城廻り 2


  今までの 城廻り

 

    海賊衆・村上水軍 まとめ





項目

 

伯方本城、木ノ浦城、金ヶ崎城 (伊予伯方島)

浜田城

一の城

丸谷城再訪問

門司城、 丸山城

上関城

国府尾城 (こうのじょう)

因屋城

櫛山城、鶴丸城、笹島城

萩城

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     伯方島の城、   金ヶ崎城、木浦城、伯方本城  


 伯方島にある城跡、伯方本城、木ノ浦城、金ヶ崎城   青丸はヨット泊地 




  ヨットを停泊させている弓削海の駅より連絡船で伯方島を訪れた。 伯方本城,木ノ浦城、金ヶ崎城をめざす。


  伯方本城


 この城は村上師清により築かれた。2代義顕は能島・来島・因島の3家に分立させて、嫡流が能島村上でここを本拠とした。金ヶ崎城、木ノ浦城、能島城はこの城の詰め城である。

  芸予諸島の村上水軍城  

  今治市の伯方支所近くで訪ねたが木ノ浦城は知られているが、満足な回答を得られなかった。この支所の北側あたりにあったと思われるが石碑や案内板は見当たらなかった。 後で調べると近くの禅興寺に案内板があった。


  今治市伯方支所

 

 禅興寺にある 案内板


 


   木ノ浦城


 海から模擬天守はよく見える。 そこへ行くのは少し長い坂道を登っていかなければならない。 天守は現在閉館中の歴史館である。 隣接して岩がヶ峰古墳跡がある。



  木ノ浦城  模擬天守




  岩ヶ峰古墳




    金ヶ崎城


 上図にあるように湾先の岬の先端に金ヶ崎城は築かれた。 


 手前の3差路の真ん中を登るようにして歩いていく。最初は間違えて右を下ったけれど間違いであった。


  真ん中を行く

 

 みかん畑の先にお堂があり城跡の石碑があった。 ここが本丸になるのであろうか。 そこへ行くまでに石垣が少し残っていたり掘割みたいなものがあるようですが、開墾されているので正確かどうかは分からない。 


  金ヶ崎城、 石碑

 

  金ヶ崎城

 

 

 

  伯方島 木浦のヨット泊地

 

  伯方島油槽所の前は工事をしているが、ポンツ-ンが作られていて、ヨットが利用できそうである。 まだ、漁船は着けられていない。

 連絡船の利用していないポンツ-ンの両側も一時的にはヨットがつけられそうである。

 

  連絡船ポンツ-ン

 

  石油施設前の新港工事中の岸壁・ポンツ-ン

 

 

 

      2022-8-11






      浜田城


 浜田城は吉田重治が大坂の陣の功により伊勢松坂より石見浜田5万4千石へ転封されてこれをを築城した。 現在の浜田の町は浜田川を越えた地域に大きく発展している。 当時は北前船の寄港地松原湾・外ノ浦を北の備えとし、西と南は浜田川に囲まれ、東に内堀と外堀を設け侍屋敷と城下町を置いた堅固な城であった。 古田家は1648年に改易になりその後は譜代の大名が幕末まで続いた。 長州藩の抑えとして福山城と共にその役割を担った。

 第2次長州戦争の戦いで大村益次郎に攻められ、城を自ら焼き退避した。家康の願いはかなわなかった。




  浜田城と北前船の寄港地外ノ浦・とのうら 



 




 浜田城の南にある資料館の奥には本丸へ行く登り口がある。 登っていくと護国神社に着く。 そこには司馬遼太郎が書いた碑文があるけれど、後で分かったことでそれを見ず。 すぐに門があるがこの城とは関係のない県庁から移築されたもの。 登っていくと本丸跡にたどりるける。 3重櫓の天守があったという。 本丸から少し下って2の門跡に出る。 井戸跡と中の門跡まで来ると山を下った感じだ。 大手門跡は見なかった。

 本当は大手門から中の門。2の門と登りながら本丸に着いた方がよい見学路だと思います。 5万石の城なので小ぶりでよくまとまった城だと思います。


 

 浜田城資料館、  御便殿(ごべんでん)、大正天皇の宿泊にたたられた  




 護国神社

 

  本丸 説明板

 

  2の門跡  2の丸にはこの門と焔硝蔵があった




  井戸跡




  中の門跡  東正面の重要な門




 松原湾は天守より眺めることができて、その地形を見ると外ノ浦は北前舩の風待ちの湊であり、城も近く交易と防御を兼ねた重要な地点であると分かる。この浜田に2度もヨットで訪問したのだから、今回は外ノ浦へ停泊すれば良かったと悔やまれる。




  浜田城から見た 松原湾・外ノ浦




    2022-8-15






    一の城

 

  因島周辺の城、   赤字城は訪問済み、青字城は未訪問

 

 弓削海の駅にヨットを停泊させ, せとうち交流館内の観光協会で自転車を借りて「一の城」へ行く。  上弓削からフェリ-(190円)に自転車を 乗せて因島の家老渡に着いた。 海岸沿いの道を北へ三庄湾方面を走る。 ほどなく登り路になり、下車して違時間ほど登る。 掠浦休憩所で少し休み、その先を少し行くと峠になったのか下りになる。 なかなか案内板がみつからない。 不安になり引き返す。 分岐する交差点があったので今度は反対に登ってみた。

 長戸庵近くで案内板を見つけた。 しかし登り口を見つけられず。 断念した。

 

 案内板

 

 

 長戸庵 近くの休憩所

 

 

 三床湾を望む

 

 下記は見事に成功された「備後一の城放浪記」です。 再トライする機会があるでしょう。

  https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/ichino-jyo/



     2022-9-2


 

 


    丸谷城(丸屋城)再訪問


 

  隠岐巡行で再び下蒲刈を訪れたので、丸谷城を再訪した。 




  銚子に置いている仲間と着岸した



 前回は本丸跡を訪れただけであったのでそれから続くと思われる天神鼻まで行ってみる。

  ヨットは天神鼻のある半島状の土地(丸屋城域)東側に着けた。ここはここ10数年前に整備された港域である。 昔は西側に大津泊・湊がありそこは地乗りの航路・沿岸よりの航路の風待ち湊として栄えた。また、水軍城の船隠しもあったという。



  大津泊、現在は面影なし、養殖設備が浮かぶのみ。  右には安芸灘大橋

 

  尾根伝いに歩いてゆくと曲輪と曲輪の間には堀切が散見されるのですが、詳しくは分かりません。


  堀切1

 

 堀切2と土塁

 

     丸谷城・丸屋城     2021-12-10

   http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-792



    2022-9-3


 

 


   門司城、 丸山城


  門司城と丸山城


 新門司マリ-ナではいつものように5日も風待ち待機となった。 その間にマリ-ナの自転車を借りて、門司城と丸山城を見に行く。 門司までは時間もかかる行程で、トンネルを3つほどくぐることになる。 トンネルはサイドに歩道が設置されていないものを抜ける時には、ハナハナ危険な走行になった。


   丸山城


 門司へ行く途中にある丸山城を先に訪れた。そこは白野江植物園の近くにあるということなので、園内の作業をしている地元の人に丸山城のことを尋ねた。 すぐ隣のはずなのに「ご存じない」ようだ。小生は付近を探索したが、残念ながら案内板などを見つけることができなかった。 うむ、断念した。

 丸山城は門司城の支城であったということだ。




  白野江植物園


 下は無事に丸山城へたどり着いた熱心な方です。


     丸山城、  福岡県の城  ピグの部屋


  https://ameblo.jp/fukuokakennosiro/entry-12478525943.html




    門司城


  続いて門司城をめざす。途中に田ノ浦のヨットを係留している場所を通った。

 

 田ノ浦ヨット泊地



  門司城 遠景





  門司城の地図



  案内板



 門司城は関門橋の近くにある。和布刈第2展望台を目指して登って行きそこで関門海峡の景色を眺め、さらに少し行くと門司城跡の案内板がある。



  門司城跡石碑


 門司城は平知盛が築かせたという。大内氏、大友氏、毛利氏がこれを争い最後は毛利氏に帰属した。関ケ原の戦いが終わると細川忠興が城代を置き1617年に廃城となった。

  帰りは、また、トンネルを抜けるのかと気力を無くして、タクシ-を探した、折り畳み自転車でなかったので,載せてくれるタクシ-が少なく、何台目かのタクシ-に乗ってマリ-ナまで帰った。



       2022-9-4


 

 

 

 


       上関城



  上関城、番所跡、茶屋跡、  赤丸はヨット係留地


 上関は九州へ行くのによく使う中継地である。 弓削がヨットの聖地と人気になっていたが、ここにポンツ-ンが整備されて利用しやすくなり、今では弓削を抜いて上関が一歩リ-ドしたようである。 夕方近くのここへの入港では、係留余地がない可能性がでてきたので、昼頃の入港を考えるようになった。

 今までの訪問で四海楼御茶屋跡、番所跡、台場跡などを見てきた。今回は上関城へ行くことにした。




   上関城


 能島村上氏の村上吉豊によって築城された。村上義顕(よしあき)が、この地に海関を設け、代々居城しました。帆別銭をめぐる争いで陶氏と戦いがあった。秀吉の海賊禁止令により廃城になったと推定される。

 模擬の見張り櫓と冠木門をみることができる。 遺構は見当たらない。




  案内板





 模擬物見櫓





 模擬冠木門

 

     2022-9-1

 

 

 

 


   国府尾城 (こうのじょう)

 

 島後 隠岐の島町、  国府尾城と後醍醐天皇行在所跡・隠岐国分寺

 

  何も予備知識がないまま、レンタサイクルで西郷湾の西郷大橋付近で通りすがり偶然に国府尾城跡案内板を見つけた。 国府尾神社の裏山に城は位置する。

 後知恵ですが、この城は隠岐一国を統一した隠岐清政(宗清)によって築かれた。清政は尼子氏の力を借りて統一。後に毛利氏に攻められて吉川氏の傘下となる。 江戸時代には堀尾氏の支配となるが、一国一城の令により廃城となる。

 

  国府尾神社・城  登り口

 

 

 国府尾城地図

 

  階段を何か所か登っていくと国府尾神社にいたる。 ここは2の丸か本丸かは不明である。 さらに奥の細い道を進むと井戸や堀切が見られた。

 

  国府尾神社

 

 

 井戸跡

 

 

 

 堀切

 

          2022-8-31

 

 

 


    因屋城

 

  隠岐中の島にある村上家の敷地から因屋城に行ける。 敷地の中に祖先が作った城跡の遺跡を持つ。 有力豪族であったのだろう。

  戦国期には毛利に味方し1566年尼子についた丹後・但馬の海賊衆が攻めよせてきたが撃退した。

 

  村上家の敷地横にある因屋城の案内板

 

  因屋城  本丸跡

 

      2022-8-25

 

 


    櫛山城、鶴丸城笹島城



 

 1.鶴丸城、2.櫛山城、 3.笹島城




  温泉津から帰る間際になって、近くに城跡があることを知り。探して見た。ここは毛利氏の時代に石見銀山の銀を積み出す港に使われていた。 そこは現在の温泉津港ではなく湾先にある沖泊湊になる。 

 物揚岸壁のあるところからトンネルを抜けて徒歩5分の近くに沖泊湊がある。 そこには細工の手の込んだ飾りがある恵比寿神社があった。それを見た時には、それが打ち捨てられたような集落にふさわしくないように思えた。ここが銀の積み出し湊であったことを知れば、往時の盛況さゆえに、その神社はここに在るのは納得のいくものである。 

 温泉の入り口に内藤家・庄屋屋敷がある。 関ケ原合戦の敗戦により毛利家が30万石に減封になった時に、ここの管理を担されていた内藤家は土着して庄屋を務めた。鶴丸城を建てたと云われる。


 

  

   内藤家 庄屋屋敷



  

  恵比寿神社



 日本は江戸時代の前期の最盛期には世界の銀の産出量の1/3を算出した。その大部分を石見銀山が占めたという。大内・尼子・毛利とこの銀山を取るのに戦い、最終的には毛利氏に銀山は属した。 毛利氏はここを守るために内藤氏に鶴丸城を築かせた。


 下図のように、鶴丸城跡は温泉津港灯台のある岬にある。櫛島にある櫛山城と鶴丸城、また入り口の対岸にある笹島城の3つでこの沖泊を守っていた。いずれも時間的な制約があり、訪ねることができなかった。 後に行くことが出来る機会があっても、特に笹島城は何も整備されていないようなので笹薮を搔き分け登らねばbならないだろう、難しいと思われる。

 沖泊はヨット泊地として訪ねたいところである。櫛島の東側Aに小さい防波堤がありその内側にはつけられそうである。 錨泊や槍着けならもっとできそうである。 2回目の訪問ならここへ行けば良かったと思う。 年齢的にはもう無理そうなので、 若い方のここの訪問記でも読みたいものです。


 

  城跡と沖泊  


       2022-8-24
 

 

 

 




           萩城 ・ 指月城



 天守古写真

  

 萩マリ-ナよりバスに乗り東萩にて下車した。 そこで自転車を借りて海岸沿いに走って萩城をめざした。 途中に女台場(おなごだいば)に立ち寄る。武家の女性が海防のために作った台場である。 そこからは菊ヶ浜の家族連れの海水浴客を眺めながらほどなく萩城に至る。



  女台場、  高さ3m、幅12m、の土塁50mが残る



 若い時に萩に来た時にはお城まで行くことはできなかった。 指月山のこんもりした海岸沿いの風景の萩城跡をいつか訪ねたいという気持ちでいた。 約30年ぶりで来ることが出来る。 それもヨットに乗って。 



  指月山と菊ヶ浜



  安芸毛利氏はNHKで放送している「鎌倉殿の13人」に出ている大江広元を祖とする一族である。国人領主から大きくなり10か国を領する112万石戦国大名になった。吉田郡山城、広島城と移り、関ケ原合戦で敗れて周防・長門の2か国33万石に減封されここ萩城を築城した。 以前に見に行った吉田郡山城のように山頂の山城と山麓の居館という形のモデルを戦国も終わりその完成型のようなお城である。


  古図

 

 萩城は上図のように北・東・西を海が囲み南側に本丸と2の丸を堀が囲んでいる。山頂にある詰丸・要害城にも本丸と2の丸がある。



  萩城の模型





  本丸への御門と2の丸の石垣を望む



 東側にある2の丸への虎口門




 西側から天守台を望む

 



  天守台より西側を望む




  詰丸の登城口



 帰りのタクシ-の運転手によれば、このお城に来た観光客でも山頂にある山城・要害城(詰丸)には行く人は少ないのだそうです。 頑張って1時間ほどかかって登ってみた。 その途中に行き会う人は女性1人だけであった。




 



 詰丸要害門

 


 詰丸  本丸




 詰丸の搦手口




 詰丸から下を望む

 

              2022-9-12