ヨットで巡るお城
項目
石戸城・砦 (天神山城
松山城と道後温泉
宇和島城
丸亀城
高松城
三原城
福山城
甘崎城
岩城新城
東山城 塩飽本島
村上水軍・海賊
能島水軍城
宇多城
青影城
桜尾城
吉田郡山城
広島城
仁尾城
戦国時代の南蛮音楽
https://www.youtube.com/watch?v=AmlAcawZ-cY

石戸城 手前が一夜堤
石戸城の歴史など
;大河ドラマでも平清盛の話になればスルーです。戦国武将のようなロマンを感じることがないからです。兄弟・親子・親類の相続争いは勝手にやっておればという気持ちです。
そのような時代ですが、地元の石戸城・砦は扇谷上杉氏が古河公方に対抗するために築城しました。
石戸の位置が鎌倉街道が通り、鎌倉から鴻巣を経て忍に通じる交通の便があり、川越と岩付、松山の城を連絡する位置にありました。
上杉謙信が関東の争いに乗り出してきたことから、松山城攻防の後詰めのために石戸城に在城したことがあります。
(後)北条氏が力を増して、 関東を支配する動きのなかで、北条氏邦により石戸城は落城した。
秀吉が北条氏への小田原攻めにのときに、、その前哨戦として、関東の北条氏の諸城を攻撃して落城させた。 石田光成が忍城への水責め攻撃が有名です。
諸城が北条氏から秀吉のものとなった。それで小田原城に孤立した北条氏が降伏して、秀吉の天下統一となる。 秀吉により家康が関東転封になり、家康の譜代牧野氏に石戸城はまかされたが、川田谷に居館を移したことで廃城となりました。
年表
1132 藤田八右衛門による築城ともいわれる
1457-60 扇谷上杉家臣の大田道灌により川越城・岩付城・石戸城を築城
古河公方に対するため、同時期に江戸城も完成。
1525 北条氏綱が岩付城を陥落、大田資頼が石戸城に逃れる。
1537 扇谷上杉の本拠川越城が北条氏綱により陥落
1546 川越夜戦で上杉朝定が死亡して扇谷上杉滅亡
1562 北条氏邦(鉢形衆)が一夜堤を築いて石戸城を陥落
1564 上杉謙信 松山城の後詰めの際に着陣。松山城落城を知り、
騎西(私市)城を落として帰る。
1590 小田原攻めで秀吉に降伏
徳川家康のにより牧野康成に与えられたが廃城

北本教育委員会調査図
石戸城の規模と郭など
城跡を散策してみますと、近くの松山城や鉢型城のように籠城作戦をとっても数千名の兵士が籠城できるほどのスペースはないようです。 発掘がすすみ南側に大きな構えが見いだされないかぎり、数百名の籠城しかできない面積です。城というよりは砦です。
北・東・西の3方を川・湿地に囲まれた要害です。南側からの攻撃しかできないので、南側は大きな堀で守られています。
北条氏邦が攻撃の際に東側の台地に陣を構え一夜堤を築いて落城させた言い伝えは理にかなっています。
現状では目立たないところに遺跡の小さな表示があるばかりで、現代になってできたさくら堤通りを車で走行すると切通しがあるのみで、気が付かないで過ぎてしまうでしょう。
荒川で掘った土を掘に埋めて平坦にしてしまったせいで、注意しないと分かりにくくなりました。西側崖斜面下には古くは荒川の支流和田吉野川があったようですが、ここも河川改修と湿地の埋め戻しで、現在は天神下公園のグランドになっています。東側の湿地は昔のままで、一夜堤も残されています。
私有地になっているのでやたらなところには立ち入りできず1の郭には2-3層の天守台の跡地があるといいますが、確認できておりません。
地元では、まだ10-20年は使える、駅西側の再開発に6億円も投じました。半分が国費で支払われるということが、その大きな開発理由でした。
地方創生が叫ばれていますが、それなら民有地を買い上げて、城・砦の復元をめざしたらどうでしょう。もちろんオリジナルに近い木造の構造物です。壮大な天守を再現する必要もないので、費用も少なくて済むと思っています。 現在ある樹を伐採して再利用をする、エコに作ることも考えなければなりません。
石戸城 想定図


教育委員会にある古地図 鎌倉街道が通る
詳しい写真は下記をごらんください
http://www.hayame2.sakura.ne.jp/99_blank009.html#石戸城
2016-10-24
松山城(伊予)と道後温泉

秋山兄弟と正岡子規を育んだ伊予にある松山城に行ってきました。
賤ヶ岳の七本槍のひとり加藤嘉明が関ケ原の戦いで戦功をあげ松山城を築城した。連立式の天守であるが、昭和も初期に子天守が消失が消失して、木造で復元された。 門・櫓なども良く残っており防備のための工夫もうかがわれる。
見ごたえのある城でした。

ケ-ブルカ-やリフトが山頂の天守まで整備されている。スキ-気分でそれに乗りました。ふもとにあった2の丸3の丸からの登り道もあり、今から思えば帰りはそれを利用すればよかったように思います。
道後温泉近くに湯築城が公園として残っており、これも見たかったけれど、逃してしまいました
道後温泉

上の写真は道後温泉の本館です。これを代表としてひなびた温泉街が続くのかという勝手な事前の想像でしたが、期待はずれでした。 410円程度の入浴料でお湯につかれるのは良心的です。さすがに有名な観光地だけあって、にぎわっていてイモを洗うようなものでした。温泉の質は温泉オンチの爺爺にはわかりません。

ぼっちゃん列車 予約が必要です。
松山は四国の地方の小都市だけあって、落ち着きが感じられて、都会的なこととのまとまりもあり、住みたい気持ちになりました。 名古屋の市電が全盛であったときに育ったので市電には愛着があり、なつかしい思い出です。
2016-2-18
宇和島城

藤堂高虎によって築かれた。現在は埋め立てられて海城には見えませんが、西側は海に接していた。現在は天守が残るのみで大手門が空襲で焼失して門は残っていない。現在の登山口にある門は武家屋敷にあった長屋門を移築したものである。しかし天守は江戸時代の建造で残存する日本12天守のひとつです。

天守付近に居たボランテイアガイドさんの説明によれば、伊達の分家のはずですが、意外なことに、嫡男(嫡子ではなく庶子)が初代宇和島藩主であった。それというのは、秀吉の人質として秀頼とともに大事に育ったので、徳川にはばかるところがあり、本家の相続は次男がした。家康が伊達政宗への100万石・報奨の1部として、正宗が家康に進言して宇和島に10万石を賜った。
宇和島藩は進取の気風が幕末まで残り、高野長英や大村益次郎を採用し、蒸気船の建造もしている。 我がおカミさんによれば、仕事でこちらにきたことがあるのですが、農業で新しいことを進んで取り入れているのだそうです。現在でも進取の気風がある土地だと話してくれました。
おだやかな気候とこじんまりとまとまった雰囲気は好印象で住んでみたいところです。

宇和島城より宇和海を望む
2016-2-23
丸亀城

丸亀城 遠景

天守
日本12現存天守のひとつ丸亀城に行ってきました。1597年。生駒親正が築城に着手。1国1城で廃城になる。1643年山崎家治が再築した。1658年京極高知が6万5000石で丸亀藩主となる。1660年天守完成。
何といっても近世の城郭ゆえ石垣が美しい。高くて上に行くと垂直になっています。これがすばらしい。
四国の城は海を利用した海城が多いのですが、ここも現在はその面影が少ないけれど古地図にはそのように描かれています。

大手二の門 桝形虎口になっている

大手一の門

生駒親正
美濃可児に生まれる。信長の美濃攻めに臣下となる。信長により秀吉配下の武将に任じられる。秀吉に1000石与えられ戦功を重ねて、さぬき17万1800石になる。関ケ原では子は東軍に属して、親正は西軍に与した。負けたので高野山に入る。子が家康についたので本領は安堵された。後にお家騒動のため改易になった。

京極高知 (きょうごくたかかず)
1637年松江26万石の叔父京極忠高の末期養子になる。高知は播磨龍野6万石に減封となった。1660年丸亀藩6万石に転封となる。 忠高が側女に産ませた子であるともいわれている。
忠高の父・高次はいとこの正室・初(浅井3姉妹の一人)とは子供が無かった。それで妹で徳川秀忠の正室お江の娘・初と忠高は結婚した。高知はそれで徳川家に知られたくなかったのでしょう養子とされた。
また、父の弟に同名の高知(丹後12万石)がいる。父の高次は関ケ原の前哨戦の大津城籠城戦で有名である。
2016-4-5
高松城 (玉藻城)
秀吉の四国平定で讃岐の領主となった生駒親正により築城された。
瀬戸内海にある城は海城が多い。宇和島、丸亀、松山城なども、現在は埋め立てられてその面影は薄いけれど、城の一端は海に接していて防備と海への進出を兼ねた海城である。 水軍を指揮して参戦することも多い。
堀には海水が引き込まれ場内に軍船が出入りできるようになっていた。 現在でも鯛などが堀で泳いでいるのが見られる。

高松城 海城としての図 上下の船溜まりに注目

本丸が無くなる前の海側から見た高松城

本丸へ続がる唯一の蛸橋

明治17年に天守は解体された

海側にある現存する月見櫓
思ったより現存する規模が小さかったので、期待外れのところもあった。海からの子の城の眺めは有名であったので、またs最大の海城ともいわたので、惜しまれる。
2016-5-8
三原城
小早川隆景が築いた浮城
三島城天守台へは三島駅構内から階段を上がっていきます。 このあたりは隘路になっておりそれゆえに城が作られ、また新幹線や山陽線を作るときには城を分断してつくらなければならなかったのでしょう。

本丸 天守台、 大きなものですが天守台は作られていない
南側は当時はすぐ海に面していて浮城とも呼ばれている。瀬戸内にあるお城の一正面は海になっているものが多く、その一つでしょう。

元禄初年 三原城下絵図 三原中央図書館より

明治43年 海から見た城跡

舟入櫓
小早川隆景が高山城・新高山城から移ってここに三原城を整備した。小早川水軍の軍港とした。

小早川隆景 1533-1597
毛利元就の3男で小早川家を継承した。

舟入櫓前に立つ聖トマス小崎像 ただここで母に手紙を出したというゆかりです。
2016-7-26
福山城
10万石の譜代大名にはできすぎた城
福山には船員時代に何度も製鉄所へ寄港しました。 製鉄所では、その当時でも荷揚げ設備が近代化されて大型化していて、長く滞在することはありません。 たまに泊まることがあると、若いバカさのせいでしょう、文化的なことには関心が薄かった。 従い福山にお城があるなんて気が付きもしませんでした。
爺になって、三原へヨットで訪問。 やっとJRに乗って福山や尾道を訪ねました。
福山城は1622年に完成した。新規の築城としては最も新しい城です。そのためか伏見城から移築されたものが多い。天守は昭和20年の空襲により焼けました。
譜代の臣水野勝成が備後10万石の領主となり、福山城を築く。10万石の大名の城としては大きすぎ、櫓の数も多く西方防御の拠点として役割を担った。

再建天守閣 博物館


2の丸南側石垣 月見櫓

筋鉄御門 重要文化財
伏見櫓 重要文化財
水野5代のあと阿部10代が廃藩置県まで続いた。
幕末の阿部正弘は福山藩主で老中首座を務めた。彼は日米和親条約を結び日本を開国させました。勝海舟を登用して長崎海軍伝習所などを創設。老中在任のまま江戸で急死した。

阿部正弘像 1819-1857
福山城も譜代の阿部氏が福山藩とは、ここにくるまでは、知りませんでした。見直しさせられました。
2016-8-2
甘崎城
日本のモンサンミシェル
大三島の東端の古城島というまことに小さい島に甘崎城はあります。 梅雨の雨のなかでその対岸に行き、やっとさがした地元の人に所在確認をすることができました。
昔は島は石垣で囲まれていたのだそうです。 明治になって塩田が盛んになり、それにその石を使ってしまった。 小さい島ゆえに由来をしらなければ過ぎてしましそうです。大三島の海の駅で知り合った地元ヨットマンに聞いてもあのあたりに確か小さい島があったなあ..といったところです。
アマは海人(海武士)をサキは防人の意。 アマを取り締まる役目から海上交通の役割になり、村上水軍の拠点となる。秀吉が覇権を握ると藤堂高虎が改修して属城となった。1608年高虎の移封により廃城となる。

古城島 甘崎城

大潮のとき陸続きとなる

案内板
近くの陸の駅から観光船で見られる模様。 ヨットでは水深が浅くて行くことができません。 沖を航行したとき海側より見ることができました。
日本のモンサンミシェルであるのにもったいない遺産です。史実に照らして復元してほしいものです。
2016-8-
岩城新城 甘崎城の支城
甘崎城と岩城新城とで鼻栗瀬戸へ向かう4つの水路を抑えられます。
1大三島と生地島の水路
2. 岩城島と生口島の水路
3. 岩城島と赤羽根島の水路
4. 津波島と伯方島の水路
村上海賊の砦は要所に多く存在しますがそれらのひとつです。
藤堂高虎が甘崎城を改造したのだが、ここをそうしたという云われは残っていない。この岩城島の反対岸には亀山城がある。

岩城新城 岬の鼻のようなところには城跡が多い
岩城新城から甘崎城を望む
2018-1-3
東山城 塩飽本島笠島
塩飽海賊の城
塩飽海賊の本拠地笠島に東山城がありました。 ここから通行する船を見張って通行料を稼いでいたことでしょう。 支払いの無い船は笠島に置いていた船で急襲して積荷もろとも皆殺しにしたということです。
海賊というと、最近のソマリア海賊は人質をとって身代金を保険会社からせしめるものになりましたが、カリブの海賊のように襲って積荷を奪うスタイルがイメ-ジとしてもっています。
日本の海賊は1割ほどの代金をとって支払えば水先案内もしてもらえるスタイルで、カリブのイメ-ジとは違います。いってみるならば、損害保険会社のようなものです。 耕地の少ない島ではそのような生業が必然的に起こったのでしょう。
本島の北東端にあり、高さ40m、見張り台跡も残っているというが確認できませんでした。天正の頃には讃岐天霧城主香川氏の甥、福田又十郎が塩飽を領して居城を築いたが、長曾我部との戦いに敗れて落城した。

空掘あと

土塁あと

ほとんど訪れる人が無く、笠島の街並み保存地区を見たあとに、フェリ-の出る泊港に帰る際に山に登り、遊歩道としての設備がありますので、訪れたらどうでしょう。
2016-8-15
宇多城
弓削島海の駅にヨットを係留して、1日自転車を借りて島を1周しました。
その途中に宇多城跡を見てきました。
中世の頃伊予の国(西条市)から来た宇田源次兵衛源明利という武将が、久司浦に宇田城(宇多城)を築いたと伝えられている。近くに火山というのろしを上げるのに使った山もあります。
久司浦はくじらからの名称と思われ、鯨漁がおこなわれたのか? 今では、数えられる程の集落です。 けれどもお祭りの山車の倉庫もあり、往時がしのばれます。
島の1周は本島、女木島、弓削島と自転車を借りて行いました。さすがに電動自転車を借りたところは楽です。坂のキツイところが多い宿命になります。 ほかのヨットマンは何もないとのお言葉ですが、そうでもあり、その確認にも意義が有るともいえます。 今後も機会があればやるつもりです。
弓削島北回りではグリ-ンセンタ-という名称のエコな名前のゴミ焼却施設が崖ぷちにありました。 これはこの島を離れて、ヨットで沖から眺めると、白い巨大な灯台にも見えて、海図にいう顕著な構造物・建物です。こんなものしかありませんが、桜並木がある島が多く、さぞかし春には良いところだと思われます。海からながめても。

城山 前方の頂き

久司浦

案内板
2016-8-7
村上水軍・海賊衆
熊島城 熊島村上水軍博物館
宮窪の瀬戸は大島と伯方島の間の狭い水路・瀬戸で10ノットにのぼる潮流があります。
現在の海図を眺めても暗礁がところどころにあり、とてもそこにあった熊島城にはヨットでは接近できません。 モ-タ-ボ-トのない昔では難攻不落のお城であったでしょう。 でもサイズ的には大きなものではありません。

熊島水軍城
近くの大島に村上水軍博物館があります。大三島宮浦から今治行きの急行バスに乗って島内バスに乗り換えて行ってきました。

村上水軍博物館
予約をすると博物館近くから熊島に上陸する観光船があります。通常は潮流体験のようです。
熊島村上水軍は長男が相続しただけあって最大の海賊衆であった。 毛利氏の盛況の契機となった厳島の戦いで大きな貢献をした。 また、信長との、石山本願寺に兵糧を運ぶ、木津川口の海戦で、毛利に与して勝利しました。 しかし 秀吉に疎まれて追放された。

雨の熊島 向こうにしまなみ海道の伯方大島橋が見える

伯方島に向かうフェリ-から見た 熊島
2016-8-4
青影城 因島村上水軍城(史料館)
弓削島から因島土生に高速船で渡り、そこらバスにて因島村上水軍城に行きました。
いかにもお城のような作りですが、城を模した博物館で元は家老の屋敷があったところ、ふもとにはお寺があり村上水軍の菩提寺で墓地があります。

因島村上水軍城・史料館

村上水軍の墓地
本当のお城は青影城といい、ここで船を見張り、現在は陸地ですが過去には海が入りこみ船隠しになっていて、片刈城の指示のもと出陣したとの館員の説明を聞きました。

中央台地状にあった青影城
村上吉充は因島村上氏の6代当主で、父の時代から毛利氏に近い立場であり、厳島の戦いで加勢して大いに毛利氏に貢献した。小早川水軍と共に大友軍と戦い、信長との木津川口の海戦で勝利した。関ケ原で毛利が30万石に縮封されたので1800石(2800石?)になってしまった。

村上吉充 第6代因島村上当主
2016-8-9
桜尾城
広島県廿日市市にあった当時は3方を海に面した海城です。 鎌倉時代に藤原親実が厳島神社の神主となり桜尾城を築いたといわれる。 室町時代には武田氏や大内氏の支配です。戦国時代には毛利氏の支配となった。毛利氏家臣の桂元澄や毛利元就の4男穂井田基清が城主になる。

大正時代の桜尾城
桂元澄の末裔である桂太郎がここを買い寄付して、現在は桂公園としてある。台形をなした高台の公園が現状です。そこを見に行った時は、女子中学生が集まってにぎやかにしていました。
桂太郎は明治の元勲で、日英同盟を結ぶなど、日露戦争のグランドデザインをした人です。彼なしでは勝利することはできなかったでしょう。

桂太郎

史跡桜尾城

公園からの下り坂道

桂太郎の寄付 桂公園碑
藤原親実が鎌倉幕府より桜尾城主に着任後(1220)に1233年に
天満宮を作ったといわれる。

廿日市 天満宮
また近くに菩提寺として洞雲寺があり、桂元澄のお墓や毛利元就が屋島の合戦で
討ち取った陶晴賢を桜尾城で首実検してこの寺に葬ったということです。

洞雲寺

桂元澄 夫妻の墓

陶晴賢の首塚 洞雲寺境内
2016-9-25
折敷畑の合戦
吉田郡山城
毛利の本拠地だった吉田郡山城に行ってきました。広島からは1時間45分かかるうえに、1時間に1本くらいの間隔で運行しているバスでしか行けない不便なところに、今はなっています。
日本屈指の山城といってもよいと聞いていますが、実際に眺めてみますと、急峻な山のイメージではありません。標高300mですが比高200mで徒歩1000mくらいで本丸にたどりつけます。3層の天守閣があったといいます。
毛利氏が大きくなるに従い城規模も大きくなりました。 国人領主のころには山の一部の本城の郭として残っています。
広島城に移るまで、ここは使われていました。 関ケ原の戦いで敗れ、萩に転封になると廃城になります。
歴史博物館から毛利元就のお墓に行き、その横にある山道を1000mくらい登って行くと本丸にたどりつきます。 博物館近くで杖(無料)を貸してくれるところがあり、それを利用すると歩くのに便利です。ちょうど小雨降りで傘を持っていたので杖替わりでそれを使いました。雨量の多い日には整備が悪いので、本丸まで行くのは止めたほうがよいでしょう。 そうは言っても、普通でも本丸まで足を延ばす人は多くはないようです。 遺跡の現状に変更を加えることはできませんが、あまり環境がよいとはいえません。
帰りは尾崎丸を経由する山道があります。この道が昔に使われていた登城道のようです。

吉田郡山城 遠景

古図

毛利元就のお墓

本丸跡 後ろの高台が望楼台跡で一番高い所

2の丸跡

御蔵屋敷跡に残る石垣
2016-9-26
広島城
毛利氏は関が原で負けて30万石余りで萩に押し込まれるまでは大国でした。 吉田郡山城に本拠を構えていましたが、内陸の山間部盆地では施政に不便を感じて広島に城を築城して移転します。
幕末の長州藩の意識がこちらには強すぎて、広島城を毛利氏がつくったとは思えません。 実際に見てみますと茶色の板壁が、しっくいの白壁でできたお城とは印象が違い、エレガントに感じます。 原爆で天守閣は全壊してしまいました。現在はコンクリ-トで再建したものです。 二の丸は木造で再建されています。

2の丸遠景

2の丸 入口

天守閣
城内にある護国神社で、最近は大変に珍しい白無垢の美しい花嫁さんをみかけました。 また本丸には日清戦争のときに明治天皇がおられた大本営跡や師団本部の跡もあります。

城内護国神社での白無垢花嫁さん
2016-9-28
仁尾城 (讃岐)
台風避難で仁尾のマリ-ナで2回にわたり5日ほどヨット滞在しました。 自転車であちこち廻ってみる。そこで、いかにもお城がありそうな小高い丘に、やはり城跡がありました。 仁尾城です。 現在は覚城院として、城風の建物としてあります。
長曾我部氏の四国制圧のなかで、落城します。城主細川頼弘は500の兵で奮戦して3000の兵に立ち向かいました。城は落城し、火を放って城兵は自刃した。 住民はその日が天正7年3月2日であったので、それを哀れみひな祭りをとりやめた風習が残っているという。節句の日にひな祭りも一緒に行っているといいます。

仁尾城跡 現在は覚城院

仁尾城址にある戦没者のお墓

仁尾城から見た仁尾の町
2016-10-28
追補
天神山城 (讃岐)
今では漁港とマリ-ナに挟まれた天神山に神社と展望台しかありませんが、室町時代から安土桃山時代にかけて、仁尾浦を守備するお城が
あった。仁尾城の海城の機能を持っていたのかもしれません。 今では埋め立てられたので海際に建てられた様子は少なくなりました。船溜まり
などもあったと思われますが定かではありません。 舟入櫓として仁尾城と連携していたのでしょうか?
天正年間の城主は吉田佐兵衛兼種と伝わる。長曾我部氏の仁尾城攻撃の際に一緒に落城した。 規模が大きいわけではないので、さびれた展望台
にでも行かないと気が付きません。

仁尾マリ-ナから見た 天神山城址

残る石垣と案内石
2016-11-1
今治城
関ケ原の戦いの後1602年に藤堂高虎により築城された。 3重の堀を持ち、海から舟を引き入れることができた海城である。同じく藤堂高虎がつくった海城・宇和島城(高松城をいう人もあり)と黒田如水の中津城を日本三大海城という。
市民から親しまれたお城で明治の廃城令で取り壊されてしまったが、天守,御金櫓、山里櫓、鉄御門、多聞櫓と復元された、天守は史実的に明確でないので、模造天守とされている。
市街地にあり徒歩で行けるので見にいかれるとよいでしょう。

今治城

桝形になっていて狙い撃ちされそうです

3重の堀の面影はないが 堂々としたものである
2016-10-31
大洲城
今年の3月に宇和島へ行く。その途中で電車が肘川の鉄橋にさしかかったところで、堂々とした大洲城を目にしました。 大洲という場所さえ余り知らなかったのですが。
今度、広島より松山にヨットで寄港。さっそく大洲に向かいました。
大洲城は高知と伊予の接点になり交通の要衛です。 14世紀に宇都宮氏により築城される。宇都宮氏は毛利氏の伊予出兵で降伏。長曾我部に通じた家臣により城を追われた。
秀吉による四国平定で小早川隆景により落城。1595年藤堂高虎により近世の城郭として整備される。 脇坂安治、加藤貞泰と城主が代わり、加藤氏が明治まで続いた。 現在の天守は2004年に、往時の姿をほぼ正確に復元したものと言われている。

肘川より望む 大洲城

天守を望む

城郭模型
7万石くらいの大名の城はこんなものかと思わせる規模で思ったよりコンパクトな城がまえです。このサイズ規模なら完全に城全体を復元できぬものでしょうか?本当の地方創成になると思えます。

現存する三の丸南隅櫓 中は見学できます

三の丸南隅櫓の前にある公園
陽明学の中江藤樹は初めの藩主につかえ、城内に作られた大洲高校の敷地内にあります。在校生に聞いたらわざわざその場所まで案内してくれました。礼儀正しい親切な高校生でした。 あいにく日曜日で閉館しており中を見ることできませんでした。そんな校風ゆえノ-ベル賞の発光ダイオ-ド・中村さんの出身校で記念碑がありました。

中江藤樹の像

中江藤樹邸跡

中村さんノーベル賞記念碑
2016-12-6
鹿島城と得居通幸
今治をヨットで訪ねた折には、来島城には残念にも行くことができませんでした。
松山堀江にもやいを取ることになり、鹿島城に行ってきました。
鹿島城で活躍した得居通幸・とくいみちゆき・1557-1594の時代を概観してみよう。村上海賊の3つのうち村上来島海賊は古くから河野氏に属していたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉の調略によりそれに従った。それで、河野氏は毛利氏と共に来島村上氏を攻めて、村上通総は来島城を脱して秀吉のもとに逃れた。兄であったが庶流ゆえに嫡男の通総に譲った得居通幸はこの鹿島城に籠り守りぬいた。毛利氏と秀吉が和議を結んだことから容認される。秀吉の四国攻めでは先方を果たす。朝鮮の役で死亡する。

村上水軍の戦いの図

鹿島城跡 現伊予北条市沖合

鹿島城 案内

来島通総 肖像
わずかに石垣が残るところがあるだけです。主郭も2の段も小さなものです。でも急峻な崖で成るこの城は落とすのに困難であろうと思われます。井戸が必ずあるはずですが、見当たりませんでした。こんな小島で頑張った得居氏はたいしたものです。
今は野生の鹿をまじかに目にすることができるのみです。

2の段 鹿がうろついています

残っている石垣か?
島の歴史も古く神功皇后がこの島に立ち寄り眺めた岩や髪を洗ったという岩の伝説が残っています。

神功皇后の御野見立ちの巌 昇って見ると素晴らしい瀬戸内海が
2016-12-8
湯築城
道後温泉に行ったとき、伊予鉄道の市電で行ったのですが、その駅の手前の駅が道後公園になっています。電車の中で気が付いたのですが、そこは湯築城跡の公園でした。そのときは松山城しか興味がなく、このお城のことは失念しておりました。ヨットで松山に再訪したのでここに来ました。
河野氏の伊予の本拠となるお城です。長曾我部氏に狙われていたが、秀吉の命を受けた小早川隆景により湯築城は落城した。小早川隆景、福島正則と城主が変わるが1587年に廃城となった。後の松山城に建材が流用されたという。

案内図

外堀

内堀

本丸最高部にある 現在の展望台

展望台より見た松山城
近世の城郭とは違い、2重の堀で囲まれた平城でも防御には強そうには見えませんでした。戦国乱世の末期では容易に落ちそうです。
城内の半分ほどは発掘調査され武家屋敷も再現展示されています。
2016-12-9
岩国城
雨の日はヨットの整備を休みにして、付近を散策します。写真が鮮明でないのはご容赦ください。
岩国城に行ってきました。有名な錦帯橋は岩国城と街を繋ぐための橋だと知りました。 山城で本丸は山で、ふもとには2の丸や3の丸があり、それと城下町をその橋で結んでいました。

錦帯橋
完成からわずか7年で廃城となった。 1615年の1国1城制ができると支藩の岩国城は本藩・長州藩の串崎城の廃城と合わせた。

城図

吉川広家 1561-1625
吉川広家は最近になって、関が原の戦いの最大の功労者といわれています。家康も広家に防長2国を与えるつもりが、広家は本家の改易を防ぐためにその2国を本家に与えるよう交渉し、自分は岩国3万石(後7万石)に甘んじた。子供の心を親知らずでしばらくの間陪臣の地位に貶められていた。

本丸石垣

霧にかすむ 再建天守 コンクリ-ト造り
中級家臣の目加田屋敷や家老の長屋門がふもとに残っています。

旧目加田屋敷
2016-12-13
松山城 二の丸庭園
松山城の二の丸庭園に行きました。11月であったので、さぞかし紅葉が美しかろうとの期待感でしたが、温暖化の影響で最盛期が遅くなったのでしょうか、行ったときはさほどのことはありませんでした。
それよりも驚いたことは松山城の堅城ぶりでした。山頂にある本丸もそうですが、ふもとにある2の丸もスゴイです。本丸部分とふもと部分は2つの城があると言ってもよいでしょう。徳川の四国の要の城でそのように作られたということです。

3の丸より2の丸を望む

2の丸 多門口

高低差を利用した桝形虎口が多重になって迫る

黒門跡

2の丸にある井戸 発掘されたもの

2の丸庭園 紅葉風景

2の丸庭園図
ここから本丸までの登山口があるので、ロ-プウエイで本丸にいくのではなく徒歩で今度は行ってみたい。
2016-12-14
中津城

中津城 (コンクリ-ト製模擬天守 萩城天守がモデルという)
ヨットで中津を訪ねるプランでしたが、あいにく上関・山口県を出港したとたんに濃霧におおわれて、港に引き返すハメになりました。霧が晴れて9時ごろに再出港する。入港時間の関係で行き先を変更して大分県・ムサシのマリ-ナへ(大分空港近く)行く。翌日レンタカ-で中津に行ってきました。

中津川(山国川)を天守から望む
中津城は黒田 官兵衛(如水)が築城した。山国川の河口にある平城であるが堀に海水を引き込み海への交通に配慮した城である。大阪へは早舟で3日で行けたという。

城割図
その後細川氏がこの地を領したことにより改築されて、石垣に黒田と細川の跡が残る。

石垣にある黒田と細川の継ぎ目 左が黒田で右が細川
細川氏の次は幕府譜代の小笠原氏から奥平氏になり幕末まで続く。
黒田如水の息子長政は如水が熊本の一揆成敗で留守の間に敵対していた城井氏をだまし討ちした。その家臣も待機していたお寺で斬殺された。その後寺の壁を塗り変えても赤くにじむので、赤壁にしてしまったという。

赤壁合元寺
家康と握手を重ねたという長政に、その時の左手が何をしていたのかと問い詰めた如水の逸話があるという。
秀吉も如水にわずか12万石しか与えなかった。石田三成にも20万石の両雄であった、両者ともその2-3倍の領地を秀吉が与えていたなら歴史も変わり、豊臣家は残ったであろうにと思います。 息子の長政は関ケ原の働きで筑前52万石になりこの地を去った。
奥平氏になり蘭学が盛んになり解体新書の翻訳なり、福沢諭吉らが輩出した。行かなかったが福沢記念館もある。
2017-7-29
沼田城
やまどり号 沼田まつり
ホ-ムで待っていたら、臨時列車やまどり号に乗ることになり、こんな列車があるのかと驚き、数日後に群馬・沼田へ行ってきました。
特急並みの快速列車で上野-沼田を不定期で運行しています。 車内はゆったりとした3席です。展望席・キッズル-ムなどがあります。
指定席料金520円でのれます。安くてお得。おススメです。

やまどり号

キッズルーム

ゆったり 3席の配置
沼田城は、昨年の大河ドラマで真田のことをやっていましたが、幸村の兄とその正室の小松姫で有名になりました。沼田氏が作った城ですが、上杉・武田・北条・徳川の争いのなかで沼田氏は滅び、真田信幸の城となる。関東では5層の天守は他に江戸城しかなかった。真田5代、天領,本多3代、黒田2代、土岐12代で明治を迎えた。旧沼田藩士の久米民之助によって荒れていた城地が購入され沼田町に寄付された、公園として現在にいたる。真田改易のさいに城はこわされたので、天守や城門などは残っていない。新しく天守を再建したいとする動きもあるようです。コンクリ-トでなく木造の再建を望みます。

模型 5層の天守がある

鐘楼

天守跡

わずかに残る石垣
公園内には国の重要文化財・旧生方家の民家と殿様であった土岐氏の洋館が移築されています。

旧生方民家 薬種店をいとなむ 17世紀に建てられた

土岐氏邸宅 渋谷から移築
真田の伝統,尚武の気風が残っているのでしょうか?今日はお祭りの日にもかかわらず掛け声の気勢を発して剣道の練習をしていた。いかにも城跡で古風な建物から聞こえてくるのがふさわしい。

城跡にある武道館
帰りのやまどり号の乗車時間までに時間があったので、たんばらラベンダ-パ-クに行くつもりが、バス便が少なく、小生と連れ合いは沼田まつりを見学した。
わが町のほうが沼田より人口が多いはずだが、ハリボテのような恥ずかしい山車ではなく、沼田は伝統的な資金をつぎ込んだ豪華な山車で、小生はここの往時の豊かさと勢いを見せられた思いです。

沼田美人を先頭にしてお祭りパレ-ド開始です

伝統的な山車
2017-8-5
安岐城・豊後

大友家の3家のひとつ田原家により築城されたという。大友宗麟が次男親家に田原家の家督を継がせようとして争いが生じ落城した。
豊臣秀吉により大友義統は改易になり、馬廻衆であった熊谷直実の血筋という熊谷直陳が1万5千石で城主となる。彼により近世城郭として改修され、関ケ原では西軍に属して敗戦後に大垣城内で謀殺された。その合戦中に黒田如水の軍により落城した。

安岐城跡

現在神社になっている天守跡 3層の天守があったという

熊谷氏による改修想像図
この時は、マリンピアむさし海の駅に停留しています。実はヨットの停泊場所さがしのなかで、安岐城跡の案内を見つけて、ここに来ることになりました。近くに銭湯もあり穴場的なヨット停泊地と思われます。

安岐港 大分空港の工事で使用したと思われるスペ-ス
2017-8-8
宿毛城・松田城
愛南町・愛媛県にある海の駅へ佐伯・大分県から豊後水道をヨットで横断して着きました。その地は高知県との県境でもあり、バスで宿毛に行く。

宿毛城は松田城とも称し、土佐一条家の支配下にあった。長宗我部元親は松田城を落城させた。関ケ原合戦の後に長宗我部氏は改易になり、山内一豊の土佐入国で甥の山内可氏が六000石で入城する。その後に一国一城の幕命により破壊される。

天守跡にある神社 勢いが感じられない

宿毛城・松田城跡碑
高知県は幕末に活躍した藩だけあって、浅学で古楽好きな小生にはソプラニスタの岡本知高しか知りませんでした。大きくはない町ですが興味を引く人物がいました。

林有造(1842-1921)
林有造は幕末に土佐藩の松山征討軍の斥候として、また、北越戦争に活躍。普仏戦争の視察に大山巌、品川弥次郎と一緒に中浜万次郎を通弁として同伴させて渡仏した。高知県の初代長官となる。征韓論の時に板垣退助とともに辞職する。西南戦争の前に西郷隆盛や江藤新平と通じる。土佐出兵計画で逮捕され入獄。
兄の岩村通俊は西南の役に鹿児島県令で弟の岩村高俊は佐賀の乱の佐賀県令で政府側にあったのは皮肉である。
出獄後は自由党の領袖となる。議員となり大臣として国政に参画した。引退後は宿毛に帰って郷土のために尽くす。日本最初の真珠養殖事業を手掛けたが、災害により挫折。それがなければ伊勢志摩に先んじていたでしょう。
来年の大河・西郷どんにどこかで登場するでしょうね。

宿毛歴史館に展示されている書

林有造宅
2017-8-11
亀山城・岩城島

岩城八幡宮鳥居と階段
愛媛県上島町岩城島に亀山城はあります。 明徳3年(1392年)村上修亮敬吉により築かれたといわれる。村上海賊の城というよりは砦である。本廓には現在は岩城八幡宮があり南北にある2つの廓とで構成されていた。
現在は陸側から神社に至る階段が設置されているが、昔は城の周りを登っていく登城路で本廓に達したと思われる。急な崖沿いの道で海側からの攻撃は難しい。城の鼻には船をつなぐ杭穴がのこっているという。潮が高く見えず。 また岩城古城・支城との間には船隠しがあったというが、現在は埋め立てれられて陸地になっている。岩城島と赤穂根島との狭い水路にある。近くの岸に岩城古城という支城があるというが小さいもので家も立っていて確かめることができなかった。教育委員会で聞いてみたが明確にはなりませんでした。
杭穴・ピット
本廓より対岸の赤穂根島を望む
登城路
岩城島には航行を監視する村上海賊の城が岬の鼻や見通しのよい小山にあったようだが、表示された看板が無いのか見つけられませんでした。
2017-12-29
熊本城・震災復旧工事中

6月17日に長崎からJRで熊本に行き、熊本城を見に行く。 20日に「元太鼓櫓」が倒壊したとの報道がありました。 城内にはまだ見学に入ることができず、周りから眺めるだけの現況になっています。 加藤神社から天守の工事の様子がよく見えた。

石垣の高さといい、本丸以外の櫓にも他城では5層の本丸かと思えるようなものがありその城規模と造りには驚かされた。現存する宇土櫓の他に5基の五階櫓があったという。
その堅城ぶりは他には大阪城しかないように思われる。 復旧に何年かかるかわからないけれど終えた時には再訪したいものである。

宇土櫓
以下震災被害の写真です。

戌亥櫓

今度崩れた元太鼓櫓・西大手門

飯田丸3階櫓

未申櫓

北十八間櫓

長塀 西南戦争で活躍した塀が崩壊していた
2018-7-3
平戸城
平戸瀬戸を航行している時に見る、また平戸に停泊しているときに、ライトアップされた平戸城をキャビンから望むのは格別のものである。 ブランデーやワイングラスを手にしていたら、さらにと云ったところでしょう。

松浦鎮信(まつらしげのぶ 1549-1614)が城建設を開始。関ケ原では子の久信が西軍に属したが、東軍に与し疑念を招かないように城の一部を焼却した。家康は壱岐と松浦郡6万千石を安堵した。慶長12年・1607に大火で平戸城は全焼した。これも幕府に疑念を持たれないような行動ゆえとも言われている。100年後に幕府の許可を得て、宝永4年・1707に再建された。再建にあたって赤穂城と並んで山鹿流の城郭といわれる。

幸橋(重要文化財) オランダ式のアーチ石橋

天守

地蔵坂櫓

北虎口門(搦手門)

見奏櫓

乾櫓
2018-7-14
名護屋城
名護屋は秀吉が尾張中村の出だから、名古屋と関係があるのかと思っていました。よく考えてみれば名古屋は、秀吉死後の関ケ原以降に家康が作った名古屋ですので、関係がないと分かる。 当時に尾張の中心は信長以来の清州だった。
松浦水軍である波多氏一族・名護屋経述(つねのぶ)が領した垣添城がここにあったとされる。それゆえに名護屋城と命名されたのか。
秀吉の朝鮮出兵の前線基地として、わずか5か月で築城された。大阪城に次ぐ城であったと云います。 地図を見るとこの位置が、朝鮮・対馬・壱岐・名護屋と一直線になる。朝鮮への出兵へ、この立地は好都合であった。 秀吉の死と共に廃城となる。わずか7年余であった。城の周りは諸大名の陣屋があり10万とも20万人が住んだといわれる。島原の乱のときに原城のように利用されるのを嫌い一層破壊された。 唐津城や仙台城に遺構が一部移されたという。
この地がその後も開発利用されることがなく、長い間忘れさられていた。 幸いにも、最近よく目にする、本丸に野球場や役所・学校等が建つこともなく現在まで残る。城の遺構が櫓や天守は無いけれど、そのまま残った。 入り口には博物館があり、まずそこを見学するとよいでしょう。陣屋跡は時間が無くその詳細を見ることはできなかった。由緒ある広沢寺も行けませんでした。

名護屋城博物館


大手門

本丸大手

天守台

天守柱石跡

天守から望む

遊撃丸

馬場跡

搦手口

馬場櫓台

2の丸長屋建物跡

博物館の展示 安宅船

丹羽長重陣屋跡

博多にある聖福寺に移築された 方丈院
2018-7-19
唐津城・舞鶴城


博多より糸島市・船越までヨットで向かい。午前は、野村望東尼が流された姫島に行き、午後は唐津城に行きました。 福岡で知ったのですが、唐津へは東京から横浜へ行く感覚で地下鉄に乗り行けるのだと分かりました。
唐津城は慶長13年・1608に完成した平山城です。 寺沢広高が築城し名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
城は本丸・2の丸・3の丸・外曲輪に分かれています。寺沢以降は譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城。寺沢の12万石で始まり廃藩前は6万石でした。
寺沢広高(1563-1633)は尾張の生まれで、秀吉に仕え取次として活躍、長崎奉行になる。朝鮮出兵では補給や輸送の任務を勤めた。 石田三成のように武断派からは嫌われたが、関ヶ原で家康につき4万石(天草領)の加増をうける。 この領地石高が実際より過大なものであったので、大きな負担を領民に課すことになり、天草の乱の原因となった。 没後嫡男の堅高が継いだが島原の乱の責任で天草を没収され自殺する。子が無く断絶した。
広高は1000石取りの家臣を40人も抱えるほど有能な家臣を大事にしたが、そのために日常は堅実で家臣と同じ飯を食うなどして慕われたという。

唐津城下町絵図

復元天守

天守から唐津湾を望む

3の丸 辰巳櫓

辰野金吾(1854-1919)生誕地 日銀本店などを建てた建築家

奥村五百子(1845-1907) 尊王攘夷運動に参加、愛国婦人会を創設
2018-6-28
小倉城
現在残っている規模の小倉城は細川忠興が造る。 天守閣の屋根に破風が無く唐造りと呼ばれる。(破風は今でいうド-マ-のようなもの)
14世紀から大内氏、菊池氏、高橋氏、毛利・森氏、の持ち城となり関ケ原の功で細川氏のものとなる。細川氏が熊本に転封になった後は譜代の小笠原氏が幕末まで続く。 天保8年・1837に天守と御殿が焼失。
幕末に第2次長州征討で高杉晋作に攻められてあっけなく開城して逃げ去ったのは不思議である。それなりの本丸・松丸・北の丸・2の丸・3の丸を持つ総構えの城であったのに。
幕臣の志気が低かったということでしょう。

復元天守には 大入母屋破風、千鳥破風、唐破風がついている。

西の口門

鉄門跡 一般家臣のと城門、 旧第12師団司令部正門

着見櫓 現在は漬物店が入居

大手門跡

堀

下屋敷の場所にできた庭園と書院を復元した。

りゅう弾砲

下関・厳島神社にある太鼓 高杉晋作の小倉口の戦いの戦利品
2018-8-5
福岡城
豊前中津16万石に構えた中津城より関ケ原の戦功により筑前52万石に転封になり、黒田長政が福岡城を1607年に竣工した。 はじめは名取城に入城したが、手狭なためにそれを廃し福岡城を築城する。

CGによる本丸再現(類推)
天守の存在は議論されているようだが、最初はそれを作り幕府に遠慮して天守を取り壊したようです。 天守跡の石垣は残っている。

天守台
城遺跡はあちこち広大な敷地に点在していて、見学していても、まとまりを感じられずであった。確かに50万石にふさわしい規模の大きなお城であったと思います。 行政による復元計画があるようで、角櫓や塀ができると、その規模から立派なお城になる予感がします。 下調べに留意してオリジナルなものを復元していただきたいものです。

多聞櫓 城内より 内部非公開

本丸表御門 崇福寺へ移築された

下之橋御門(右) 潮見櫓(左)

潮見櫓(伝)

旧母里太兵衛邸 長屋門 移築されたもの

祈念櫓 鬼門の位置に建てられ僧が詰めていたという
2018-8-25
八条原城

八条原城(志和神社)と志和盆地の閉塞予想箇所 赤☆5か所
神機隊の本陣跡・西連寺から徒歩で八条原城跡(志和神社)に向かいました。今夏の集中豪雨の影響を受けて名前を知らない小河川の屈曲部には土嚢が積まれて改修が待たれている場所も見受けられます。 芸備線と山陽線に挟まれた盆地です。この地は駅から徒歩では利用できず、日に5-6便程度のバスしかなく、車が無いと生活は不便でしょう。
幕末に外国との脅威が意識されると、海沿いの街は脅威を感じていました。幕府による江戸の台場、佐賀藩の長崎外海の砲台、福岡藩の犬鳴御別館、長州藩の勝山御殿などがその対策に設営されました。同様に広島藩は海に近い広島城に不安を覚え、広島より20kmばかり北東にある志和盆地に城を築きました。経済的に恵まれた雄藩にしかできませんでしたが。
志和盆地は700m級の山に囲まれ、内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川(地点を地図で特定することはできませんでした)を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できることや、この地で8000石が収穫できて自給体制に不安が少ないことからこの地が選ばれる。実際に幕末には神機隊から残存部隊が封鎖個所を警備する。
藩主邸宅、政事堂、米蔵、練兵場、文武塾が作られた。明治2年12月になり明治が安定すると工事は中止される。

志和神社(八条原城)

八条原城跡 石碑と碑文

図面

この麓にあり
2018-11-4
五日市城 (幸崎城・光明寺城)

五日市付近地図
携帯のマップを使って不案内の地を散策していた。 その画面に五日市城跡があったので探してみる。 携帯を見ながらウロウロとしていると、そこは道の突き当りであった、買い物帰りの女性が「どうしましたか?」と声をかけてくれる。五日市城跡のことを尋ねました。近くに急傾斜地になっている小山があり、家も建っていて住んでいる人もいるようでだが、そこではないかと教わりました。

奥の小山で家が建っている城跡

急傾斜地駆の立札案内
調べてみると、この地に亀山と小亀山と呼ばれた小高い場所があり、西側に江戸時代まであった八幡川があり二つの並んだ小山を利用した五日市城であったという。 亀山はすでに壊されて宅地になり、現在、日本アライアンス教団の教会がある。教えて頂いた女性は今考えてみると、この宅地に住まわれており、灯台下暮らし、御当人もお気が付きでなかったようです。

日本アライアンス教団教会
この地は厳島神社領であり隣接した武田氏、後には大内・陶と毛利との対立で重要視された。宍戸氏の居城あった。近くの海老山城を支城として持つ。毛利氏がこの地を抑えてからは城の重要性が無くなる。
2018-11-7
杵築城

守江湾・八坂川より見た杵築城・模擬天守

三方を川と海で囲まれた要害の都筑城
北は高山川、東は守江湾。南は八坂川に囲まれた2つの台地に築かれた杵築城。 大友氏に属する木村頼直により築かれた。大友氏が秀吉により改易され木村続直も自刃し滅びた。 その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。
譜代の能見松平家は、松平家の庶流を祖として三河の時代から徳川に仕える。長篠の戦いや大阪夏の陣で戦功を挙げた。家康6男の松平忠輝の付け家老となり改易になったが連座することなく、独立大名として取り立てられた。横須賀、出羽、摂津、豊後高田と転封を続け杵築に定着した。

杵築の漁港にヨットを係留し、そこから天守が望まれるので、目標として30分ほど歩いて城へ到着した。 天守(模擬)と上下台地にある武家屋敷がみることができる。こじんまりまとまっているが、それなりに風情がある町並みがある。5月の連休にお城祭りがあったようだが、当日は終わって後かたずけをしていた。

天守

北台武家屋敷
2019-6-19
日出城
「関サバ」や「城下かれい」の地域ブランドは知られてきています。 小生はさっぱり食した覚えはないのですが。 さて、その「城下かれい」のお城はどこでしょうか?
ヨットで日出城へ訪ねるつもりだったのが、杵築の漁港でアンカ-トラブルに巻き込まれて、巻き込まれたロ-プを除くために潜るハメになり、ここ日出の港への寄港を取りやめ別府に変更した。 そう、城下(しろした)とは日出城のことです。 現地を訪ねて分かった”にわか知識”ですが。
お城近くに的山荘という格式の高そうな料理屋があり、お昼には城下御膳が5400円で食べられるといいますが、小生はその身分でないので「城下カレイ」はもちろん食べてはいません。
別府から日出へはJR日豊線で320円20分ほどの近距離にあります。日出城跡のほとんどが小学校の敷地と化しています。 天主部もまたその敷地内です。 取り囲む石垣は残っています。
初代藩主木下延俊が義兄の細川忠興の協力で築城した。 北政所に続がる関係で家康につき3万石の小藩として維新まで続く。

日出城下町図

日出城(陽谷城)図


外大手にある時鐘

鬼門櫓 鬼門・北東の隅がわざと角が切ってある珍しいもの

天守石垣 三層の天守があった
明治初期まで城は存在し取り壊される前に実測が行われたという。規模も小さいことから復元されたら、良いものになるのではないかと思う。小学校は移転してもよいのでは? お城ファンの願望にすぎないのだけれども。
2019-6-25
佐伯城(さいきじょう)
佐伯・大入島海の駅へヨットで行き、そこからマリンバス200円で佐伯に着く。 佐伯城を訪ねる。 徒歩30分くらい、JR佐伯駅からは徒歩20分程度で行ける。甍には武家屋敷の雰囲気の残る通りを歩いて登城口・登山口に至る。帰りはタクシ-を利用した。
天守や櫓、塀は余り残ってはいないけれど、石垣は多く残っているのでお城の雰囲気は大いに感じられてよい。再建したら面白そうである。
毛利(森)高政が一六〇六年に城を完成させた。2万石の外様であるけれど、城の規模は石高から想定されるより大きく感じた。山上の本丸と2の丸は焼失し、甍に3の丸を増設してそこに居館をつくり藩の運営をした。 高政の親は信長に仕え、高政は秀吉の近習として仕える。秀吉の光秀討伐の大返しの際には、兄弟で毛利に人質になった。その際に毛利輝元に気に入られて毛利姓をもらう。関ケ原では最初は西軍に属したが東軍に投降した。1601年に佐伯2万石に転封になり佐伯城をつくる。

佐伯城 案内図

三層の天守があったが一六一七年焼失した

本丸へ登山口

3の丸櫓門

本丸入り口

2の丸

本丸から望む
2019-6-27
大分・佐伯城跡から4層階段状石垣 専門家「特異な構造」
毎日新聞 2019/07/04 10:36

© 毎日新聞 本丸の外曲輪下で見つかった階段状の石垣=大分県佐伯市の佐伯城跡で2019年7月2日、衛藤親撮影
大分県佐伯市の佐伯城跡から4層の階段状をした石垣が見つかった。佐伯市教育委員会によると、18世紀前半に大雨のために崩落した斜面を補修した際に築かれたもので、自然石を使う穴太(あのう)積みの技と、堤防などの石組みに似た技術が合わさった特異な構造という。専門家は全国的にみてもきわめて珍しいと指摘する。【衛藤親】
石垣は、本丸下の外曲輪北側斜面で見つかった。土や雑草を取り除いたところ、高さ13メートル、幅約30メートルにわたる大規模な石垣が現れた。石垣を補強する際に築く縢巾(はばき)石垣が4層の階段状になっている。また、各段の上は水平ではなく斜めにせり上がっていて石で覆われている。石垣の隅が斜面の地形に沿うようにカーブを描いているのも特徴だ。
市教委によると、1734年(享保19年)の「御城修理絵図」に、大雨で外曲輪東側の塀や石垣、斜面が大きく崩れたと記載されている。今回4層の石垣が見つかった場所と一致するため、独特な石垣は復旧のために築かれたとみられる。
城郭に詳しい佐賀大学の宮武正登教授は「縢巾石垣が4層にもなっている例は全国にない。保存状態も良く、極めて貴重だ。河川の堤防など治水事業に使われる技を城郭の補強工事に取り入れたと考えられ、これも例がない。高度な技術で本丸を守るために工夫されたのだろう」と語る。
佐伯城は1601年に佐伯藩に封じられた毛利高政によって1606年、八幡山(現在の城山)に築かれた山城で、「鶴屋城」と呼ばれた。
臼杵城・丹生島城
ヨットで臼杵に入ったので海岸方面から城に入った。 案内が不十分で天守跡も最初は分からず、反対側の大手から戻って天守跡にたどりついたほどです。 あとで公務員風の通行人に家内が苦情を述べたが、人違いでとんだご迷惑をおかけした。その彼は市に申しておきますと良い対応をしてくれたのだが。 大手方面から見学をすれば印象が違ったのかもしれない。 城下町の雰囲気を残した地域もあります。
大友宗麟が1556年に府内の館・大分から臼杵丹生島城へ居を移した。 キリシタン大名として栄え多くのキリスト教施設があったというが、往時の面影は見あたりませんでした。 三浦按針がめざしたのもここで半ば漂着みたいに、臼杵湾の一角の黒島に上陸した。今回はそこへは訪ねることはできなかった。
大友氏は九州探題と云われるほど6か国を支配する大国であった。しかし朝鮮の役で敵前逃亡の罪により、秀吉に改易され滅んだ。
稲葉貞道が5万石で入国した、幕末まで外様として続く。 稲葉氏は美濃で斎藤氏仕え、信長、秀吉に従う。関ヶ原では当初西軍に属し犬山城を守備する。その後に東軍へ寝返る。
城は丹生島に築かれたので4方を海に囲まれた要害であった。現在は埋め立てられている。大友氏の時に島津から攻められてポルトガルから輸入したフランキ砲を利用して撃退した。本丸に配備されていたという。レプリカが城跡にある。

三浦按針が上陸した黒島

本丸付近図

大手付近

卯寅口門脇櫓

島津軍を追い返したフランキ砲

武家屋敷
2019-7-1
延岡城 ・県城
JR延岡駅は素敵な図書館が付属したモダンな駅舎があります。あとで備中松山城を訪ねたときにJR高梁駅も同じ作りであったので、改装パタ-ンのひとつかと気が付きましたが。そこからバスで10分くらいで延岡城へ到着します。
延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川の合流地点にあるお城です。1601年に高橋元種によって築かれた。本丸には3層の天守があったのだが1683年に焼けて現存しない。天守台跡に鐘付き堂があり、決まった時刻に鳴らすことから、市民に親しまれている。そのことをテレビで見て知っていた。
高橋元種は秋月種実の次男として生まれ、高橋鐘種の養氏となる。秀吉の九州征伐で降伏して、延岡に53000石を与えられ、延岡城・縣城を築城した。関ケ原では大垣城に籠城し西軍が敗れると内応して家康に所領を安堵された。1613年改易となる。その後は有馬氏、三浦氏、牧野氏と続き、内藤氏で維新を迎える。
高橋家 高橋元種1587-1613 | 改易
有馬家 有馬直純1614-1641 | 有馬康純1641-1679 | 有馬清純1679-1692 | 越後糸魚川藩に転封
三浦家 三浦明敬1692-1712 | 三河刈谷藩に転封
牧野家 牧野成央1712-1719 | 牧野貞通1719-1747 | 常陸笠間藩に転封
内藤家 内藤政樹1747-1756 | 内藤政陽1756-1770 | 内藤政脩1770-1790 | 内藤政韶1790-1802 | 内藤政和1802-1806 | 内藤政順 1806-1834 | 内藤政義1834-1862 | 内藤政挙1862-1871 | 廃藩置県
西南戦争の時には内藤家旧藩士は西郷軍に加わった。熊本で敗れたので本営を延岡に移す。延岡付近で激戦が行われたが、延岡は良き交渉により戦火をのがれたという。

延岡城と城下町図

千人殺しの石垣 ひとつを外すと崩れるという

天守台にある 鐘と番小屋

北大手門
草津城・安芸
スマホのグ-グルマップを利用していると、城跡がよくのっています。それで草津城へ行ってみました。 瀬戸内海沿岸の地形は海岸近くまで200-300mの山がせり出していて、平地の部分は限られている。 そこで近代化が進むとその土地は鉄道や道路用地が土地を寸断してしまう。 この草津城も山陽線、広島電鉄、道路で分断された。すぐ高層のマンションも隣接している。
草津城は麓にある草津湊(現在は埋め立て)を水軍の拠点として重きをなしていた。 城主は厳島神社,安芸武田、大内・陶、毛利と変遷した。毛利氏になって、水軍の将である児玉氏が治めた。大阪の本願寺に米を届けたのもこの児玉氏である。明治の児玉源太郎は子孫にあたる。 関ケ原以降は福島正則が受領して、ここに大門を作り、城を廃した。

草津城跡、 道路が迫る

山頂にある城跡石碑と案内板

草津城登山口

隣接するマンション

南海側から草津城を望む
2019-7-15
備中松山城
天守の残る唯一の山城、日本の現存10天守の一つである備中松山城に行く。JR高梁駅にある観光案内所で情報を得て、乗り合いタクシ-の手配をしてもらいました。 麓からも行けるでしょうが、健脚に自信のある方のみです。 時期によりますが、ふいご峠(8合目)までのバスもあります。 そこでタクシ-を下りて天守に向かう。 登りは思ったよりキツク休み休みで時間がかかった。2時間ぐらいの見学時間だったが、登り降りの帰りの時間も含むことから思いを残す状況になった。待ち合わせ時間が迫り急ぎ降りることになる。 じっくり見たいのなら車が便利ですが、利用できる時期があるようなので下調べが必要です。
雲海に浮かぶ城でも有名ですが、城を望む隣の山から見ることになり、時期と行程は観光案内所で尋ねてください。また、案内所のある駅と一体にになった図書館は、洒落た建物で同じ設計者なのか宮崎県延岡駅でも似たものがあった。
この城は鎌倉時代からの歴史があり、北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその
頂を中心に全域に及んでいます。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二
重櫓、土塀の一部が現存している。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。
この藩には山田方谷が有名です。彼の行った藩政改革は幕末までのモデルと言われている。司馬遼太郎「峠」の河井継之助は方谷から学ぶためにこの地を訪ね花屋に泊まった。 方谷は後に明治政府が行った殖産興業と軍制改革を先立って行う。 藩主は譜代の老中筆頭を勤めた板倉勝静であった。最後の将軍と共に大阪城より江戸へ船で逃げ帰ったほどである。 しかし、方谷は体面を保つ形で恭順をして、備中松山城を無血開城した。 また、函館にいた藩主を撤収させて謹慎させる。藩の存続を許された。

天主

本丸入り口

天守から見た本丸

重要文化財 2重櫓

復古図

新しい守将 本丸にいる 先の豪雨でここへ迷い込んだという

2の丸

野面積 城内で一番古い

御膳棚跡

4の平櫓跡

厩門跡

黒門跡

3の平櫓跡

足軽箱番所跡

重要文化財 3の平櫓土塀

NHK 真田丸で使用された風情

上太鼓丸

御根小屋復元図

御茶屋橋と高梁高校
2019-7-19
引田城 (ひけた)
ヨットを引田港に係留したので、引田城を訪れた。登山口も二か所整備されているが、港より遠いオ-トキャンプ場方面の登山口が登りやすいようだ。
高松城の支城であった引田城と丸亀城である。引田城は1615年・元和元年に一国一城令で廃城となる。 室町時代より城はあったが、秀吉の四国征伐の功で仙石秀久がこの城主となる。仙谷は九州征伐の戸次川の戦いで敗れ改易される。その後に生駒親正がここへ入城して織豊系の城として現存する引田城をつくる。
引田は風待ちの港として利用されて、その守りとして引田城は港と隣接する80mの山に存した。 丸亀城は天守も現存して威容を誇るが、引田城は一部に石垣が残るが忘れ去られた城となった。

引田旧港・風待ちの港より引田城を望む

引田城想像図

旧港近くの引田港側登山口

本丸

天守付近 案内板がない

北二ノ丸にある石垣 補修中で青いシ-トが掛かっている
天守の案内板が見つからないなどもう少し見せる工夫が必要でしょう。 旧市街に比べて訪れる人は少ない。 天守を再興したり、大手口の整備をすればもっと観光資源のひとつになれそうな気がします。
2019-11-23
備中高松城
高松城や松山城というと香川県や愛媛県にある四国の城だと思っていました。最近に岡山にあるそれぞれ備中の付く城を訪ねました。 秀吉の水攻めで有名な高松城は備中にある。
そこは岡山からJRももたろう線(吉備線)に乗り備中高松駅にて下車、徒歩10分あまりです。

備中高松城図
備中高松城は今では田んぼの中にある場所で案内板が無ければ通り過ぎてしまうようなところです。 蔵造りの資料館があり、館内には城主の清水公の像があった。

資料館にある城主清水宗治像

案内板 蔵は資料館

本丸跡

2の丸跡

3の丸跡
ここの城は土塁によって構成されていた関係で石垣の残った城跡ではない。秀吉は黒田孝高の進言で堤防を築いて水攻めをしたのだが、公園になった堰き止め跡が残る。

高松城水攻め築堤跡
付近に切腹した城主清水氏の殉死した家臣の「ごうやぶ遺跡」がある。

ごうやぶ遺跡
2019-11-29
姫路城
姫路城は先代ヨット「速魚」を造っているとき、46年も前に2週間会社を休み高砂にあるヨットメ-カ-に通ってその製作過程を見ていた時にそこへ行きました。 当時は今のように造船所に頼んで出来上がりを待つことも出来たのですが、ヨット建造にオーナ-が立ち会う古い慣習があった。
造船所の休日に高砂から山陽電鉄に乗り姫路に行き、姫路城を見て来ました。当時は昭和の大改修とかで、姫路城はすっぽりと足場で覆われていました。 それから半世紀、速魚Ⅱで木場ヨットハーバーに係留して、カミさんとそこを見に行くことができました。姫路城は個人的にヨットとの縁と感じています。

姫路城
平成の大改修がほとんど終わりシ-トで覆われているところも少なく、予想していた漆喰がまぶしく白っぽい印象ではなく、程よい白さであった。

総構の姫路城モデル
駅前から大通りをまっすぐ歩くと姫路城である。駅近くまで外曲輪があったようだがビルが立ち並んでいて面影はない。
西国街道が城内を通っていてそこに中濠があり石垣が残っている。

車が通っているのが西国街道 中濠の石垣 本陣があった。
大手門前には「い・ろ・は・に」と名称をつけた土産物店が並ぶ。ここから橋を渡って大手門を抜け、いよいよ姫路城だ。

大手門
1000円を支払い、菱の門をくぐる、皆は天守方面に向かったが、左へ折れて西の丸へ向かう。

菱の門

西の丸図
西の丸見学入り口でビニ-ルを借りて靴を入れて、長い渡り廊下を歩き化粧櫓の出口まで歩く、ここは秀頼の妻であった2代将軍秀忠の娘千姫が池田家へ再婚して、ここに暮らしたところであるという。この廊下の一室に暮らしたのではなく庭の中に御殿が建っていたのであろう。 天守よりもこの一角のほうが個人的には昔の城らしく感じた。
ここから天守に向かう。

菱の門からは「い・ろ・は・に・ほ」の防御に趣向をこらした門をくぐり天守に出る。
姫路城は一回では堪能できず、搦手方向からも行ってみたいものです。

備前丸からみた天守
天守内は他によくある展示物が少なく現存をそのまま良く見ることができる。老人には階段がどこの城も急こう配なので苦労するが、ここは中央にも手摺があり助かった。
余談だが名古屋城ではエスカレ-タ-が有り建て替える際に問題になっているが、オリジナル重視が大事なことなので昔無かったものは再現できない。 バリアフリ-の問題は特別な日を設定してボランテイアに援助してもらい見学をしてもらう工夫が必要でしょう。
現在の姫路城は池田輝政が主な形をつくったのだが秀吉や黒田が城主の時代があった。古い黒田官兵衛の石垣も残る。

黒田菅兵衛の石垣
2019-12-3
はやめ