。それにつけ込むデマゴ-グ・扇動家には注意したいものです。


   2017-11-13





     ソクラテスの死  塩野七生さんによる




 「ソクラテスの死」については、はっきりとした記憶が無い、高校の倫理社会の時間に学んだのであろうか。 単に「悪法なれどもそれに殉じた死」であったのか、得心のいかないものをずっと老年になるまで持っていた。

 昨年末に1か月余り入院する時があり、新刊を買って以来放置していた塩野さんの「ギリシャ人の物語Ⅲ」を読み終えた。その死が少しは分かった気がしている。

 当時のアテネの裁判は500人の市民による裁判員裁判であった。死刑の判決を受けても厳しく執行されるものではなく、国外退去すれば逃れることもでき、裁判自体も強弁することが無ければ減刑なり無罪なりの判決を得ることができた。 従いソクラテスは確固とした信条・信念によりこの裁判に対処し死刑の判決を得たものと思われる。

 アテネで紀元前399年に行われたソクラテスを裁く裁判で、ソクラテスを告発した側の言い分は次のようなものであった。「国の認める神々を尊重せず、アテネの青年たちに害毒をおよぼした」 それは彼を死に追いやるような告発ではないと分かる。


 大衆は怖いもので、ペルシャに勝利したデミストテレスでさえ救国の英雄をその嫉妬心から敵国に追いやってしまった。 平等の権利を持ち自由な精神を持つ大衆が無ければギリシャの哲学や芸術は起きなかったけれど、それはアテネの交易による発展の上に成り立っていた。

 スパルタとの抗争でアテネは形勢が悪くなると経済も悪化し不安な気持ちが市民に蔓延した。「もはや自分たちには自分の運命を決める力はないという冷酷な現実は、それが可能と思い込んでいた時代を経験しているアテネの人にとっては耐え難く、憤懣やるかたないの心境であった」この空気の中でソクラテス裁判は起こる。ソクラテスは罪状は認めないが、徴兵に従い公務員まで務めた市民として責務か欠かさなかった。  衆愚が始まりそのイライラとした市民の気分がソクラテスを死に追いやることになる。 「ソクラテスは思索と言動と表現の自由というアテネ人が想像した理念を貫き通し、それにどう幕を引くか。 彼の死に方を見せることは師が弟子に与える最上の教えであった。」「あのような罪を着せられて死なねばならないことを逆手にとって、彼の哲学を完成させた」


アテネの興隆するときでも、良きリーダーが大衆を率いていかなければ機能しなかった。「民主主義・デモクラツイアには良き指導者を不可欠とする」ものでないのか。大衆の意見をくみ上げれば良いというものではない。嫉妬や不満の気分がその意見に反映されやすいものと知るべきであろう。 いつも大衆は愚であるとは思わないが、壊れやすいものとして運営しなければ、効率のよく見える専制主義の被害を受けることになる。


 アテネの繁栄は70年の短い期間であった。わが人生より短いのかと驚きではある。 アテネの経済的な没落と共にソクラテスは死しギリシャ文明も終焉を迎えるのである。


 20代の時に岩波文庫の多くのプラトンを読んだけれど、この老年になって何も残っておらず。 ソクラテスの死も哲学的な問題として、と言うと小生には手に負えないのかもしれませんが、アテネの経済と凋落とから塩野さんのように述べられると少しわかったような気がしています。



   2022-1-18

 

 

 

 

    スパルタ

              塩野七生さんによる


スパルタとアテネ



 アテネに勝利したスパルタについては「スパルタ教育」程度のことしか小生は知らない。 ペロポネトス戦争に勝ってギリシャの覇権を握ったスパルタは、その後パットすることもなくマケドニアにその覇権を譲った。 塩野さんの「ギリシャ人の物語」により少し分かった気がするのでのでここに記します。


 スパルタの年表・紀元前



1104    建国したと云われる
800-700   リュクルゴスの憲法成立
546     ペロポネソス同盟成立
490     第1次ペルシャ戦役
480-479   第二次ペルシャ戦役、 テルモピュレイの戦い
404     ペロポネソス戦役でアテネに勝利  ギリシャの覇権を握る
395     コリントス戦争 アンキタルキダスの和約
371     レウクトラの戦い、 ギリシャの覇権喪失 


     社会の構成


 2人の、 戦場で戦闘を指揮するのみの権限

 5人のエフェロス、 市民集会で選ばれて再選不可の1年任期、内政と外交に従事

 一万人のスパルタ人戦士・市民権を持つ、 20-60歳の重装歩兵として軍役に従事

 ヘリオイコイ  7万人、手工業や小規模の商業に従事

 ヘロット 16万人、 農奴・農業に従事

 

 ギリシャの陸軍の代表とも言えるスパルタの重装歩兵は歴史を通じて1万人余りであったという。 それは市民権を持つことが出来たスパルタ人であった。この数の兵力でスパルタを維持しアテネに勝利して覇権を握った。 それに役立った制度が今度は衰退の原因となり、わずか70年の期間で衰える。

 5人の内閣ともいえるエフェロスは1年の任期年で再選無の人である。 彼らはリュクルゴス憲法の番人ではあったが戦略的思考のできない人であった。 ペルシャの力を借りてアテネを倒したが、スパルタ人はその傭兵と化して弱体し衰亡していく。

 少数のスパルタ人で自国を支配したのであるが、スパルタはヘロットには収穫の半分しか収奪をしなかった。ヘリオイコイにも安価な税金であったという。 小生にはあの苛烈なスパルタにしては驚き である。

 まずい食い物を食べ華美な生活をしないスパルタ人にはその収入で充分であった。

 スパルタは軍事に特化して若者を訓練・教育し、30歳になってから所帯を持っても、寝る時は宿舎に戻るようなストイックな社会にも衰亡が訪れた。

 作家で都知事であった石原さんが、 かってスパルタを持ち上げるような本や言動があったと記憶にあるが、この本を読んでなんと言うのであろうか。

 全3巻の「ギリシャ人の物語」を5年以上もかかって読み終えたのですが、「ローマ人の物語」も含めてこれを読めば小生にはその後の西欧の歴史はどうでもよくなります。これを学べと言っても、多くのものを学びっとっていないのは事実でしょう。



      2022-1-23


 

 

 



    アレキサンドロス・ アレキサンダ-


        ギリシャ人の物語Ⅲ  塩野七生さんによる

 

 紀元前336-332  (以下図表は塩野さんの著書による)



 アレキサンドロスは父親のフィリッポスが無ければ存在しない。 父がギリシャの覇権を握り、その子アレキサンドロスには武人としてのスパルタ教育、アリストテレスを招聘しての教育により成った。、その哲人は下記の方針でアレキサンドロスを教育した。

 第1に先人たちが何を考え、どう行動したかを学ぶ。 

 第2は日々にもたらされる情報に対して偏見無く冷静に受け止める姿勢の確立。

 第3は第1と第2に基いて、自分の頭で考えて意志により冷徹に判断したうえで実行に持っていく能力の向上を教えた。 

 アレキサンドロスはギリシャの覇権を土台にして東方の大国ペルシャへ向かっていくことができた。  いわば当時のギリシャの地で花開いた最高の知性とボデイをアレキサンドロスには吹き込まれた。

 単なる天才は稀に生まれるかもしれないが、その素材の上に最高の教育で育てられた人物は歴史的にも稀であろう。 日本の例では、戦闘の天才・義経がありといえども、その失敗は、彼にやさしい兄に恵まれなかったという話ではない、義経の知性がその時代成り立つ趨勢が読めなかったということ。 単なる天才に終わったということだ。




   アレクサンドロス年表



前356  フィリッポスの子として誕生

前343-340頃 レオニダスによる訓練とアリストテレスによる教育

前338  カイロネア会戦 マケドニア大勝、テーベとアテネ軍敗れる

前336  父フィリッポス暗殺される

前334  グラニコスの会戦、  イオニア地方の回復

前333  イッソスの会戦、  ダリウス敵前逃亡

前332  テイロス攻防戦

前331  エジプト入り,無血制覇


           ガウガメラの会戦までの行軍図   

   
前331 10月 ガウガメラの会戦、 ダリウス再び逃亡

前326    ヒダスペスの会戦、インド王ポロスとの戦い


       ヒダスペスの会戦とスーザへの帰還


前324  合同結婚式挙行

前323  アレキサンドロス死す



 アテネやスパルタの重装歩兵は市民権を持った特定の少数の階層からなっていた、それゆえにポリスを守る強い使命を持った精鋭になっていた。父フィリッポスはこれを長い槍を持つ農民よりなるファランクスに訓練し、当時ではより強い歩兵へと改革した。

 アレキサンドロスはファランクスの歩兵と共に騎兵の用法で、すなわち、戦闘の勝敗は、騎兵が先陣を切り、速攻に次ぐ速攻により戦場での主導権を得て、そのご歩兵との連帯による展開によりペルシャに勝利した。 また、戦闘時間の短縮で犠牲者を少なくし、兵士が犬死しなくて良いと得心させてリーダ-の価値を高めた。アレクサンドロスの考えるリ-ダ-とは、部下たちの模範にならねばならない存在であり、率先してリスクを冒している様を見せることで、モデルと納得させる存在でなければならなかった。

 理想的なリ-ダ-に率いられたマケドニア兵は広大なペルシャの領土を勝ち取った。 東征から帰還したスーサにて彼は云う。「ヨ―ロッパもアジアも、今では一つの国になったのだ。きみたち全員は、わたしの同国人であり、わたしの兵士であり、わたしの友人でもある。そこで誰もが,同等の権利を享受し、同等の義務を負う。きみたち全員は、一人の王の許で、共に平和に生きていく運命を共有するようになったのだ。」とアレキサンドロスは言った。

  後世にインドまで行ったアレキサンドロスとして有名ではあるが、それはペルシャが大帝国であったということに過ぎないことが分かった。 ギリシャにとっては長年のペルシャによる圧迫をアテネやスパルタ、テ-ベの覇権によっても解決できずに、 マケドニアのギリシャ覇権の確立の上に大天才アレキサンドロスの誕生によって跳ねのけたといえる。 大天才はそれまでのギリシャ文明が彼を育てたとも言える。 アテネやスパルタの文化の上に。



     2022-1-29